第3話

 隊列の後方にいた聖騎士たちが、唐突に吹き飛んだ。登山道から急斜面下の闇に向かって、無造作に放り込まれたようにも見えた。電気式のカンテラがいくつか粉砕されると、あたりが急激に暗くなる。

 だから、崖上から滑り降りてきた巨体について、俺もはっきりと観察できたわけではない。

 赤黒い鱗が夜の闇にうごめくのは、深海を泳ぐ巨大な魚のようにも見える。その全長は一軒家ほどもあるだろう。他には、たしか――丸太よりも太い首、その付け根に巨大な翼、四肢の先端にするどい鉤爪――そんなところだ。

 琥珀色の瞳が束の間こちらに一瞥をくれたかもしれない。すこし遅れて、咆哮。

 ぶおおおおおおおおん、と、真似をすればそんな声だったと思う。

 空へ向かって首を持ち上げたドラゴンは、周囲の闇すべてを震わせる轟音を撒き散らした。新桜庭市の商店街にまで届いたかもしれない。皮膚が震えるくらいの音量で、俺とミキヒコは思わず地面に伏せたくらいだった。

 俺たちの名誉のために言えば、同じようにしゃがみこんだ聖騎士も何人かいた。そいつらは直後にドラゴンの尾で殴り飛ばされ、闇に消えている。

「赤竜」

 南雲は鋭く呟き、長剣を抜いた。

 恐ろしく冴えた銀色の刃が、かすかに発光しているように思える。もしかすると、それは魔法の武器というやつなのかもしれない。それか電気とか超プラズマとかいろいろ使った、何かすごい光る武器か。

「しかも大きい。おそらくタイクーン級だ、国内史上初になるのか?」

「南雲主任」

 若い聖騎士は盾を構えた。明らかに震えている。歯の根があっていない。

「どうします! て、撤退を」

「後列がやられた」

 南雲は即座にそう判断した。ドラゴンは見た目を裏切る俊敏さで前足を振り上げ、後続の聖騎士をなぎ払った。

「だめだ」

 それは誰であったか、名前も知らない聖騎士が怒鳴っていた。

「凌ぎきれん。こいつ、この、逆鱗に」

 何か言いかけたそいつの背骨がへし折れるのを、俺は真正面から見てしまった。

 果敢な何人かの聖騎士は盾をかかげて前脚の一撃を防ごうとしたが、足場が悪すぎた。振り回される尾で叩き落とされている。躍動する赤いドラゴンの鱗は、全身が燃えているようだった。

 南雲は一歩、俺たちの前に出た。ドラゴンとの間に立ちはだかるように。

「作戦行動の続行は不可能だな。杉浦!」

「はい」

 若い聖騎士は震えを堪え、まっすぐ背筋を伸ばそうとしたが、無理だった。たぶん杉浦というのが彼の名前なのだろう。

「散開して撤退。お前は民間人を護衛しろ」

「じ、自分が?」

 杉浦は俺とミキヒコを見た。これはダメそうだな、と俺は直感的に思った。あまり頼りになりそうにない。しかし南雲は容赦がなかった。

「お前がだ、無事に下山させろ。我々は足止めをする。ルシール、働いてもらうぞ」

「了解、南雲主任」

 ルシールは応じ、南雲と一緒に一歩前に出た。

 俺たちの周囲に展開している、まだ無事だった聖騎士たちは、どうにか反撃を試みようとしている。

 電気式のカンテラが盛んに揺れて、いくつかの場面を照らした。彼らの戦術はシンプルだった。盾を持った聖騎士たちがそれを構えて並び、ドラゴンの前脚による一撃を受け止める。その生じた隙に、他の聖騎士たちが背後から長柄の槍や、剣で反撃の突きを差し込む。

 聖騎士たちはいずれも、俺たちと同じ人間と思えぬ膂力と俊敏さを兼ね備えていた。

 彼らの繰り出す槍や剣は、ドラゴンの鱗にわずかに突き刺さった。だが、その瞬間には無造作に振り回された尾や鉤爪によって、使い手の体ごと払いのけられる。

 まるで、虫を追い払うようなものだった。

 中には、あの棺桶のような箱から大砲みたいな武器を取り出し、弾丸を打ち込んだ者もいた。けたたましい轟音とともに、火花を散らす無数の弾丸が放たれたときには、ちゃんと現代的な兵器も使うものだと思った。

 しかし銃弾はいずれも鱗に突き刺さることすらなく、ただ弾かれただけで終わった。ドラゴンは意に介した様子もない。

「やはり」

 南雲はその光景に舌打ちをした。

「実体弾効果なし。この等級なら当然か。剣でやれ!」

 南雲とルシールが前進する。

 もはや十歩ほどの距離までドラゴンが迫っていた。南雲の剣が翻り、盾で攻撃を受け止めた前衛の背後から突き出される。それはドラゴンの前脚を浅く引き裂き、たしかにどす黒い血を虚空に飛ばした。

 南雲は剣を引き戻し、後退しながら怒鳴る。

「なにをやっている、杉浦、さっさと民間人を逃がせ」

 そう言われても、杉浦という若い騎士はとっくに俺たちの傍にはいなかった。どこかへ逃げたか、それともやられてしまったか。南雲はまた小さく舌打ちをして、前傾姿勢をとる。

「ルシール、打撃」

「了解」

 いくつかの反撃を受け、わずかに身をよじったドラゴンの側面に回り込むルシールの速度は、明らかに人間を超えていた。

 しかし、本当に驚くべきはその拳であった。右拳を固めて、思い切りドラゴンの頭部を殴り飛ばす。空気が割れたような衝撃音が聞こえ、竜の巨体が軽くよろめいたほどだ。ルシールの赤い髪の毛が広がり、闇の中ではっきりと輝いている。

