30 殺し屋と死神の距離
フロアを覆っていた白煙はもう消えており、クリアになった視界には惨状が映っていた。
もともと内装が終っていない雑多な空間ではあったが、人の意思が感じられる積み方をされていた机の山はバラバラに崩れ、窓ガラスは割れ、消火器の粉末は辺り一面に飛び散り雪原のような光景を作っている。そしてその雪原の中央にあるのは死体。
この状況で未希が見つかって、疑わないやつがいたら、そいつは相当なマヌケか節穴か頭がおかしいかのどれかで、そんなアホがいたら女子中学生でも犯人と決めつけるに違いない。
だから俺がすることは、まず未希を連れ出し、死体を処理し、それから――――
一歩踏み出そうとして視界がぐらりと揺れた。
ほとんど倒れるような格好で柱にもたれかかる。胃から逆流してきたものを飲み込む。鉄分の不快な味がする液体だった。
立ち上がろうとするが右足に力が入らない。もう痛みはないのに不思議な話である。
自分が死ぬことに対して恐怖はない。
残された時間が
施設のクソどもやこれまで仕事でカタを付けた大人を思い返すと、大人になる前に死ねたほうが幸せだと思えてくるからだった。
俺は大人にはならないし、なれない。それでいいのだ。
これまで生きてきた人生に後悔はないが、もしあるとしたら、それは未希をここから連れ出せなかったことだろう。
くすんだ視界の先に未希が見える。焦点を合わせようとして、自分の足元に四角い箱があることに気が付いた。
煙草の箱だ。二蝋の懐にあったものだろう。俺にとってはクソな人間の象徴。それを足で引き寄せる。
箱から一本取りだし、少し迷ったのち、くわえた。
これで俺もクソの仲間だ。晴れて地獄行き――いや違うな……あいつは何て言っていたか……ああそうだ思い出した。「
しばらく見ていない友達のことを思いだし、自然と口角が上がる。
くわえたフィルターを吸う。が、すぅっと空気が入ってきただけで何も起こらない。火がついてないから当然だった。
ライターを探す体力もなく、クソの仲間入りを果たすことはできないように思われたが、ふと気が付くと、目の前に火が灯されている。煙草を近づけフィルターに酸素を送り込むと、僅かな種火が葉を燃やし始めた。
「……遅かったじゃないか。どこいってたんだよ」
「死神なんて大層な仕事をしてるくせに、やった仕事が死ぬやつの前に来て煙草に火をつけただけなんて、ちょっと職務怠慢じゃないのか」
『死神の仕事は魂を運ぶことだし。ヤヒロがこんな割に合わないことするなんて思ってもなかったし。他人に対してもっとクレバーだと思ってたよ。ごしゅうしょうさま』
この明るい軽口を聞いたのも、もう随分と久しぶりのように思えた。
「なあ。俺の魂も
『うん。あたしが持っていけばね』
「ならひとつ頼まれてくれ」
『……やーだよ』
「おい死神。仕事」
『だって持っていけるのは穢れきった魂だけだから』
それは俺の魂が穢れてないと言いたいのだろうか。そりゃいくら何でも嘘が下手すぎる。
『あ、でも穢れきる前にあたしが殺しちゃえば持っていかなくて済むかも?』
「やっぱバカだなお前は。それじゃ俺の魂が穢れきってないから持っていけないだろーが。だいいち死神ごときに俺は殺せないし、殺されない」
『そっか。そうだよね。……それはよかった』
強がりをあっさり返された。まったく、何がいいんだかわからない。
『で、どう? それ』
「最高に
もう一度大きく息を吸う。苦い煙草の煙。俺の人生は最初から最後まで、コイツに振り回されていた。息を吐き出すと、煙が口と胸部に開いた穴から漏れ出た。
「と、いうわけだ。俺の魂は好きにもっていっていいぞ。ノルマの足しにしてやれ」
『穢れきってない魂は回収対象じゃないってば』
「未成年が煙草を吸ってるんだ。十分すぎる悪だろう」
『いやいや? それくらいじゃあ、まだね?』
「そっか。なら……持っていけなくて残念だったな」
『うん。でも強制執行で持っていくってことはできるよ』
「強制的でもなんでもいいぜ俺は」
『話を最後まで聞きなさい。死神が執行対象じゃない魂を持っていくっていうのは、存在そのものを消すために使う手段になるの。
初耳だった。それにこの、のんびりしたイマジナリ―フレンドにしては珍しく慌てた口調だった。
どこまでが本当で、どこまでが真実なのか。これまでに強制的に持っていったことがあるのか、聞きたくはあったが、思考に対して動作が追いつかなくなってきていた。
「問題ない。むしろこれまでのことが全て解決するからそれで頼むわ」
『……いいの?』
「いいさ。悲しむやつはいないし、いてもいなくなるならそれでいい」
『本当にそう思ってるのなら、ヤヒロはとんでもないおバカだ』
「おっと。バカにバカと言われるのがこれほどまで
笑った。つもりだが唇はうまく動かなかった。
「悪いがもう魂は運ばせてやれそうにない。最後は俺ので我慢してくれ。友達よ」
視界にはもう黒しかない。俺という人間のカレンダーが止まるのはもう間近だった。
『友達ぃ? あたしはずっとヤヒロの恋人のつもりだったんだけど?』
こいつの冗談はいつも笑えなかった。最後の最後もやっぱり笑えなかった。
「ああ。そうだ。頼みたいことがあるんだが」存在しないものに頼むというのも変な話だが、もうあまり考える能力も残っていない。
『いいよ。
「そりゃ、助かる……」
『なにをしてほしいの』
「未希を……ここから別の、安全な場所へ……」
『うん』
「それと……、もし、彼女と話すことができたなら……、そのときは ――…… 」
『そのときは?』
最後の言葉は声になったかどうか、自分ではわからない。問うべき相手の声が震えていた気がしたので、どうやら言語にはなっていたようだが、確かめるだけの時間は残されていなかった。
目を開ける。イマジナリ―フレンドはいなかった。
なので俺に残された最後の力は、口に咥えた煙草を吐き捨てることに全力投資した。
灰色の煙が、たゆたい、
燃えた灰が、地面にぱっと散って、
まるであの日の花火のように見―――――
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