05 心理変遷

 俺と見谷と渡り廊下で話してから一週間が経っていた。

 クラスカーストのはみ出し者とクラスカースト上位から睨まれているイジメられっ子。その関係は何も変わっていない。もちろん誰かが立場を変えたということもないし、ましてや死んだ(いなくなった)ということもない。教室を取り巻く状況は全く平穏そのもので何も変わっていない。


 ただ。俺と見谷が顔を合わせる回数だけは変わっていた。


「こんにちは。隣いい?」


 昼休み。購買戦争の戦利品であるカレーライスの容器を開けたところで誰かに声を掛けられる。渡り廊下のベンチはまだ埋まっていない、にも関わらずわざわざ隣を選んで聞いてくる、そんな物好きの心当たりは一人しかいなかった。


「ダメだ、他を、」

「えへへーありがとっ!」


 いやダメっつっただろ? なにがありがとうなの? なんで隣座ってんの? 言語障害でもあんのかこいつは。

 見谷未希は俺の熱い非難の視線を無視し、持参した弁当箱を広げ始めていた。


「またカレー? これで三日連続じゃない?」

「……好きなんだよ。つか俺が何食べようが勝手だろ」

「まあそうだけど。栄養偏らない?」

「大丈夫だ。このカレー殆どルーで出来てるからな。肉の摂りすぎも野菜の摂りすぎもない」

「全然大丈夫の根拠になってない答えだっ⁉」

「は? バカ? 安さと美味さと量を考慮した集大成だぞ? しかも二九〇円。破格だ。デザートであるクリームパンを買っても五〇〇円以内に収まるというこのコストパフォーマンスのよさよ」

