13 殺意の理
豊島区にある繁華街に着いたのは、二三時五〇分だった。
メインストリートから少し外れた高速道路下から脇にある道へと入ると、女性向けの同人誌が多く販売されていることで有名な通りに出る。終電まであと数本という時刻でも人がそこそこいるのは、今日が土曜日で、社会人も学生も終電を気にする必要がないからだろう。
ここは金銭的にまだ裕福とは言えない若年層がたむろす歓楽街であり、
ホテルの入り口が見える看板の裏。対象が出てくるのを待っていると、小雨が降り始めた。
「降水確率一〇%だったのにな。引き当てたのは幸先いい」
『幸先悪いの間違いじゃない?』
トワリがひょいと顔を出した。空中から逆さになって現れるとは、まあ器用な奴だ。髪がだらしなく下がるのは気にしていないのに、ミニスカートみたいに短い和装の
「人ってのはな、周りに情報が増えれば増えるほど集中力を分散されるんだ。例えば歩くだけなら足を動かすだけで済むのに、そこに雨でも降ってきたら傘をささなきゃならないだろ? そうすると持つ手に意識を割かなきゃならなくなる。濡れてべったり肌にくっつくシャツなんかが気になり始めたら、10%くらいはそっちに意識を持ってかれる」
『約じゅっぱーせんと……結構少なくない?』
「俺には十分だ」
『あっそ。あ、ねぇねぇ。そういえばあたしと会った日も雨だったの覚えてーる?』
唐突に思い出したくもない話題を振られたので、「覚えてない」と素っ気なく答えた。
『はぁ。二人の出会いを覚えてないとかそれでも男の子でしょうか?』
「誰に問いかけてんだ誰に。俺はどうでもいいことは覚えてないだけだ」
「んん? あれあれ? ねね、もしかしてなんか苛ついてる?』
「……してねー」
『うそ。だってなんかいつもよりあたしに対する言動がとげとげしいもん』
「ならいつもと同じってことだろ」
トワリに軽口を叩いたが、嘘だ。本当はしている。奇妙で小さな感情が胸の手前に刺さって、苛つかせている。頭には、部屋に突然やってきた見谷未希の、少しはにかんだ笑顔が浮かんでいる。
浮かび上がってくる、得体の知れない不安。
誰もいない普段は一人しかいない部屋に同級生の女の子が来た。滅多に部屋にこない多々羅弐蝋が合わせるかのように来た。
この一ヵ月の間に、何かが、俺の知らないところで動いてたりするのだろうか。
ぽつぽつと黒い染みが地面に広がっていくが、対象はまだ出てこない。下げていた視線をホテルの入り口へ向ける。従業員からの情報によると岡野は数戦することが多いらしいので、出てくるまでもう少し時間がかかるのかもしれない。
今回の依頼は随分と急だったが、二蝋が手に入れた情報は信頼に足る。というより俺が調べるより圧倒的に精度が高く、そして質もいい。それにプロの情報売りでも知り得ないような情報もどこからともなう手に入れてくる。
例えば大物政治家の中学生時代の犯罪履歴だったり、人気アイドルの決して公になっていない結婚履歴だったり、福島原発の本当の現状など、一般人が決して知り得ないような情報だ。
俺も多少なりの情報網は構築していると自負しているが、二蝋のそれには到底及ばない。
いや。それでも二蝋の持ち得る情報は個人レベルを超えている。到底一人で調べきれるものじゃない。
だから俺は、二蝋には殺し屋斡旋という仕事の他に、何か本業を持っていて、そこの情報網を使っているんじゃないだろうか――そんな疑念を、最近抱くようになっていた。
出会って五年目になるが、俺は多々羅二蝋という男のことを、まだよく知らない。
「トワリ。お前何か分からないか?」
死神に聞いてみる。別に答えを期待したわけではなく、待つ間の暇潰し程度になるという軽い気持ちだった。しかし、
「トワリ。おい、トワリ?」
死神からは何の反応もなかった。周囲をそれとなく伺うが、少し派手めの和装はどこにも見当たらない。いつの間にかいなくなっている。
なんだよ。これじゃまるで俺が独り言を言ってるみたいじゃないか。
隣にあるコンビニから出て来た男女のペアから奇異の視線を向けられ、視線を下に向けた。
人の衆目を集めるのは好きじゃなかった。見られるということは、人に気にされているということだ。俺が何かしたのか、君は何かするのか、お前は何なんだ。見られることで人の根源を持っていかれる、そんな気がしてならないからだ。
雨脚が強くなり始めたのか、ぱちっと、雨露が頬にはねる。鬱陶しく生ぬるい感触に顔を上げると、ホテルの出入り口から中年男性と若い女性が出てくるのが見えた。資料にあった風貌と一致する。対象の岡野修に間違いない。
二人が駅の方へ歩き始めたので看板の影から出てついていく。時折、男が女性に話しかけるために横を向いている。男が笑顔なのに対し女の方は少々暗いのは、中で何か問題があったわけではなく、きっと元々こういう関係なのだろう。二人の間に気持ちの存在が証明できないのはハッキリと見て取れた。悲しむ人間が一人でも減るというのは多少気が楽になる。
二人は高速下の横断歩道を渡り繁華街の小道へと入った。メインストリートの半分ほどしかない道幅には人はまばらしかいない。他に人がいないわけではないので特に目立つわけではないが、それでもすれ違う何人からかは視線を向けられた。その度に鼓動が一つ早まる。
「トワリ。いないのか。能力がいる」
小声で囁くも反応はない。これまで呼んでもこないことはあったが、ここまで現れないことは珍しい――というより初めてだった。
息を止めている間だけ第三者の視界から消える――あの能力が使えなかったとしても、仕事をやり切る自信はあるが保険としては有能だ。
保険? 本当にそうか? あれがなければ何もできないんじゃないのか?
