シェアワールド ～死神の初恋～

第15話 死神の初恋⑫

　盲目（もうもく）の医者は小さく喘（あえ）いだ。

　それがハクロの問いに対する答えなのかは定（さだ）かではない。だが――

　殺す。

　殺す。殺す。

　殺す。殺す。殺す。

　ハクロの胸の奥で巣食っていた黒い影が堰（せき）を切ったように溢（あふ）れ出た。

　我を忘れて鎌をかざし、産婆めがけて振り下ろす。

　だが死神の刃はアンの首を取ることはなかった。

　憎（にく）き産婆の顔面に突き刺さる寸前、その切っ先が止まる。

　ハクロが己の腕をつかんだのだ。

　殺意が失せたわけではない。

　死を前にしたアンの表情に既視感（きしかん）を覚えたのだ。この女、

　――笑っている！？　

　サーシャだったものを殺めたときのように、アンは涙を浮かべて笑っていた。あまりにも似ているその表情がハクロの殺意を鈍（にぶ）らせ、女の命を繋ぎとめた。サーシャと出逢ってからハクロは、その笑顔を絶やさぬように、そしてその真意を問えるようにと己を鍛（きた）えてきたのである。

　まさか憎悪の対象に向けることになろうとは夢にも思わなかったが、それでもハクロは訊かずにいられなかった。

「なにがそんなに可笑（おか）しいんだ？」

「可笑しくなどありません。嬉しいのです」

「嬉しいだと？」

「はい。私は、ハクロ様と再会できることをずっと心より待ち望んでいました」

　アンは手をのばし、ハクロの髪に触れた。とてもやわらかく、そしてやさしく。小さくとも慈悲（じひ）深い掌だ。産湯につける助産師（じょさんし）というより母のそれに近い。

　ハクロにとって、それはあまりにも不可解で不愉快（ふゆかい）だった。まるで過去を繰り返しているみたいで、それは――視てはいけない気がした。

「やめろ、俺に触るな！」

　怖気（おぞけ）が走ったハクロは鎌を取り落とし、飛び退る。床を転がるようにしてアンから離れた。ただの人間にふたたび畏（おそ）れを抱（いだ）いたのだ。

「近づくな。俺は貴様を殺そうとしているんだぞ！」

「ぜひそうしてください。どうぞこの首を刎（は）ねるなり、ご自由に」

　アンは診察台からおり、ハクロの前で跪（ひざまず）いた。

　畏怖（いふ）すべき対象に傅（かしず）かれ、ハクロは困惑する。

「貴様は死を恐れないのか？」

「それだけの罪を犯しました」

「貴様の罪とはなんだ？」

「貴方様に忌み子の烙印（らくいん）を押しました。貴方様が真実ハクロ様であるならば、とうてい赦されることではありません」

「なにを持って俺が俺であると証明すればいい？」

「忌み名を知っているだけでも充分ですが……もしや十字架（じゅうじか）をお持ちではありませんか？」

「これのことか？」

　ハクロは懐（ふところ）からロザリオを取り出した。

　サーシャが持っていたものだ。それを渡すとアンは番（つがい）を外し、ロザリオをふたつに割った。手探りだが動作に迷いがない。構造を知っていないと難しいだろう。器用に開くとなかに刻まれた文字を指でなぞっていく。それから息を漏（も）らして唸（うな）った。

「どうやら本物のようですね。これをどこで？」

「墓場で、ある女から譲（ゆず）り受けた」

「その女――首に入墨がありませんでしたか？」

「あったと思う」

「名前もその者から聞いたのですね？」

「そうだ」

「その女はいま、どこに？」

「分からない。すぐにどこかへ行ってしまった」

　ハクロはとっさに嘘を吐（つ）いた。

　サーシャと面識（めんしき）があるようだが、友好的な関係だったとは思えない。アンの声にはかすかな怒気（どき）が含まれている。一緒にいると正直に伝えていいものか判断がつかなかった。

　幸いというべきか、アンは眼が見えない。サーシャも熟睡（じゅくすい）しており、しばらくは起きないだろう。先の展開次第で打ち明ければいいと考え、サーシャの存在を伏せたまま続きを促した。

「それで、そのロザリオが俺とどう関係してくるんだ？」

「これはハクロ様の母君が、生まれてくる貴方様を過酷な運命から護るために、女神の加護を求めて作らせたものなのです」

　そう云ってアンはロザリオを返す。

「俺に母がいるのか？」

「もちろんです。貴方様は土から創られた泥人形でも、魔界から召還（しょうかん）された悪魔でもない。取り上げた私が保証いたします。貴方様は――人の子ですよハクロ様」

　その台詞（セリフ）を聞いたとたん、ハクロは口許を押さえて嗚咽（おえつ）した。

　アンの言葉が真実である保証はどこにもない。だが、名前を呼ばれ、人として認識されたのはサーシャに続いて二人目となる。数が増えたからといって信憑性（しんぴょうせい）が増すとはかぎらないが、やはり信じたいと思う気持ちが膨らんでいく。しかし、