「……炭水化物をデザートと言っちゃっていいものなのかしら」


 うーんと小首を捻った見谷は「ま、人それぞれだもんね」と言って、自分の弁当箱に箸をつけた。

 俺はご飯とおかずに分けられた小振りの二段弁当をちらりと見る。


「ん、見てもダメだよ。あげないよ?」

「いやいらんし。それ自分で作ったのか?」

「うん」

「へぇ……。意外。結構器用なんだな」


 ちらっと見ると色取り取りの弁当の中にきれいな卵焼きが見えた。作ったのだとしたら結構な腕前だ。


「ほしい? 一つだけならあげようか?」

「……いやいらんし」

「卵焼きをじっくり見るその目、ふふ、実は好きと見たよ。でもこれはお母さんが作ったんだけどね」

「なんだ。全部自分でやるってわけじゃないのか」

「うん。お母さんもお弁当持って仕事いってるから分担してるんだ」

「分担?」

「そそ。わたしはご飯を詰める係でお母さんがおかずを作って詰める係。平等でしょ」


 いやそれ、どう考えても分担になってなくね? お前ん中にある平等の定義とは一体。


「ね。こんど作ってきてあげよっか?」


 と、いきなり突然唐突にとんでもない提案をしてきたので、俺は思わずクリーパンを口に運ぶ手を止めこいつの顔をまじまじと見てしまった。

 何言ってんだ、こいつは。

 返答をすべく口を開きかけたとき、


「そういえ依月くんっていつもカレーとクリームパンだよね。好きなの?」


 見谷はまたもや唐突に話題を変え、ほぼ母親作の弁当をつつきながら聞いてきた。

 彼女の意図が如何なる奈辺にあるのか測りかねたが、とりあえず答えておくことにする。


「辛いのと甘い食べ合わせで意外にうまいんだよ」

「へぇ~意外。今度食べてみようかな」

「ハマるまで少し時間かかるかもだけどな。あれ、つか何で俺がいつもこれ買ってるって知ってんだ?」

「え⁉ あ、えっと……ほら! みんな買ってるし、前からおいしいのかなって気になってたし!」


 何と気なしに聞いただけだったのだが、見谷は妙に慌ててぶんぶんと手を振った。箸についていた米粒が飛んできた。


「おい」

「あ、ごめん。なんていうかほら、おすそ分け的なものだと思って?」


 ずいぶんアクロバティックな押し付け方だ。


「みんなカレーを買ってるのは味よりあの購買所で一番まともだってのが大きいだけだと思うぞ」


 俺が深く考えずに答えを返すと、


「へぇー。そういえば御神苗おみなえさんと矢野やのさんもそんな感じな感想言ってた気がする」


 彼女は顎に手を当て「うんうん」と何度か頷いた。

 御神苗と矢野はクラスの女子だ。女子グループの中でも中立に近く芥川らとは一線を画している。見谷と親しくしているところも見たことはないが。

 俺の訝しげな視線に気が付いた見谷は、ぶんぶんと慌ててかぶりを振った。


「二人と仲が良いわけじゃないよ。隣で話したのを聞き耳立ててただけだから」

「聞き耳って。普通に会話に入ればいいだろ普通に」


 無関心を装いつつ隣で話す二人をちらちら気にする見谷を想像してちょっと可笑しくなった。自然と声が軽くなる。


「なにその難易度高いチャレンジクエスト。明らかに失敗する未来しか見えないし。友達でもないのに無理に決まってるでしょう?」

「そっから友達になりゃい。別にきっかけは何でもいいだろ」

「そんな簡単にできたら苦労はしていないもんねーだ」


 ま、そりゃそうだ。ぷいっと顔を背けて箸を口に運ぶ見谷を見て苦笑した。

 周りとうまくやれる能力があれば孤立なんかしない。誰かが見ていれば落とし穴に嵌めようとする輩も現れにくくなる。見て見ぬふりをすると確信するからやるのである。


「けど依月くんだって人の事は言えないよね? 友達いなそうだし。ていうか実際誰かと話してるの見たことないし」

「ま、俺は別に困らないからな」

「……そりゃ強いもんね。あんなことできるんだもの」


 あんなこと、というのが例の事件を指しているのは明らかだった。


「まあ確かに自分の意見を通す環境にいるってのは間違ってないが、本質はそこじゃない。困るようなことになる前にちゃんと必要な行動をとれているかってことだ」

「どういうこと?」

「もし俺に誰かを黙らせる能力がなかったとしてもお前と同じ立場にはならない。俺ならまず誰かを味方につける努力をする。相手も複数になると手を出しにくくなるからな」


 クリームパンの包装を破りかぶりつく。バニラの香りを飲み込みこんで続けた。


「それから愛想笑いでも相槌でも嘘でもおべっかでも何でもいいから使って周りに人を置く。一時的なものでいいから味方を作る。相手が攻撃しやすい立場に自分を置かないってのが今回の本質だ」

「嘘でもおべっかでも、かぁ。確かにそうかも」


 見谷は半分ほどになった弁当箱をつつきながら、納得したようにこぼした。


「でも……。そういうの、わたしにはできないかな。自信ない」

「友達を作るのに自信とか必要ないんじゃないか」

「利害で結びつけた関係に胸を張って友達って言える自信がない。わたしは」


 胸をすくような思いが去来した。人をもう物としか見れていない俺。そうでない彼女。その違いに気が付いたからだった。


 見谷はちょうど箸をミートボールに刺すのに苦戦していたので、俺が目を見開いてみたのは気が付いていないようだった。「ふふふ。でもこれってあれだね。理想が高いやーつってバカにされるやーつ」と言いながら、あーんとミートボールを口に運ぶと美味しそうにそれを咀嚼した。

「……だな」と、相槌しつつ、視線を手元のクリームパンに戻す。


 俺はどこで失ってしまったのだろうか。


 もにゃりとした思いを刈り取るかのように残りを一気に口に入れ、噛み、飲み込む。

 バニラの甘い香りは感じられなかった。

 