たった一つの自問が、じわりと自信を侵食し始めた。これまで持っていた余裕が唐突に陰りを帯び始める。
トワリの能力を借りずに仕事をしたことはこれまでに一度もない。
大丈夫、大丈夫だと言い聞かせ、ともすれば止まりそうになる脚に力を入れる。
そのときだった。曲がり角に差し掛かったところで、岡野がこちらを見た。
反射的に息を止めるがトワリはいない。意味がある行為ではなかった。それでもせざるを得なかった。
歩を進める速度を変えないよう、変えないよう、必死で、脚を、ゆっくり動かす。
岡野に近づいている。このまま真っ直ぐ。すれ違うまであと一〇歩。あと五歩。二歩。
このまま、このまま。
幅二人分の距離まで近づいたとき、岡野の視線が、俺の目をしっかりと捉え、太い唇が開きかけ、そして、
『おまたせー』
俺にだけ聞こえる明るく能天気で甘ったるい声が、背後から投げかけられた。
岡野の視線は通り過ぎる頃には、もう興味もないといったものになっていて、隣の女に二言三言話しかけると、特に気にした様子も無く歩いていった。
「はぁ」
その背中を視界の隅に入れつつ、俺は大きく息を吐く。
「トワリ」
『なぁに』
「……魂の回収はお前のノルマだろ。ちゃんと近くにいろよ」視線で岡野の背中を追いつつ、小声で文句を言う。
『ごめんごめん。ちょっと用事があってさ』
明るい返事はすぐに戻ってきた。
俺が少しほっとしたのは雨脚があまり強くなっていないことに安堵しただからに違いない。きっとそうだ。
二人は再び人通りが多いストリートへ出た。様々な視線が行き交う混沌とした場所ではトワリの能力も必要ない。ここでは誰もが人ごみを形成する「ゴミ」の一つだ。誰も気になんかしない。
『なんかいつもより緊張してない?』
「してない」
嘘だ。してる。
『じゃあもしかしてちょっと遅れたこと怒ってる?』
「怒ってない」
これは嘘じゃない。
『だったらイイケド。あたしの貸してる能力も大きいってこと忘れないでよね』
「だったらずっと近くにいろっての。仕事だろ」
『はいはい』
トワリの能力はちゃんと動作している。今も息を止めれば通行人から視線を向けられることはない。……あれ。だったらなんで見谷に見つかったんだ?
ふと湧いた疑問をかみ砕こうとしたあたりで、トワリが前を行く二人を指さした。
『あれさ、何か似てると思わない?』
「はぁ? 似てるって……なにに。俺たちにか?」
どうでもいい質問(というかいつものように何も考えてない単なる音波)の問いかけに思えたので、適当に返した。……のだが、
『はあああ、ええええ、あ、あたしはそんな気持ちはななななないからね⁉』
トワリの反応は思った以上に大きかった。パッと空中へ離れると、じとっとした目付きで俺を睨みつける。
「なっ……んだよいきなり大声出すな」
大声を出そうとして慌てて飲み込み、それからできるだけ抑えて聞き返す。周りにはたくさん人がいるのだ。
『あたしたちは、あ、あ、ああ、あんなみだれた関係じゃないでしょお⁉ そ、それともまさか、あたしをホテルに連れ込もうと……?』
「は? ば、ばかかっ! とんでもない方に誤解するなっ?」
今度は飲み込めなかった。右側で歩いていた男がこっちを訝しげに見た。ああ、くそ。
『んんん。まあでも? ヤヒロが別にいいっていうならいいようにされても? まあ……』
「は? 何か言ったか。いいからちょっと黙ってろ」
『……な、何でもないし! あたしがさっき似てるって言ったのは、あんたと二蝋って男の関係が前の二人に似てるって意味っ!』
トワリは早口で言いきると、空中で器用に膝を抱え(なぜか怒って)ぷいっと顔をそむけた。
俺と二蝋が? 似てる? あの二人に? 一体どこが。
『利害が一致してるから一緒にいるって意味に決まってるじゃん』
ああ、まあ。そこは確かに似てるっちゃ似てる。けど一緒にされるのはなんだかゴメンだ。
『んじゃ理解一致したってことで。休憩がてらちょっとアイスでも食べてこー!』
「あほか。今からまさに仕事だっての」
これから殺しにいくという鬱な作業が待っているのに、妙に気分は軽い。
こいつの能天気な明るさが影響している、とは絶対思いたくなかった。妙な感謝もしたくはない。こいつとは、お互い利害が一致しているだけの関係なのだ。
追跡を再開したときには、鬱陶しく感じていた雨は、もうほとんど止んでいた。
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