「それでも俺は忌み子なのだろう？　間違いなく貴様がその烙印を押したのだな？」

　たとえ人の子であっても、そのレッテルが剥（は）がれることはない。

　名づけ親ともいえる産婆は膝を折り、地に頭をつけるように深く頭（こうべ）を垂れた。

「左様（さよう）です。ほんとうに赦されないことをしました」

「顔をあげてくれ、すんだことは仕方がない」

「では……お咎（とが）めは？」

「ない。もう殺す気は失せた。すべて赦そう」

「そうですか……」

　アンは胸を撫で下ろし、息を吐いた。

　緊張が解け、表情には安堵（あんど）の色がうかがえる。だが、それとは別に負の感情も垣間見（かみまみ）える。なにを考えているのか計り知ることはできないが、人間の感情は複雑なのだろう。

「代わりに教えてくれ。俺にはなにか忌み子と知れる特徴があったのか？　正直、これといった自覚がないのだが」

「ええ。ハクロ様ご自身に特異な点はなかったはずです」

「ではどうやって判断したんだ？」

「ハクロ様には辛（つら）い真実となるかもしれませんが……」

「かまわない。教えてくれ」

　続きを促すためにハクロは首肯した。

　しかしそれでもなお、アンは云い難そうに口籠（くちごも）る。

　いったいなにを隠しているのだろう。自覚はなくとも、よほど重大な瑕疵（かし）を見落としているようだ。不安は募（つの）るが、期せずして巡り合えた過去である。二度と訪れない機会（チャンス）かもしれないのだ。此処で訊かずに先へ進むことはできない。

　ハクロは辛抱強く待った。

　そして、長い沈黙が続いたのち――

　アンは視線を逸らせたまま、一言だけ呟いた。

「……眼です」

「眼？　俺の眼になにか異状（いじょう）があったのか？」

「いいえ。ハクロ様ではありません。それは、貴方様を見た者に発動するよう仕組まれた、呪（のろ）いでした」

「呪いだと？」

「呪文と云うべきでしょうか。生まれた貴方様を眼にしたとたん、眼窩（がんか）の底から黒い炎が沸（わ）きあがったのです」

「まさか、それで貴様の眼は――？」

　ハクロはアンに近寄り、その双眸（そうぼう）を覗き込んだ。

　白い眼球には真っ黒に濁（にご）った水晶体（すいしょうたい）がこちらを見ていて――

　反転した己の姿がどろりと溶ける。

　黒い、黒い影が姿を現し、ハクロを見て嗤った。

　無知な死神を見て嘲笑（あざわら）った。

　そして産婆は――とどめを刺すように残酷な真実を告げる。

「お察しのとおり、私が視力を失ったのは、貴方様を取り上げたときに視線を合わせたためなのです」

「嗚呼、なんということだッ。それでは……俺が貴様の眼を潰したというのか！？」

　ハクロは取り乱して声をあげた。

「落ち着いてください。ハクロ様に責任はありません。すべては忌まわしい呪いが元凶（げんきょう）なのです」

「だがその源（みなもと）となったのは俺なのだろう？　それが真実ならば捨てられて当然じゃないか」

　忌避（きひ）すべき死神は、視力を奪う呪われた忌み子として誕生したのだ。

　誰だって眼を潰（つぶ）されては堪（たま）らないだろう。疎（うと）まれて、避けられて当然である。

「俺は――いったい何人の視力を奪ったんだ？」

「当時、術師や神官（しんかん）など百名近くが立ち会い、そのほとんどが呪いにかかりました」

「そんなに？　たかがひとりの出産のために何故それだけの人が集まっていたんだ？」

「ハクロ様の母君（ははぎみ）は、それだけ高い地位にいた御方でしたから……誰もが無事の出産を願い、呪いを封じようと最善を尽くそうとしたのです。しかし結果はご覧のとおり。呪いの力は人智（じんち）を遥かに超越（ちょうえつ）しており、誰にも止めることができなかったのです」

「そこまでして護ろうとした俺の母とはいったい何者なんだ？」

「母君は、この地を治める領主の正妻（せいさい）でした。貴方様はその嫡男（ちゃくなん）だったのです」

「俺は領主の後継者（こうけいしゃ）になるのだな？」

　領主とは、その地を治める最高権力者のことだ。

　その妻の子となれば、次期領主ということになる。嫡子（ちゃくし）が呪われているとなれば領内外を揺るがす一大事となるだろう。隠蔽（いんぺい）したくなる気持ちも解らないではない。だが、次に産婆の口から突いて出た言葉は――さらなる闇を孕（はら）んでいた。