    ******



 次の日。

 眠そうに朝礼を終えた担任の「あー終わったら日直はプリントを取りに職員室に来るように」という言葉に、今週は俺だったことを思い出す。仕方なく椅子から立ち上がると、


「あ、男子の日直、依月くんなんだ」


 後を追うように立ち上がったのは見谷だった。


「……まあな」

「えへへ」

「んだよ気持ちわりいな。ついてくんなよ」

「いやいやだってわたしも日直だし? 一緒にいこ」

「プリントなんか一人で十分だっつの。こなくていい」


 ぱたぱたと小走りに駆け寄ってきたのをつっけんどんに返す。


「いいじゃんいこーよ」


 多少なりとも話せる相手が日直だったからか、彼女の声は少しはずんでいる。幾つかの視線が彼女の背中を見ていたが、俺はそれに気が付いてないふりをして教室を出た。


 この多感な時期の排他は思春期独特の遊びだ。みんなで笑うため小さな落とし穴を作り、決められた誰かをそこに嵌め上から笑うのである。

 といっても多くは浅い穴で這い上がるのも容易い。

 這い上がり方も様々だ。より多くの仲間を作って手を出させないようにする、あるいは落とした者よりも高い地位――例えば社会的なものだったり恋人のステータスだったり――を作って逆に上から見られることを躊躇わせるようにするのもいい。どれもほんの少しの力で打開できる。


 しかしそのほんの少しの力を出せない人がいるのもまた事実だった。

 の輪郭が脳裏に浮かぶ。だから 抜け出せなかったのだと思い出す。

 もしかして――――もそうなってしまうのだろうか。

 隣を歩く見谷に自然と視線が向いた。


「んん? どうかした?」


 いや。

 例えそうだとしても俺には関係ない話だ。

 そう関係ない。なにも関係しない。

 そのはずだった。少なくとも三限目の休み時間が始まるまではそうだった。




 四限目の、家庭科の移動教室に備えるため席を立ったとき、


「いーづきクゥン?」


 かんに障る奇妙なイントネーションに背中を押された。

 尾根だ。

 それなりのイケメンで野球部所属。補欠上位で部活内の扱いは中の下。クラスの立ち位置は芥川蘭藍の筆頭取り巻きということもあり上の下といったところである。

 声の主が判明したところで、わざと机に突っ伏すようにバランスを崩してやる。相手の自虐心を満足させてやるためとは言え少々面倒くさい。


「なに?」

「いやさ一緒に移動しよーと思って? 声かけた的な? あはは」


 まったく何も面白くないがとりあえず愛想笑いを返しておく。他にも二人ほどの男子が近くに寄ってきていた。どちらも尾根と仲が良いメンツだ。


 クラス内のグループに属すことなく付かず離れずの立場にいた俺に、なぜ彼らがいきなり絡んできたのか。その理由も簡単に予想が付く。

 見谷だ。

 あっちから近寄ってくるのだから仕方ないとはいえ、少々迂闊だったかもしれない。目立つというのは職業柄、いいことが何一つない。


「最近ドゥよ?」

「別に」何がだよ。主語をつけろ。あと舌を捲くな。

依月いづきもさ、もっと積極的にクラスメイトと絡んでこうぜェ? 浮いちゃわないように、俺らとよ」

「ああそうするよ」いや一番絡みたくないのがお前らだし浮いてて結構だ。

「見谷サンと最近仲良いみたいじゃん?」


 ふっと釘を刺してくる。ま、そこが本命だろうしな。


「いやぁそれ気のせいだと思うよ。ほらあんまり話してないやつって誰かと話すだけで目立つじゃん? それ。まさに俺」


 暗に「俺には関係ない勝手にしろ」というニュアンスを込めて返答してやる。


「……? そりゃそうだな。で、見谷サンとは最近ドゥなわけ?」


 お、おお……伝わってねー……。


「いやさ。俺は別にあいつとは何の関わりもないし。今日だって日直だから付き合ってやっただけだし」


 変化球はやめて直球気味のスローボールを返してやる。これなら大丈夫だろう。大丈夫だよな? 理解可能だよな?


