第14話 死神の初恋⑪

「こんな夜更よふけにどちら様でしょう?」

 奥から現れたのはハクロを取りあげた産婆さんばだった。

 杖を突いて歩くその姿を捉えた瞬間、

 どろり――

 と黒い記憶がよみがえる。

 生まれて最初に合わせたその眼、その顔、その表情がフラッシュバックした。

 サーシャと出逢ってからはほとんど思い出さなくなっていたが、記憶の表層に現れないというだけで、今でも脳裏に焼きついて消えていないのだ。どれほどときが経ち、忘却ぼうきゃく彼方かなたほうむり去ろうとも、ふとした拍子に現れては亡霊のように呪詛じゅそを吐くのである。お前は――

 忌み子だと。

 もちろんそんなものは幻聴である。

 ハクロ自身が無意識のうちに反芻はんすうしているだけなのだが……繰り返すうち、いつしか幻は彼のなかで人格を持つようになっていた。産婆は、リアリティを持ってハクロの記憶にみ続けていたのだ。

 だがそれはあくまで過去の亡霊としてである。

 とうの昔に架空かくうの人物となっていたはずなのに……いったいなんの因果で再び現れたというのか。なにか視てはいけないものを見ているのではないか。

 開けてはいけない扉を開けてしまったのではないか。

 そう思うとハクロは足がすくんで動けなくなった。

 魔法陣まほうじんが描かれているわけでもなく、結界けっかいが張られているわけでもない。玄関の先に在るのは魔界でも異世界でもなく、ただの民家だというのに、自ら金縛りに陥ってしまったのだ。

 自縄自縛じじょうじばくの魔法を解いたのは産婆の声だった。

「どうかしましたか? 夜は冷えますので、扉を閉めて、どうぞなかへお這入りください」

 幼いころから毎日のようにうなされていたその声は、意外にもれておらず、透き通って聞こえる。

 女は産婆ではあるが、老婆ろうばではない。

 若い女性だった。

 ハクロが赤ん坊だった当時、すでに成人していたはずだが、こうしてサーシャと見比べてみてもあまり変わらない。肌には張りがあり、髪も豊富だ。背筋ものびてりんとしている。約十五年ぶりの邂逅かいこうであるが、記憶のなかの姿そのままである。

 そこにハクロはひどく違和感を覚えた。

 ――この女、こんなに小さかったのか。

 空想のなかの産婆は、ハクロよりもはるかに巨大で、おどろおどろしくて、いくら自慢の鎌を振り回そうともまるで勝てる気がしなかった。

 だが実際はどうだろう。ハクロよりもずっと小柄で背が低い。

 その差に面食らったが、永い歳月を経て再会した今と昔で変わったのはハクロのほうである。

 成長過程の躰を作るために、多くのかてを得、そして排泄はいせつしてきた。生まれたときに在った躰はすべて、外から摂取せっしゅした命と取り替えられているのだ。そういう意味でもハクロは、昔とは別人といえるだろう。

 それでもハクロは忌み子であり、女は産婆なのだろうが……。

 変化は産婆にも訪れていた。この女、

 ――眼が見えていないのか? 

 まだ若く、杖に頼るような歳ではないはず。腰が曲がっているわけでもないし、両足はしっかりと躰を支えている。

 にもかかわらず、杖を使っているのは眼を患っているためだろう。両の瞼は軽く閉ざされ、ハクロを捉えていない。気配や物音など、視覚以外の情報に頼ってコミュニケーションを図っているのはあきらかだ。

 女は杖で床を突き、前方に障害物しょうがいぶつがないか確かめている。何度も慎重に繰り返しながら近づいてくる。その様子を見て産婆に対する印象が一変した。魔法が解けるように、己のなかで膨らんでいた妄想もうそうが急激にしぼんでいく。

 産婆は間違いなく過去の亡霊だが、神や悪魔といった人外ではない。

 負傷もすれば失明しつめいもする、普通の人間だった。

 ハクロは、結界を破るように普通の民家へ足を踏み入れる。

 なかは小さな診療所しんりょうじょといった感じで、診察台しんさつはひとつしかない。他はかんたんな作業机といくつかの棚だけだ。灯りを必要としないせいか診察室は薄昏うすぐらく、どこかさみしい。大きな窓から差し込む欠けた月だけが光源となっていた。