 なるほど、これがオーガーか。対ドラゴンの生体兵器と名乗るだけはある。

 俺はそれをすべて見ていた。

「マジかよ」

 ミキヒコは地面に伏せたまま呻いた。立ち上がろうとしている。こいつもさすがにいまは顔色が悪い。

「ね、寝てる場合じゃないよな。ケンジくん、ぼくらも何か」

「やめろ」

 このときばかりは、俺も必死になった。ドラゴンが大きく息を吸い込み、身をのけぞらせるのが見えたからだ。嫌な予感がしていた。

「頭を上げるな! いま、ドラゴンが」

「――くるぞ!」

 南雲が叫んだ。

「盾を構えろ。亀になれ!」

 そして、するどい閃光と、膨大な熱量があたりにぶちまけられた。

 南雲を筆頭に、聖騎士たちがその白い閃光に飲み込まれるのが見えた。起き上がりかけたミキヒコの頭上を光がかすめる。

「あっちっ」

 ミキヒコはおかしな悲鳴をあげて転がった。ずっと伏せていた俺ですら熱を感じたほどだ。空気の焼ける匂いがした。

 ドラゴンのブレスだな、と、俺は思った。

 赤いドラゴンは炎の息を吐く。そんな風なことを聞いた気がする。実際には、《炎》なんていう生易しいものではなく、いまのように強烈無比な破壊の熱エネルギーだった。

 人間を立ったまま炭に変えるほど。

「おい、あれ、ケンジくん」

 ミキヒコが口を半開きにした。

 俺たちとドラゴンを遮っていた聖騎士たちは、みんな炎のブレスの一撃を浴びたらしい。鎧の中で炭となり、ゆっくりと倒れこんでいく。あの聖騎士の女、南雲も例外ではなかった。

 彼女の手から長剣が離れ、登山道の土の上に転がった。

 俺はそれをすべて見ていた。

「この野郎」

 ミキヒコは低い声で唸った。

 思えば、俺はこのとき、俺に期待された役目を果たすべきだった。つまり、ミキヒコを止めることだ。

「ケンジくん。フォローよろしく。ぼくがやる」

「何言ってんだ、頭おかしいんじゃねえのか」

「あのクソドラゴン! ぶ、ぶ、ぶっ殺してやる!」

 ミキヒコは逆上していたし、俺は何も動けなかった。彼はいきなり走り出すと、地面に落ちた南雲の長剣を手に取った。そして火事場の馬鹿力というやつなのか、軽々と片手で持ち上げる。

「やめろ」

 俺は怒鳴ったつもりだが、ちゃんと声になったかどうかは怪しい。

「やめろバカ、ミキヒコ、引っ込んでろ」

 とんでもなく甘えた発言だったと思う。こんなことを喋っている暇があったら、飛び出してミキヒコを止めるべきだった。どう考えても。

 どうにかして、俺は震える膝を抑え込み、立ち上がろうとした――いや、言い訳だ。本当に動くつもりなら、気合でも根性でもなにを使ってでも動けた。そうだろう。友達があぶない目にあっているのなら、動けなければ嘘に決まってる。

 ひどい嘘だ。

「うお」

 ミキヒコは変な雄叫びとともにドラゴンに近づいた。

 それは奇蹟のようなものだったと思う。ちょうどドラゴンは焼き残した他の聖騎士が斬りかかってくるのを、払いのける作業に没頭していた。

「うお、うおっ、うおっうおっ! ぶっ殺す!」

 ミキヒコは、ただ素早く突進して長剣を突き出した。長剣の切っ先が銀色に輝いた。それは偶然身をよじったドラゴンの首元へ、予想外にもいい角度で深々と突き刺さる。そのままミキヒコは柄を両手で掴み、さらに深く突きこもうとした。

 そして、そこで終わった。

「ん」

 ミキヒコの雄叫びが途絶えた。口を半開きにした間抜けづらのまま、彼の首が吹き飛んだ。

 ドラゴンの鉤爪は鋭く、人間の首くらいならば簡単に切断するものであることを、俺はそのとき知った。首を失ったミキヒコの身体は、振り回された尾によって、いかにも邪険に振り払われた。

 俺はそれをすべて見ていた。

 一瞬、ドラゴンと目があったように思う。その琥珀色の目は、信じられないほどの怒りと邪悪さを湛えていた。咆哮をあげると、再び空気が震え、ミキヒコが突き刺した長剣が抜け落ちた。どす黒い血液が大量に流れ出る。

 かなりの痛みを感じているらしく、咆哮とともに身をよじりながら翼を羽ばたかせる。そして地面を蹴ると、あまりにも身軽すぎる動作で空中に舞い上がり、そのまま夜空へと飛んでいく。

 ミキヒコが与えた傷から、とめどなく血が流れていた。確かにあれはドラゴンに痛手を与えたのだ。

 俺はそれをすべて見ていた。

 それだけだった。


 その夜、俺たちをほとんど皆殺しにしたドラゴンは、この後に郊外にあった聖騎士団の本部を襲った。

 もしかしたら、報復のつもりだったのかもしれない。

 奇襲を受けた聖騎士団は、若干の抵抗をしたものの、壊滅に近い状態になったという話だった。新桜庭市の商店街では、この世のものとは思えぬ咆哮が響き、空は燃えているようだったという。

 翌朝になると、聖騎士団は一人残らず姿を消していた。

 俺はその夜、どうやって山を下りたのかもよく覚えていない。

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