02 不穏
殺して欲しい、というのは、穏やかでない言葉だった。
少し離れた場所からは昼食をとる生徒らの笑い声が聞こえてくるような日常のなかで発せられた言葉。
遮るものがない太陽はあいかわらずさんさんと渡り廊下を照らしているのに、ほんの少しだけ温度が下がったような気がした。
「なんだって?」
努めて冷静に聞いたつもりだったが、喉の奥に詰まった何かがほんの少し声を掠れさせた。
「芥川蘭藍さんを殺して欲しい、って言ったんだよ」
見谷の口から出た音は、先ほどと何ら変わらない回答だった。
どういうことだ? 殺して欲しいだって? 誰に?
決まってる。俺に言っているんだから俺にだ。
「はっ、何言ってんのお前。なんで、俺が。つうか殺しとかできるわけないだろーが」
「え、そうなの?」
「当たり前だろ」
「でも依月くんは、その、人を殺してるんでしょ?」
久しぶりに、自分の心臓が跳ねる音を聞く。
なんだ、こいつ。え、なに。
「えっとね。わたし、見たんだ。依月くんが昨日の夜、男の人を殺すところ」
見谷曰く。
目撃したのだという。昨日のあの夜、あの現場を。
その場所にあるもので自然に殺す死神。ニュースではプロの犯行だと言っていたその人物を、見谷は目撃したのだった。
「あの近くに従姉妹が住んでるアパートがあってたまたま寄ってたの。そしたら帰り際にたまたま何となく見知った背中が見えたから、ちょっと追いかけたんだ。そしたらあの場面。ほら。決定的瞬間は無理だったけど、撮るのはできたんだよ」
見谷はスマホを取り出し指で画面を何度かタッチすると、俺に向けた。
傘を差している男に近づいている少年。遠景でしかも少しぼやけているからハッキリと俺だとは分からない。
確たる証拠になるかは微妙なラインだが、男の方はちゃんと鑑定すれば北伏見健司だと分かるだろう。警察の捜査が大きく進展するのは間違いない。
「というわけで、依月くんは、わたしのお願いを聞かなきゃならないの」
目の前の女子中学生はふふんと勝ち誇った表情で、それからほんのちょっとだけ胸を張った。
「オッケー?」という明るい声は、周囲からときおり聞こえてくる生徒らのそれと変わらないものだったが、それだけに殺人を依頼してきたとは思えなかった。
「一つ聞いてもいいか」
「いいよ」
「どうやってこれを」
「どうって……普通にスマホのカメラで撮っただけだよ」
「いやそうじゃなく。どうやって俺を見つけたってことなんだけど」
「? だから偶然、通りかかって」
偶然だって?
それはない、あるはずがないのだ!
だって俺には注目されない能力が――「アイツ」から借りている能力があるのだから!
見谷は聞かれている意味が分からないのか、形のいい眉をほんのちょっと傾けていた。
いや今はそれを考えても仕方がない。知られてしまったという前提で、俺はどうするべきかを決めなければならない。
結論はすぐに出る。溜息を――今度は半ば諦め気味に――ついて顔半分を隠すくらい伸びた前髪をかき上げ、見谷に視線を向けた。
「まあいいや」
「うんうん。人間諦めが肝心だよね」
「いやそうじゃなくて」
「で、どうやって殺すの? 絞殺? 撲殺? 毒殺? それとも腹上死?」
「話を聞け? あとそれ、最後の俺が死んでるぞ」
「あっ、そうだ。それじゃだめだよね」
あははと笑った見谷の笑顔は教室で見たことがない朗らかなものだった。彼女の意外な一面を見て少し驚いたが、表情には出さず俺は結論を口にした。
「その条件は飲めない。飲まない」
「えっ⁉」
拒絶の言葉に彼女は目を見開く。
「え、え? なんで? 依月くんが犯人だって証拠、わたしは持ってるんだよ?」
「そうだな」
「捕まっちゃうよ⁉」
「お前がそれを警察に持っていけばそうなるだろうな」
「なにその余裕ー……あ、もしかして! わたしを殺して口封じを⁉」
見谷はっとして一歩下がり身構える。
「いや俺にお前を殺す理由はねえだろ。するわけないっつの」
「だってこれを警察に持って行ったらマズくない?」
「まあマズい」
「????? いいの? 依月くん捕まっちゃうよ?」
「あん? 別にいいだろ。罪を犯した奴が捕まる。どこか問題があるか?」
「えっ……あ、うん。問題はなさそう……ってダメダメ!」
納得して頷きすぐに首をぶんぶんとふった。
こいつこんなにころころ表情が変わる奴だったのか。
教室で暗くイジメられているのに、こうして話すと意外に明るいことに少し驚きを感じた。
「依月くんは捕まりたいの?」
「積極的に捕まりたくはない。ただどんな理由でも俺がやっていることは犯罪だからな。ヘマして捕まるなら仕方ないってだけだ。自分が助かるために、誰かを犠牲にして生きたいわけでもないし」
ふぅっと吐息を吐きだす。それから背もたれに体重をかけ空を見上げる。
いい天気だ。
これからどうするかとしばし思案する。
両親は八年前に他界し身よりはない。大事にするべき人間はいないし、されもしない。終わりが来るのが今日だとしても何も問題はない。
半ばすがすがしくすらあった。
昼休みの終了を告げるチャイムが鳴り、生徒たちが校舎へ吸い込まれていく。
残されたのは俺たちだけだった。
黙っていた見谷が唐突に口を開いた。
「質量保存の法則。化学反応の前と後で物質の総質量は変化しないって現象はね、人生も同じ思うんだ」
言葉の意図を測り兼ねた俺は眉をひそめ、それから身体を起こし少女を見る。
「嬉しさは幸福として。不幸は災厄として。因果も巡り巡って返ってくる。きっと自分に返ってくるのを待っている」
「……いきなりなんだ? 変な宗教にでも入ってるのか?」
見谷は「まさか」と言いくすりと笑った。
「依月くんは理由のない人殺しをしないってことでしょ。だからそれってきっと、いつか自分にちゃんと返ってくるって言いたかったんだ」
「……そりゃ不幸だな」
「ううん。わたしが言ったのは因果応報って意味じゃないよ。いい事だってきっと返ってくるってことだもの。あ、もちろん不幸が返ってくるかもしれないけど」
少女はそう言って笑った。ただその笑顔はこれまで見せたそれより、ほんの少し曇っているように見えた。
「依月くんが確固たる信念を持ってるように、わたしにもあるって言いたかっただけ。人殺しなんてやりたくてやってるわけじゃないもんね。ごめん。自分でやりたくないことをやらせようとしちゃった。忘れて。誰かに言うつもりはないから」
たったと走り去るクラスメイトの後ろ姿をただ黙って見つめた。その姿が扉の中に消えたあと、教室で見せたことがないいくつかの表情を思いだし、どこかもやもやとした思考をかき消すかのようにもう一度空を見上げた。
太陽はもう雲に隠れていて、ほんの少し乾いた風が一吹き、肌を撫でていった。
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