 今は産婆ひとりだけで、患者はおらず、手伝いもいないようだ。

 眠るサーシャを待合室の椅子に寝かせ、ハクロは奥に進む。緊張しつつも産婆の前に立つと問うた。

「貴様がこの街で一番の名医か?」

滅相めっそうもありません。ご覧のとおり眼をわずらっていますので……医者は廃業はいぎょうしました。今は按摩あんまくらいしかできないヤブですよ」

「名前は何という?」

「アンといいます」

 産婆はそう名乗り、軽く会釈した。

 過去の亡霊にもきちんと名前が在るようだ。考えてみれば当たり前の話ではあるが、得体の知れなかった存在がますます小さく感じてしまう。今までこんなものにさいなまれていたのかと思うと次第に黒い感情がこみ上げてきた。

 そんな敵意が向けられているとも知らず、アンは落ち着いた声で話す。

「どなたの紹介でこちらへ?」

「街の入口にいた兵士だ」

「では遠方からわざわざ訪ねていらしたのですね。最近は不心得な警備兵が増えておりますゆえ揶揄からかわれたのでしょう。申し訳ありません」

「貴様が謝る必要はない」

「金銭など要求されませんでしたか?」

「適当に渡した。額は憶えていない。気にするな」

 元はといえば、ハクロの装備や持ち物はすべて墓場で拾った遺留品いりゅうひんだ。落とし主は不明だが、おそらくこの世にはもう存在しないだろう。他人のものであったことに変わりはないし、金の価値もよく理解していない。しいとも思わない。サーシャのために使えればそれでよかった。

「それより、廃業しているとはいえ、医者としての心得はあるんだろう? てくれないか」

「私なんかより腕の良い医者はたくさんいます。今度こそきちんと紹介しましょう」

「いや、貴様でいい。よもや患者かんじゃを追い返すような真似はしないだろうな?」

「その心配には及びませんが……どのような症状でしょうか?」

「なんと云えばいいのか……説明が難しい」

「触れてみれば判るかもしれません。どうぞそちらへおかけください」

 そう云って按摩あんまは診察台のほうへ促す。

 しかし、差しのべられた手をつかみ、ハクロはそれを拒んだ。

「まだ訊きたいことがある」

「判ることはお教えしますが……あの、手を放していただけませんか。痛い――」

 ハクロは力をめ、女の華奢きゃしゃな手首を引っ張った。

 そのまま診察台に押し倒し、覆いかぶさる。

 サーシャを起こさぬよう静かに、死神が忍び寄るようにそっと顔を近づけ、そして睨みつけた。

「俺に見覚えはないか」

「分りません。眼が見えないと云っているでしょう」

「いつから医者をやっていた。答えろ」

「十五年くらい前からです。どいてください。声をあげますよ!」

「お産を手伝った経験は?」

「何人かこの手で取り上げています」

「その子たちの顔は憶えているか? 声は? 名前は?」

「今でも全員、鮮明に憶えています」

「なら、その子たちの名前を云ってみろ」

「云えません。守秘義務しゅひぎむというものがあります。それでなくとも、貴方のような狼藉者ろうぜきものに教えるわけにはいきません」

「殺されたいのか」

「子供が犠牲ぎせいになるくらいならば」

「その子供を捨てるような真似をさせておいて、善人ぶるな」

おっしゃっている意味が解りません。いったい何の話をしているのです?」

「取り上げたなかにハクロという名の子がいただろう」

「ハクロ……」アンは絶句し、眼を見開いた。「もしや貴方は――?」

 その瞳は黒くにごっている。

 光を通さない水晶体すいしょうたいに黒光りするものが反射した。

 ハクロが鎌を手にしているのだ。

 尖端せんたんを眼前に突きつけ、今にもアンを貫かんとしている。

 だがハクロは必死に歯を喰いしばり、最後の一振りを繋ぎ止めていた。

 殺してはいけない。

 殺してはいけない。殺してはいけない。

 殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。

 殺意で震える拳を堪えながらハクロはう。

「どうか教えてくれ。俺は――」

 忌み子なのか? 

 肝心かんじんな言葉は声にならなかった。

 しかしそれでも充分に伝わったようだ。

 ハクロを取り上げ、忌み子と名づけた産婆は頷き、ただ小さく嗚呼――とうめいた。

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