15 女王の一面

『昨夜二三時ごろ、池袋の――通りで――岡野修さん(57)が車道に飛び出し、走行中の普通乗用車にはねられる事故があった。――さんは身体を強く打ち病院へ運ばれたが、間もなく死亡が確認された』


 翌日の朝刊三面に載っていたのは、大手銀行の専務が事故で死亡したという、予想通りの記事だった。

 俺がかじりかけの食パンを皿の上に落としてしまったのは、その記事の終わりに、まったく予期していなかった一文が小さく書かれていたからだった。


『また、何者かに押されるのを見たという目撃情報から、警察では殺人事件として周辺の聞き込みを――』


 ……なんだこれ? どういうことだ?

 いやどういうこともこういうこともない。見られてたというだけだ。この俺の姿が。


 パンを摘まむ指を動かそうとして、動かせないのに気付いた。

 こんなにも身体が強張ったのはいつ以来だろう。初めて仕事を終えた日は、メディアを見るのが怖かったのは覚えている。


 誰かに見つかってやしないだろうか。

 今玄関の外に警察が来たりしないだろうか。

 そんな恐怖が全身にまとわりついていた。恐怖を消すため、仕事をした次の日は、必ずテレビをつけ新聞に目を通すようにした。

 しかしそれも回数を重ねるごとにいつしか失われていき、メディアに目を通すのは仕事を終えた後の確認作業となっていた。


 しかし今、あの日のような恐怖が身体を覆っている。

 こんな仕事にはいつか終わりはくるし、終わっていい。そんな風に考えていたし、覚悟もできていた。

 でもいざとなると、覚悟は揺れるものだと分ってしまった。

 口から漏れた吐息は、俺という人間が思っていたより矮小だと分ってしまった自嘲の溜息だ。


『嬉しさは幸福として。不幸は災厄として。因果も巡り巡って返ってくる。きっと自分に返ってくるのを待っている』


 いつか見谷が言っていた言葉を思い出した。

 どうやら俺にもそれが回ってきたらしい。もう一度、自嘲気味に口角を上げる。

 背もたれにかけていた鞄を手にし、食べかけのパンを置いたまま玄関を出た。




 誰かが玄関で待ち構えていることはなく、通学途中で警官に声をかけられることも無く、特に何もないまま学校へ着いた。

 ちょっとした覚悟は肩すかしになった格好だ。

 途中スマホに流れる追加情報を見ていたが、どうやら目撃されたといっても去り際の後ろ姿を少し見られたくらいらしく、特定までは至っていないようだった。


 ホッとしながらざわつく教室に入り鞄を机の脇にかける。ちらと窓際にある席に目を向けると、見谷が小さく手を振るのが見えた。


 っておい、教室で目立つことをするな。ほら眉を寄せた女王サマがお前を睨んでんだろ。また何かいちゃもんつけられんぞ。

 案の定、芥川蘭藍は立ち上がると見谷の方へ身体を向けた。

 あーアホ、言わんこっちゃない。

 席を立った芥川は見谷の方へ歩いていき――――いや、いかなかった。途中で向きを変えてなぜか俺の方へきた。は、なんで?


「キミ、やけに仲がいいじゃない」


 無表情で威嚇してくる女王サマ。ただ、他に追従ついじゅうしてくるクラスメイトはいない。男子は尾根に釘を刺した一件があるので絡んでくることはないし、女子はこんな対決に直接参加したくないだろう。だから一人だ。


 普段は表だって出てこないのに、「気にくわないものは許さない」という意思を自ら誇示する形になったのは、生来の勝ち気な性格ゆえかもしれない。


「別に仲がいいわけじゃないって。ちょっとの関係で顔を合わせる機会が多いだけでさ」


 もちろんバイトの内容までは教える必要はない……というか本人の目の前で言えるわけがない。当たり障りのない言葉で追及はかわす。


「ふぅん?」


 芥川は顔の筋肉を一切動かさずゆるふわロングをさっと払う。フレグランスでもつけているのか、爽やかな柑橘かんきつ系の芳香ほうこうがかすかに鼻孔をくすぐった。

 それ似合ってねーなぁ。もっとこう、バラとかそういうの? そっちの方がイメージに合ってる気がするんだけど。


「ちょ……な、何がおかしいのよっ!」


 げ、しまった。笑ったのが顔に出ちゃってたか。芥川の表情には怒りの粒子が混じっている。


「あ、いや。もっとこう、薔薇とかそういう香りの方が合ってんじゃないかって思っただけだよ。他意はない。謝る。ごめん」


 素直に頭を下げる。面倒を広げる必要はないという理由もあったが、なにより、相手が不快に感じたのなら悪いのは俺で、ならそれを謝罪するのは当たり前である。それくらいの、当たり前で誰にでもできる常識くらいは、殺し屋にだってあるのだ。


