第2話
「すごいな」
と、ミキヒコは口を半開きにして呟いた。
これ以上ないほど間抜けな表情だったが、それでも足は止めていない。この時俺たちは、左手に急斜面を臨む登山道を歩いていた。右手側には切り立った岸壁。安全性を考慮するなら、あまり良いルートとはいえない。
しかしこれが最短距離だ。聖騎士側からそういう注文があったから、この道を選んだ。
「見ろよ。あれ。熊岩が吹っ飛ばされてる」
しきりにミキヒコが肘をつつくので、俺は少し歩みを緩め、そちらを見た。
熊岩とは、このあたりの登山道の傍らに腰を据えている、巨大な岩である。
その名の由来は誰も知らない。少なくともその形から熊を連想する者は皆無だと思う。大きさで言えば、いまの俺の身長の倍はあっただろうか。それが、粉々になって散らばっていた。
幸いにも、登山の障害となるほどではない。
「ケンジくん」
と、ミキヒコは俺の名を呼んだ。賢治、と書く。ミキヒコはさっきから落ち着きがまるでない。これは確実に良くない兆候だった。
ミキヒコは俺の幼馴染で、同じ高校を卒業した同級生である。俺と同じレベルの頭脳の持ち主であり、このとき、大学進学も就職もうまくいかずにフリーターの真っ最中であった。
ミキヒコの唯一の取り柄は、尋常ではない運動能力。なにを隠そう、俺も所属する草野球チーム《新桜庭ゴブリンズ》のエース・ピッチャーである。決め球はフランシスコ・ロドリゲス並みの超速スライダー、本人が名づけるところの《悪魔ソニック》。
人一倍好奇心が強く、やたら危なそうなことに首を突っ込んで、ひどい目にあうのが得意な男だった。
「これ、ドラゴンがやったんだと思う?」
「かもな」
俺はといえば、いまはとてもミキヒコのような好奇心を持てなかった。俺は想像力が豊かなタイプだからだ。
電気式カンテラが頼りなく照らす周囲の闇、そのどこかにドラゴンがいる。いつもと違って山は静まり返り、生命の気配がまるで感じられなかった。これもドラゴンが巣をつくった影響ということなのかもしれない。
「あんまりウロウロするなよ。また怒られるぜ」
いちおう、釘は刺しておく。しかしミキヒコの好奇心を警告だけで止めるのは無茶な話だ。
それよりも俺は、ドラゴンに遭遇した場合どうするべきか、ということばかりを考えていた。周囲の聖騎士たちと違い、俺たちは武器も鎧も持っていない。猟銃とか金属バットくらいは持っていこうと思ったが、
「無駄だ」
と、聖騎士のひとりに一蹴されたのでやめた。
この夜、俺が油断ないジャッカルのごとき視線で観察したところ、聖騎士団の連中はみんな西洋風の銀甲冑で全身を覆っていた。盾を携えているやつもいれば、盾の代わりに剣とか槍らしきものを抱えている者もいる。
銃火器の類は一切見当たらないのが不思議だった。ついでにいえば、棺桶のような大きな箱を背負っている者がいるのも謎である。西洋甲冑は重たそうで、ただひたすら邪魔なようにしか見えない。そういう装いは俺が知る『現代の軍隊』とは思い切りかけ離れた、時代遅れなもののように感じた。
テレビのニュースなんかでは、たまに『ドラゴン討伐に向かう聖騎士』の映像が流れるが、そういえばみんな西洋甲冑を着ていた気がする。なんらかの撮影用・広報用のものかと思っていた。
「ほら、ケンジくん、こっちも凄い」
気がつけば、ミキヒコはいつの間にか隊列をやや離れ、急斜面から下方を見下ろしていた。それなりに登ってきたので、下界の様子がよく見える。
それは、子供の頃の俺たちもよく遊び場にしていた、つい数日前まで森であった場所だ。木々は盛大になぎ倒されて、もはや森とは呼べそうにない。中央付近にあった神社も倒壊し、残骸しか残っていなかった。
ミキヒコは斜面から身を乗り出し、口笛を吹いた。
「これもドラゴンがやったんだよな。やばいな。森林破壊どころじゃないな」
「あの神社」
俺は白い息を吐いた。
「お前が花火で全焼させかけたやつだ。チンケな建物だったし、あのくらい、たいしたことねえよ」
嘘だ。俺は内心とは逆のことを言った。
ドラゴンとは、現状のところ、世界最悪の大災害である。
聞いた話によると、連中だって通常は人里近くまでやってくることはまずないし、そこに巣をつくることもない。人間の居住区域ではドラゴンが生きるのに必要とされる、とある成分が薄すぎるからだという。だいたいのドラゴンはチベットの奥地とか、密林の奥深くで暮らしている。
うちの商店街で唯一の魔法使い、そろばん塾の馬場先生は『人が暮らす場所ではマナが薄すぎる』というような表現をしていた。しかしどれほど信用できるものかはわからない。馬場先生はマリファナが好きすぎて、授業中でもラリっていることがしょっちゅうであった。
「なあ、ケンジくん」
いつの間にか近づいてきた、ミキヒコの口調が少し変わった。声が低くなる。とても嫌な予感がした。