 「そっか。なら別にいいや」ほっ。どうやらあの頭でも理解してくれたようだ。

尾根は俺の肩をぽんぽんと叩くと、そのまま教室の扉へ向かっていった。


「お、見谷サン。なに、それ、弁当?」


 俺が机から家庭科で使う裁縫箱を取り出したところで、そんな声が聞こえてきる。見れば、尾根は扉付近にある見谷の席で足を止めていた。


「え、あ、その、うん。次終わったら、お昼休みだから……」

「ヘエー。けど一人分にしちゃちょっと多くね? くーいーすっぎってかー」


 おどおどしく答える声に対し横暴に茶化す尾根。人は反撃されないモノ相手に対してはやたらと強気になれる。彼は典型的なそれだった。


「あ。もしかしてー。見谷サンってばどっか目立たない男子と仲良いみたいだし、それ一人分じゃなかったりー?」

「……っ」


 尾根は冗談で言ったつもりだったのだろうが、見谷が言葉を詰まらせると意外そうな顔をし、それから口の端をいやしく歪めた。

 ひょいと机の上に置いてあった見谷の弁当風呂敷をつまむと腕をあげひらひらと振る。


「違うよなぁ。うん冗談冗談。でも大変だから俺が処理するの手伝ってあげよっか。あ、他に誰か食べてえやつおるー?」


 茶化す声に「おらんやろーあはは」「見谷の弁当とかいる?」何人かが同調する。


 「お前らーひでぇなぁー。ま、俺も別にいらねぇケド。あれ? 誰からも必要とされないってことは捨てても問題ない系?」


 勝ち誇るかのような尾根。

 見谷はそれを黙った見てじっとしていたが、ほんの少し、唇を噛む微妙な仕草を見せたのに気が付いたのは俺だけだろう。

 だから気が付かなかった尾根にとって無反応が面白くない。小さく舌打ちをし、それから室の隅にいる芥川に視線を向ける。


 芥川女王の口は動いていない。ただ表情は「ツマラナイモット」と優雅に語っていた。

 忠実な僕たる尾根は主君の要望により弁当を放り投げるふりをする。

 あくまで「投げるふり」だ。本当にするはずがない。尾根にそんな度量はない。それと運もなかった。

 振り上げた腕が、ちょうど扉から入ってきた男子に当たる。いつもより少し大きい弁当箱が床に落ち、ぱかっと開き、中身が床に散らばった。


「……あ」


 できるだけ無表情を取り繕っていた見谷の顔が悲しそうなものに変わる。

 形が崩れた卵焼きが落ちている。

 弁当箱に残ったものも最初から崩れている。

 あれは見谷が一生懸命作ったものだと分ってしまった俺がいる。


「おいぶつかんなっての」


 気まずそうに責任転嫁する尾根がいる。

 運のない男がいる。

 それから苛ついている男がいる。

 苛ついている? 何に?

 分からない。

 ただ早く、答えを出すより早く、身体が動いていた。

 裁縫箱を手にしたまま歩き出し、それから足を滑らせる。踏んだのはトマトかなにか。まあバランスを崩す理由があれば何でもいい。ふらついた身体を尾根に寄せ自らの足をつまずかせる。


 運動神経のいい運動部のやつがこれくらいで倒れるはずもない。だから身体を寄せたとき見えない角度から腹をぐっとつねるように押してやる。ばたんと、尾根が黒板の前で倒れ込んだ。俺はそこへ圧し掛かる。


「いっつ……⁉」

「あ、わりぃ。足が滑った」

「はぁ? おま――えっ⁉」


 俺を睨みつけた尾根は、文句を言おうとして、それから蒼ざめた。

 トマトのぐちゅっとした果汁が頬にかかっていたから、じゃない。

 自らの喉元に大きな裁縫ハサミが突き付けられていたのを理解したからだった。


「危なかった。事故は怖い。怖いよな?」


 蒼白の尾根に対しにこやかに答えてみせる。

 それから少し、ハサミを持った手に力を籠める。

 思わず殺してしまうところだった、という敵意を、わかりやすく伝えるために。


「ひっ⁉ あ、あああ⁉ わ、わわ、わかった! わかったから!」


 今度はちゃんと一発で伝わったようだった。

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