第6話

「なるほど」

 俺がルシールに担がせてきたリュックサックの中身について話すと、馬場先生は空を見上げてうなずいた。太陽が傾きつつある。山頂に着く頃には夕暮れだろう。

「効果はあると思う。もしかしたら。たぶん。無いよりマシかも」

 馬場先生の物言いは、徐々に自信なさげな様子になった。

 俺だって、本当に意味があるかどうかは、よくわからない。

 しかし無いよりマシなのは事実だ。馬場先生はそのままひとしきり考え込んで、やがて俺たちを眺め回した。

「じゃあ、確認しよう。いまのドラゴンの攻撃の中で、いちばん厄介なのは? はい、じゃあえーと、杉浦くん」

「……まずは炎です」

 杉浦はさっきからあまり箸が進んでいない。《ふじよしナポリ》に一滴か二滴のタバスコをかけ、少しかき混ぜて口に運び、それっきりだ。

「これを凌がないと話にならないと思います」

「うん。これをちゃんと避ける」

 杉浦の回答に、馬場先生は空中にまた何かの図形を描こうとした。

「ただ、連発できるものじゃないし、向こうにとっても切り札だから、簡単には切ってこないと思う。そうだといいな。むしろ初手できたらラッキーみたいな感じで。昨日みたいに乱戦中に撃たれた方が困るよね」

「つまり」

 俺は馬場先生にフォークの先を向けた。指さしたわけではない。ルシールが動きかけて止まった――そう何度も同じ失敗はしない。

「俺たちは、ドラゴン相手に乱戦には持ち込まねえって?」

「そう、それがベストだと思う。で、それにあたって、次に厄介なドラゴンの武器は? はいヤスオ」

「そりゃあーやっぱり、あの牙だろ! 噛まれたら死んじまう。ですよね、ケンジ先輩!」

 ヤスオはタッパーひとつぶんの《ふじよしナポリ》を早々に平らげ、さきほどから頻りと貧乏ゆすりをしていた。たぶん一成の真似だと思う。簡単に影響されるところが、このヤスオにはある。

 だが、俺はヤスオの答えに賛成できなかった。昨日ドラゴンを相手にしていたなかで、炎よりもある意味で厄介だったのは別のものだ。

「や、尻尾じゃねえの」

「はいケンジくん正解。あれはルシールか、ホセにでも止めてもらうしかない。避けられるのは一成さんぐらいだよ」

「ああ」

 俺はあの尻尾の速度を思い出した。鞭のようにしなって、鉄柱のような尻尾が振り回されてくる。動きの予想がつきにくいところもある。

「あんなの、俺も次は避けられるかどうかわかんねえ」

「あ、そう、それそれ。ケンジくん、なんかクスリでもキメてた? 人間にはまあ避けられないと思うんだけど」

「キメてるわけねえだろ、馬場先生じゃあるまいし」

「なに言ってるんですか」

 杉浦が不意に、呆れたように口を挟んだ。

「きみ、ルシールにかなり噛ませてるじゃないですか」

「え?」

「オール・ストレートですよ、ルシールは。オール・ナチュラルに比べれば感染率は極めて低いですが、蓄積で濃度が高くなってると思います。きっと現在はクォーター・ストレートか、ワンサード・ストレートに近い」

 杉浦はなんだか恐ろしいものを見るように、俺を見ていた。

「――きみ、よくそんな状態で平気ですね」

「え?」

「あれ? あの、知らないで噛ませてたんですか?」

 杉浦が目を丸くしたので、俺は混乱した。馬場先生は気まずそうな顔をして、かなり間抜けな唸り声をあげた。

「あー……それって、やっぱりそう? いや、どう考えても完璧にあの症状が出てると思ったんだよね。ケンジくん、明らかに及川さんの弾丸を目で追ってたし。異常な感覚神経の増強だね」

「右手は確実に折れてましたよね。一晩で治ってる。けど、本人は知らなかったんですか?」

「あのさ。ちゃんと俺にわかるように話してくれよ」

 俺は杉浦と馬場先生を交互に指さした。ルシールはなぜか顔を背けていたので噛み付かれずに済んだ。数秒間、二人の間で無言の押し問答があったが、やがて杉浦は顔をしかめて口を開いた。

「ルシールが人を噛むのは本能なんです」

「なんの本能?」

「ライカンスロープ、人狼のです」

 杉浦は真面目くさった顔で答えた。

「オーガーというのは、人工的に調整・強化された、ライカンスロープ・ウィルスの純粋感染適合者なんです。女性の染色体の方が適しているらしいので、ええと、まあほぼすべてが女性型ですね。彼女らにとって『噛む』行為は繁殖行為にあたり、きわめて――げっ」

 杉浦の頭が唐突に横に弾かれ、転がるように倒れた。ルシールにぶん殴られたからだ。それもかなり本気のパワーだった――ルシールの髪と目と顔が赤くなっていた。

「わたしは、そうした機密事項を話すのは推奨しない。次はあなたを殺すと思う。非常に惨たらしく」

「……ええ、まあ、とにかく」

 杉浦が喋る気力をなくしたので、馬場先生が後を継いだ。

「ケンジくんは、一成さんと同じ種類のライカンスロープ症を発症していると思っていいと思う。濃度も症状の度合いもぜんぜん違うけど」

「そりゃつまり、俺が一成みたいになるってことか?」

 別に、それも悪くないと思えた。俺はまったくフラットな気持ちで、その言葉を受け入れることができた。一成は偉大な男だ。少なくとも、ここにいる俺たちよりもずっと。

 馬場先生は曖昧に首を傾げた。

「どうかなあ。そこまで症状が進むかどうかは適性次第だし、個人差がものすごく大きい症例だしなあ」

「よくわかんねえっすけど」

 ヤスオが二つ目のタッパーに手を伸ばしながら、底抜けに明るい声をあげた。明らかに何も考えてない男の声だ。

「ドラゴン殺し終わったら、でかい病院いけばいいんじゃないすか? オレ、単車だしますよ!」

「あー、まあ、そうだな」

 結局のところ、気にしたところで仕方がない。いまは忙しい。それに、一成と同じ力が俺の中にあると考えれば、これ以上心強いことはないと思った。

 だから俺は努めて明るく提案した。

「じゃあさ、全員がルシールに噛んでもらうってのはどうだ? もしかしたら、パワーアップするかもしれないんだろ? なあ、ルシ」

 俺は最後まで発言することができなかった。ルシールにものすごい勢いでぶん殴られて、地面を転がる羽目になったからだ。頭が割れそうなほど痛んだ。

「主任」

 ルシールの声はぞっとするほど冷たく、髪の毛と瞳は赤く発光していた。

「つぎに同じ提案をした場合、わたしは命の保証ができないかもしれない」

「なんだそれ」

 俺は頭をかかえて唸った。それしかできなかった。

 決定的な転機が訪れたのは、その次の瞬間だった。

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