25 殺害指令

 しばらく欠席していた未希が登校したのは、夏祭りから一週間経った月曜日だった。

 教室に彼女が入ってくると、何人かの女生徒がいたわりの言葉をかけていた。肉親を亡くしたクラスメイトへの同情の念は、芥川女王不興ふきょうを買うことよりも上回ったようである。


 それでも尾根らがいじろうとするが、芥川はそれを視線だけで制した。

 先日の件で芥川もそうとうご立腹のはずだが、さすがにクラスの感情を敵に回す気はないらしい。

 例え――表面上だけのものであっても――クラス内の空気が変わったのは、未希にとって不幸中の幸いであるように思えた。


 女子が騒ぐときの声は一段と高い。未希とクラスメイトらとの会話の中で「自然な殺し屋ナチュラルリーパーの手口に似てるってニュースでやってた」という話題が出たのが、教室隅の席にまで聞こえてきた。


 一瞬未希と視線があう。

 言いたいことがある。聞きたいことがある。しかし今はクラスの中で、彼女の周りには人だかりができている。休み時間になったら話せる機会があるかもしれない。

 しかし結局、三限目の休み時間が終わっても、俺たちはひとことも言葉を交さないままだった。



 

 昼休みになった。渡り廊下へ来たのは一週間ぶりだ。購買戦争には参加せず真っ直ぐきたので、いつものカレーとクリームパンはない。その代わりベンチは選び放題。俺は中央のベンチに座り、背もたれに体重をかけ空を見上げた。

 しばらくすると徐々に生徒が増え始める。それらの中に俺の待ち人の姿はなく、やがて十三時を示すチャイムが響いた。

 携帯がメールの着信を伝えたのはそのときだった。


『ごめんなさい。今日は早退するのでお弁当はないです』


 律儀りちぎな謝罪に、思わず口の端が緩む。


『最初から期待してないからいいさ。今日は久しぶりにカレーとクリームパンだ』


 慣れないメールを送信すると、返信はすぐ送られてきた。


『犯人に心当たりはあったりする?』


 省略された主語が誰を指しているのかは明白だった。一瞬、心臓が鷲掴みにされた気がした。


「俺じゃない」誰に言ったわけでもない言葉を、メールにして送る。


『うん。分ってる。だってお父さんが道路に押されたのは、依月くんと別れてからすぐだもの』


 ネットニュースの隅に書かれていた記事を思い出す。

 見谷俊夫は祭りの帰り、帰宅する人間で混雑する歩道から国道へ押し出されるに遭ったという。しかし人混みではぐれていた未希は、誰かの手が父親の背中を押したのを見た、そう証言している。


 それはもちろん俺ではない。

 当たり前のことなのに、彼女が分っていると言ってくれたのに、心のどこかで安堵あんどしていた。


『けど、わた』


 振動したスマホの画面に、途切れたメールが表示されていた。打っている途中で送信してしまったのだろうが……わたしは、と打とうとしたのだろうか。わたしは何なのだろうか。


