24 福陰

「ここにいたのか」


 男の声で俺たちが足を止めたのは、二人だけのささやかな花火大会が終わり、大通へ続く鳥居に差し掛かったときだった。

 振り返った未希は「お父さん⁉」と驚いた声を上げた。


「電話も繋がらないから心配したぞ」


 男――見谷俊夫としお――は未希の声に焦ったような口調で答えた。


「えと、ちょっと電源切ってたから」


 未希が小さな嘘をついたと分ったのは俺だけだ。


「そうか。出かけるとは聞いていたからいいが、連絡は通じるようにしておきなさい」

「はい。ごめんなさい。お父さんこそなんでここに?」

「ん? ああ。ここの祭りにはうちの銀行も協賛金を出しているからね。芥川副頭取とうどり名代みょうだいで顔出しをな。副頭取はどうにも人の顔を覚えるのが苦手で、そういうのが得意なお父さんにお鉢が回ってきたってわけさ」


 そういえば芥川の父親は見谷俊夫が務めている銀行の副頭取だったか。

 なるほどあの山奥の施設も大手銀行の幹部が絡めば、有象無象うぞうむぞうの干渉を無効にすることくらい造作なかっただろう。


 見谷俊夫はスーツの内側から煙草を取り出し、火をつけた。

 たゆたう紫煙しえんは、不快な匂いと不快な記憶を呼び覚ましていく。ぞわりとした感情が奥底からにじみ上がってくる。自然と手のひらが拳を形作る。


 ――落ち着け。俺は、俺は、もうしないのだ。


 見谷俊夫は煙草を捨てようとして思い直し、携帯灰皿へ突っこんだ。不思議なほど視線をきょろきょろと左右に動かしている。まるでそれは、まわりに何か起きていないか気にするような動きだ。


 ……そういえば。

 見谷俊夫は先ほど名代で来たと言っていた。ならここに未希がいようがいまいがあまり関係ないはず。なのになぜ第一声がという心配する声だったのか。なぜ何かを警戒するかのように辺りを伺っているのか。


 俺は彼の行動に何かきな臭いものを感じたが、さしあたり今持っている情報から推測するのは不可能だった。


「さあ未希はもう帰りなさい。ええっと、きみは……」隣にいる俺をちらりと見る。

「あ、依月八尋いづきやひろくん。同じクラスなの」

「そうか。娘と仲良くしてくれてありがとう」

「いえ。こちらこそクラスではお世話になっています」

「おっと、これはなかなか礼儀正しい。きみは、」


 見谷俊夫は何かを言いかけ、それから俺の顔を見てつぐんだ。まじまじと見ていたが、やがて絞り出すように声を出した。


「その顔……見覚えがあるな。ああ……確か施設で――――」

「お父さん?」


 娘の声にハッと顔を上げるが、その表情は見るからに蒼ざめていた。


「未希。そういえばお母さんが今日は外食しようと言っていたんだった。さ、お父さんと一緒に帰ろう」

「え? でも今日は晩ご飯いらないって言っておいたよ?」

「お母さんは何も言ってなかったぞ。きっと聞いていなかったんだろう。さあ」

「ちょ、だけどいまは依月くんといっしょに、」

「いいから早くしなさい!」


 それまでの優しい声とは一転した厳しい叱咤しったに、未希はびくっと身体をすくませた。

 ぐいと腕を引っ張り連れられる未希。交差点を渡りきったとき、彼女がこちらを振り向いた。不安の微粒子が掛かった顔は、帰宅で込み始めた人だかりにふっとかき消えた。

 一人残されたた俺は、ただ立ちすくす。神社から流れてくる囃子はやしは遠く、来た頃より小さくなっていた。


 そういえば、あの男は顔を覚えるのは得意だと言っていた。俺が覚えていたのと同様に、彼もまた俺を覚えていたのだろう。

 しかし――思い出したときのあの顔は、気まずいとか、過去のことを洗い出されるとかいうたぐいの感情ではない。

 畏怖いふだ。


 見谷俊夫はなにかを恐れていた。

 見谷俊夫は何かに警戒していた。

 何に? 決まっている。


 殺された直属の上司である岡野修は施設の関係者だった。自らも関係者であった以上、事の顛末てんまつは知っているに違いない。そして自らも関係している施設出身のが娘に接近していたのだ。

 これらを偶然で片付けるほど彼は楽観的ではなかったのだろう。そして残っていた罪の意識が過剰なまでの化学反応を起こし、ある結論――自らの生命の危機――を導き出したに違いない。


 彼は自己の安全を保つため警察へいくだろうか?

 いやそれより俺の過去のことを未希に話して近づけさせないようにするのではないか?


 疑問がぐるぐる頭を巡ったが答えはでない。

 そもそも自分の考えていることすら理解するのは難しいのに、他人の考えることなど分かるはずもない。少なくとも今の俺に答えは出せない。


 二人が向かった駅とは別の駅へ向かう。

 空いた左側はやけに風通しがよく、なぜか肌寒く感じる。

 足が重い。異様に重い。一歩動かすだけで体力がぐっと削られる気がした。

 今まで軽く動かせていたのはなぜだろう。どうやったら軽くなるのだろう。


『―――――ればいいよ』


 どこからか、誰かの声がした。



   *******



 それからどうやって部屋に戻ったかは覚えていない。気が付いたときには、ベッドの上で着替えもせず寝転がっていた。

 妙に体が重い。頭も痛い。熱があるのかもしれない。

 布団が日差しで赤く染まっている。枕脇に置いてあったスマホの画面は16:48を表示している。

 昨日の夜からずっと寝ていたのだろうか?

 覚えていないというのは少し不安になる。


 と、画面に留守電を示すアイコンが表示されているのに気付いた。着信履歴は未希。どうやら朝方にあったようだ。寝たまま耳にあて録音を再生する。


『依月くん⁉ 今どこにいるの? あのね、今警察の人が来てて、お父さんが、お父さんが――』


 受話口から流れてくる悲痛な声。ときおり混じる嗚咽おえつ

 それらは今の彼女にとってとても重要な円滑油えんかつゆで、もしなければ、俺はいつまでも次の言葉を聞くことができなかったに違いない。


『お父さんが殺されたの……!』


 見谷俊夫が殺された。

 死んだのではなく殺されたと言った。

 どういうことだ……?

 一体誰が殺した?


 心がざわつく。死んで欲しいと思っていた人間が殺されたとなれば無理もない。

 一体誰が、がやったのか。


 嫌な予感がしている。

 死んで欲しいと思っていた人間がその日のうちに都合よく殺されることが。

 姿を現さない死神のことが。

 いつか未希と話した本のことが。


 ぐるぐると思考が巡っている。

 分からない。分りたくない。

 熱っぽい頭が考えることを拒否している。


 携帯をベッドに置き、窓の外を見る。

 いつの間にか、赤く染まる夕陽は色を次第に濃くしている。

 もうすぐ夜が訪れることを予告している。

 カーテンの陰影いんえいがだらりと伸ばした脚に落ちていく。


 あのかげは明日になったら消えている。消えているはずだ。

 いや、消えていてくれ。頼むから消えていてくれ。

 そう、必死に念じながら、俺は目を閉じた。

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