 で、謝られた芥川の方はというと、溜飲りゅういんを下げたのか「ふふんっ」というちょっと勝ち誇った顔になっていた。すぐ「あ、まず」と呟いて元の無表情に戻ったのだが。


 勝気な感情を一瞬でもあらわにしたのを気にしたのか、女王はこほんと小さく咳払いし、周囲をちらっと一瞥いちべつする。わずかな所作だったが、クラスメイトから寄せられつつあった好奇こうきの視線を散らせるには十分だった。


「……依月。きみ、ずいぶん丸くなったわね」

「そうか? 気のせいじゃね」


 唐突な感想を意外に思いつつ、当たり障りのない言葉を返す。


「ううん。気のせいなんかじゃないわ。返事するとか、ちゃんとした人間みたい」

「っておい。まるで俺が言葉も話せない獣だったような言い方じゃないか」

「違わないでしょ。だってきみ、今までならあたしが話しかけても返事なんかぜったいしなかったもの」


 芥川の感情は負の方向へ傾いている。


「それどころか、ごめん、だなんて。誰とも話さない、話す気もない、クラスに溶け込む気なんてさらさらない。特異な存在がこの一ヵ月でずいぶん変わった。まともな会話ができるようになったのはいったい誰の影響なのかしら?」


 これは女王サマの、所有物に対する不満だ。このクラスは自分の物で、思い通りにならないものがあってはならない。そういう類のもの。


「気のせいだって。ほら、見谷と話してるのは日直とかでたまたま一緒になっただけでさ」


 こんなのは適当に答えてかわす一択である。

 はいはいと盲従もうじゅうして満足させてやってもいいのだが、芥川は見谷の敵だし、ここはちゃんと一線引いておいたほうがいいだろう。


「へぇ。たまたま一緒になるの? 図書室で、何度も、仲良く話すくらいに?」


 よく知ってんな。面倒くせえ。


「誰からも話しかけられなかったから、変に思われてるかもしれないけどさ。俺の口は結構軽いんだ。話したらあんなもんだよ」

「うそ。春にわたしが話しかけたときは堅かった」


 目を細め睨まれた。適当に躱したいがクラスの女王サマともなるとそう簡単に逃がしてはくれないか。さてどうやって誤魔化すか。


「……そうだな。ま、今年は春雪しゅんせつが降るくらい寒かったし。口も寒さでかじんでたんじゃないかな」

「なに言ってるの。わたしが話しかけたの、去年だから」


 って、は? 去年?


「ちょっと……まさか覚えてないなんて言わないでしょうね」

「わるい。覚えてない」


 正直に答えるという選択肢をチョイスしたのだが、どうやら間違いだったようで「は?」という春雪なんか目じゃないくらい冷えた声が返ってきた。


「この――」芥川はきゅっと唇を噛み、開きかけたが、

「おら席につけー」という教室に入ってきた担任のそれで中断された。


 思い思いに騒めいていたクラスメイトらも先生の姿を見て席に戻っていく。芥川も渋々ながら戻っていった。


 中断されなかったらどんな言葉が飛び出してきたのだろうと思ったが、「ふん」という鼻息を残していったのをかんがみるに、まあ、罵倒の一つや二つだろう。

 去年のクラスメイトが誰だったかすら覚える気のない男にどんな言葉を投げても時間の無駄で、そんな無駄な時間を使わずにすんだのは芥川にとって幸運だったかもしれない。

 なにせ、もうすぐ死ぬその身にとって、時間は貴重な筈なのだから。


 俺は背もたれに体重をかけ、ぐっと背筋を伸ばす。ついでに斜め後ろ椅子三つ分にいる芥川に視線を向け、それから窓際にいる見谷へと移した。


 俺のことを気にかけるくらいなら、見谷の方へ回してやったらよかったのに。多少なりとも他人の気持ちを考えられるなら、近いうちに起きる惨劇はなかっただろう。

 ――もしも、見谷が話していた巡り巡る因果の話を芥川にしたら、一体どんな顔をするだろうか。

 そんなものあるわけないじゃない、とでも言って一蹴いっしゅうして終わりだろうか。それとも見谷と直接言い争ったりするのだろうか。互いに顔を突き付けてあって話して、もしかしたら中学生らしくぽかぽか叩き合ったりなんかして――――


 そこまで考えたところで、視線を黒板へ戻し、誰にも気づかれない程度に口角を上げた。

 埒もない。

 現実は今しかなく、仮定の未来は存在しない。見谷未希と芥川蘭藍の関係は今が全でしかない。


「静かにしろー。ちゃっちゃとホームルーム終わらせるぞ。それと今日の一限目は自習だ」


 担任の一言で静まりかけていた教室が再びわっと湧く。


「あー自習中に、呼ばれたやつは順番に生徒相談室に来ること。今、警察の方が学校に来られている。なんだか知らんが聞きたいことがあるそうだ」


 突然のイベントに、教室の騒めきがより一層大きくなる。

 机の下に置いていた手は、いつのまにか拳を形作っていた。

 ジワリと汗がにじんだ。

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