『ごめん。途中で送っちゃった。今のは忘れて』


 次に送られてきた内容はさきほどのとは繋がりがない別物だった。さっきの続きが気になったが仕方ない。


『あ、それと今回の件はこの間の警視さん……ニロウさんに似てるあの人が捜査してくれているみたい』


 大樂おおら一葉いちようか。彼は確か自然な殺し屋ナチュラルリーパーの捜査担当だったはずだ。

 ということは、まず俺が疑われていると思って間違いないだろう。


『俺はやってないってのにご苦労なことだ』

『――うん。お葬式の場とか警察署で色々聞かれたけど、依月くんのことは話していないよ』


 その返事が来るまでしばらく間があった。


『なんだか、あの夏祭りがもう何年も前みたい』

『そんなことはねーよ。つい一週間前だ』

『うん。たった一週間。わたしが芥川さんを殺さなかったあの日から、たった一週間で巡ってきちゃったんだね』


 何が巡ってきたのか、とは聞く必要はなかった。罪も幸福も巡り巡るというのは彼女の根っこにある信仰のようなものだ。

 『偶然だ』そう返信しようとし、指を止めた。

 本当に偶然なのかといぶかしんだからだ。

 なにせここ数か月の間に施設の関係者が連続して消えているのは確固たる事実で、確率的に偶然だとは考えにくい。


 誰かが意図的に消しているのだろうか? だとしたら一体誰が。いや例えそうだとしても、その中に未希の父親がいたというのはさすがに偶然だと思うが……。


『今は迷惑掛けたくないから、しばらく依月くんとは話さないようにする。勝手でごめん』


 そうじゃないだろう。本当は疑惑を持っているんだろう。誰が殺したのかを。

 けれど俺はそんなことを聞くつもりはなく『わかった』と短い返事を打って返した。

 だらりと腕を降ろす。昼休みの終了を告げるチャイムが鳴る。結局、何も食べていない。腹は減っていた。

 でもそれ以上に、もっと違う何かが減ったような気がしてならなかった。



   *******



 ホームルームが終わり席を立つ。扉に向かう途中、何か言いたげな芥川の視線を感じたが、特に話すことはない俺はさっさと教室を出た。

 向かう先は図書室だ。月曜日は生徒らの気も乗らないのか、長机の殆どは空席で、まばらに座っている生徒も突っ伏して時間を潰しているだけのようだった。


 空いている隅の席に座る。別に読みたい本があるわけではない。もうここで練るべき計画は無く用もないはずなのに、ここには失った何かがあるような気がしてならなかったからだ。

 隅にある本棚。その背表紙の一つを手にする。いつだったか未希が手にしていた本だ。ドストエフスキー著『分身』。


 当時のロシア情勢の階級社会を舞台にした中編小説で、主人公であるゴリャートキンは自らの妄想である分身と激しく対立し、やがて破滅に至るというものである。

 簡単に言ってしまえば――こんな雑な感想ではドストエフスキー研究者に怒られるだろうが――精神に異常をきたした人物の妄想記だ。

 同じ本棚にはその内容繋がりなのか、精神関連の本が並べてある。『解離かいり性障害』や『イマジナリ―フレンドとの付き合い方』とか、果ては『ファンタジーと現実』なんてタイトルまでが並べてある。

 こんなの誰が読むんだと思ったが、今の俺のように実際に手にしているのだから、司書の思惑は案外間違ってないのかもしれない。


 形のない不安。消す宛てがない焦燥しょうそう

 それらを払拭ふっしょくしようと、間の抜けた死神の名を小さく呼んだ。


「トワリ。来い」


 結果はここ一ヵ月同じ。あれほどうるさかった和服の少女は姿を現さない。

 一体どこで何してやがるんだか。自問するも答えは出ない。

 いや――――心のどこかでは、もう、理解していたのかもしれなかった。


 いつの間にか下校時刻はとうに過ぎている。窓から見える空の色は茜色と藍色のグラディエーションになっている。まばらにいた生徒は誰一人おらず、司書も席を外している。今、この静謐せいひつな空間には俺しかいないように思えた。


「あの施設で貴様と会ったときのことを思いだすな?」


 予想だにしていなかった男の声に、一歩後退り、振り返る。


「そう警戒するな。私だ」


 低音バスの効いた声。もじゃもじゃの髪。椅子に座りふてぶてしく足を組んだ男は、目にかかるくせ毛をピンと指で跳ねた。


「てめ……二蝋にろう。なんでここに」

「うむ。私も図書室にはよく通ったもんぞ。やはり知識というのはいつでも武器になるからな」

「そうじゃなくて何で学校にいるんだって話なんだが」

「私に入れない場所などない。だから貴様が図書室で女子中学生といちゃいちゃしていたのも当然知っている」


 座ったままくくくと忍び笑いを漏らす。まるで見ていたかのような言いぐさに思わず唾を吐きそうになる。


「誰もいちゃいちゃなんざしてねーっての」

「ほう。ドストエフスキーの『分身』か。昔、私がおススメしてやった本だな」


 俺の否定を無視し、二蝋は手にしていた本へ話題を変えた。


「どうだ。小学生の貴様には難しかったかもしれないが、知識とは意外なところで役に立つものだろう?」


 そしてまるで「今俺が何に悩んでいるか分り切っている」とでも言わんばかりに口の端を上げる。


「……何の話だよ」

「貴様との付き合いもそれなりに長いからな。よく独り言を喋っていたのは何度も見ている。もしかして自分ではない自分がやったのではないか――そう疑っているのではないか?」


 核心を突かれ言葉に詰まる。


「イマジナリーフレンド。空想上の友人ともいうべき存在。多感な時期にいじめや過酷な体験、耐え難い生活の末に生まれることが多いという。ゴリャートキンのように経験や記憶が分割されることはなく、また性格もスイッチングしない。その存在をあたかもそこにいるようにそれと認識できる。もちろん対話も可能だ」

「…………」

「もう貴様も気が付いているのではないか。いやもしかして分っていて気が付かないふりをしているのか? ま、貴様がなにを見てどんな話していたかは、さすがの私にも分りかねるがな」


 落ち着いた声。自分が見て、聞いて、触れてきたかのような丁寧な説明。

 こいつはいつもこうだ。全て見透かしたように話す。知らず舌打ちをし目を逸らした。


「だが安心しろ。見谷俊夫を殺したのは貴様でも、そういった曖昧あいまいな存在でもない。この私だ」

「は?」唐突な発言に、思わず間抜けな声を出してしまった。

「どういう、ことだよ」続けて問いかけた声は掠れたものになった。


 こいつが? 一体なぜ殺す必要があったのだ?


「理由は二つ。どちらも単純な話さ。ひとつは権力争い。見谷俊夫が務めている大手銀行では今、時期頭取争いが起きていてな。芥川譲治じょうじ副頭取率いる芥川派をなんとかして引きずりおろしたい執行役員派は、見谷俊夫を使い例の施設に関与していたことを使って強請ゆすらせたのだ。

 しかしこれはすぐ芥川派の知るところとなり報復が行われることとなった。お前に回ってきた仕事――執行役員派だった岡野修が殺された理由だ」


 見谷俊夫がやたら警戒していたのは、岡野が殺された理由を察していたからか。


「見谷俊夫もこの時点で手を引けばよかったのだが、不幸なことに彼は真面目な男だった。死んだ上司の命を成し遂げようと、裏で強請ゆすりを続けてしまった――私に仕事が回ってくるまでな。くだらんニュース番組では自然な殺し屋の仕業だと言われているが、手口を学ばせた私がやれば否応いやおうなしに似るというものだ」


 二蝋は忍び笑いを漏らしたが、それはいつもより自嘲気味に思えた。


「……それじゃ理由はひとつしかないぞ。もうひとつはなんだ?」

「うむ。お前がいたあの施設はもはや過去のものだが、幻想ではなく現実にあったものだ。存在の事実を消したいと思う人間は少なからずいる。今でないにせよ、関係者はいつか消されていくだろう。彼らの銀行なんかよりも、もっと大きな力が動いているからな」


 大きな力、とは何か聞かなかった。

 とにかく派閥争いとはまた別の理由で、岡野修と見谷俊夫は死ぬ必要があったということなのだろう。


「……関係した者は全て消すということか」

「施設に関連した人物はいずれ消えていくだろう。見谷俊夫は一歩出すぎたから先に消えただけの話だ」

「なら俺もいつか消されるってことか」


 他に誰もいない図書室で笑う。自嘲気味になったのは二蝋の癖がうつったからかもしれない。


「さてどうかな。貴様を消したいとと思う依頼主が現れれば、だな。貴様は手駒としては優秀だし、利害が一致している間は私がそうさせはしないが」

「そりゃどうも。やけにおしゃべりだな今日は」

「なに。貴様が気に病んでいるのではないかと思ってケアしてやったまでだ」

「あっそう。で、ご丁寧なメンタルケアだけのためにきたわけじゃないんだろう。本当の目的はなんだ」

「さすがに鋭いな。その鋭さを自らに活かせていたらケアの必要もなかったのだが」

「いいから早くいえ」

「くくく。急くな急くな。急ぐのはオナニーで早くイキたいときだけにしろ。わざわざ来たのは見谷未希を殺すと伝えてやるためだ」


 それはこれまで同様の軽口の中で発せられたものだったので、俺は、しばらく何を言ったか理解することができなかった。


「はっ」引きつった唇から小馬鹿にしたような苦笑いにもとれる吐息を漏らせたのは、それから一〇秒たってからだ。


「なんの冗談だよ。未……見谷を殺すとか」

「冗談でも嘘でもない。消えるべき人間は、なにも直接関連した人物だけではない。関係者に近づきすぎた人物もまた同様だ。見谷未希は見谷俊夫の娘、父親の死が何かのきっかけとなり、後年真実を知るやもしれんのだから」

「バカな! そんな不確定な要素で殺すっていうのか!」

「不確定な要素だからこそだ」


 スッと細められた目から驚くほど鋭い圧を感じ、わずかにたじろぐ。


「それに冷静に考えてみろ。彼女を生かしておくメリットがどこにある? もし生きていれば情報が漏れ、他の者の仕事にも影響が出るかもしれんのだぞ」

「いや! あいつは言わない。絶対口外しない」

「物事に絶対はない。何よりこれは仕事だ」


 そう返されると反論の糸口を失ってしまう。


「それともう一つ理由ある。彼女は貴様に近づきすぎた。それだけならまだ良かったが、どうにも悪い方向へと影響を及ぼしてしまっているようでな。例えば、今までの貴様なら今の話を聞いても仕事を優先させ、むしろ自分が殺すと言い出していたはずだ。

 ケアと言ったのはまさにそこ。いいか。この仕事は友情や慈善じぜん事業から最も遠く離れたものだ。必要のない感情は己の中から消せ。忘れるな。自分が殺し屋という世にもクソな職業を選んでいることを」


 普段のおちゃらけた言動からは想像できないほど冷ややかな言葉を残すと、立ち上がり図書室を後にした。俺は、そのゆらゆらと立ち去る猫背を見送るしかできなかった。


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