「ぼくらでドラゴン見に行かないか? ドラゴンの写真とか売れると思うんだ。チームのやつらも喜ぶし、明日辺り、こっそり」
「やめろ」
俺は即答した。
ミキヒコの凶行を止めることにかけて、俺は商店街一同から圧倒的な期待を寄せられている。正確に言えば、この夜はその能力を買われてミキヒコに同行することになった。
幼い頃から、俺はミキヒコと兄弟のようなものだった。草野球チーム《新桜庭ゴブリンズ》に入ったのも、ミキヒコに強引に引きずられたからだ。そして気がついたらキャッチャーをやっており、メジャーリーグ・トレーディングカードを危うくコンプリートしかけていた。
「絶対にやめろ」
だからこのときも俺は、最大限の努力でミキヒコを止めようとした。
「俺たちがあの森の木とか神社とか、熊岩とかよりも頑丈だと思えねえ」
「わかった、作戦を変えよう。遠くから望遠レンズを使って」
「ドラゴンは火の息を吐くらしいぜ」
「次の作戦。ラジコンにカメラをとりつけて」
「お前は、」
と、ミキヒコを黙らせようとしたところで、ついに聖騎士の一人に見咎められた。
「二人とも」
静かだが、怒りに満ちた女の声だった。
「そろそろ、私語は慎んでもらいたい」
髪を短く切りそろえた長身の女だ。まだ若い。彼女は明らかに俺たちの監督役らしく、山に入ってから、常に一定の距離を保って歩いていた。
「さっきから慎んでます。大丈夫っす」
ミキヒコは阿呆なので、己の主観に正直に答えた。直立して、変な敬礼のような姿勢までとっている。普段の彼なら絶対にやらない仕草だった。
「実はぼく、普段はもっと凄い喋るんです。ケンジくんが証言してくれます」
「我々は、きみの普段の言動については関知しない」
聖騎士の女は白い眉間にしわを刻み、もうはっきりとわかるほど怒りを堪えている顔だった。山を登りはじめてからの彼女とミキヒコのやりとりは、着実に彼女の内部に疑念と憤懣を蓄積させつつあった。
「とにかく、我々はドラゴンの活動圏に近づきつつある。不用意な行動で発見されたくない。細心の注意を払ってもらいたい」
「任せてください」
ミキヒコは拳を握って答えた。なんらかの『頼りがい』のようなものをアピールしようとしているのだろうか。
俺の目から見て明らかなほど、ミキヒコはこの聖騎士の女に好意を抱いていた。だから案内役にここまでやる気を見せているのだと思う。口数も多い。
俺は何度もその挑戦には勝目がないことを提言したが、そのたびに返ってくるのは、
『野球はゲームセットしてからが本当の勝負』
という強硬な主張であった。
ともあれ、ミキヒコはしゃべり続ける。
「ぼくは意外とそういうのうまくやる方なんです。それよりどうっすか? ドラゴン倒したら打ち上げとかやりますよね? 宴会の準備なら、ぼく、すごい得意なんですよ」
その答えには数秒の沈黙が発生した。聖騎士の女は、もはやミキヒコを同じ種類の動物とは見ていないようだった。仕方がないので、俺は口を挟むことにした。
「ミキヒコに、あんまり何度も同じこと言わない方がいいと思いますよ」
これは俺がミキヒコに対処する上で覚えた、生活の知恵だ。
「そのうち慣れて、なにか言われてることすら忘れるんで」
「そうか」
また少し黙り込んだあとで、聖騎士の女は眉間を指で押した。
「我々としても、きみたち民間人が安全であるよう全力を尽くす。しかし、協力してもらわねば意味がない。頼みたいことは一つだ。我々の指示に――」
「南雲主任」
聖騎士の女の言葉は、途中で遮られた。彼女よりもさらに若い聖騎士が、やや息を弾ませて近づいてきたからだ。
俺より頭ひとつ分ほど大きいが、顔つきはほとんど少年といっていい。もしかしたら俺たちとおなじく、高校、というか消防庁の訓練学校を出たばかりなのかもしれない。口調にも緊張と堅さがあった。
「どうした」
聖騎士の女、呼ばれた名前から察するに『南雲主任』が、やや不機嫌そうに尋ねる。若い聖騎士は白い息を一度だけ大きく吐き出し、前方を指差す。
「オーガーの」
「識別個体名で呼ぶように。彼女らは一般名称を嫌う」
「――ルシールの監視ネットワークがドラゴンの反応を捕捉しました。我々はドラゴンに接近しつつあります」
俺もミキヒコも、つられて若い聖騎士の示した先を見た。
ひとりの少女がそこにいる。どことなく現実離れした雰囲気があるが、それは間違いなく赤い瞳とか、夜でも発光しているような赤銅色の髪とか、それらと正反対にほとんど血が通っていないようにみえる白い皮膚とかのせいだろう。容貌もほとんど人形めいたつくりをしている。それも、どちらかといえば西洋人形の彫りの深さだ。
彼女だけは、ほかの聖騎士たちのように西洋甲冑を身につけていない。作業着というか、黒いツナギのような装束であり、盾も剣も携えていない。だが、常に彼女は隊列の先頭であった。
最初はなぜそんな少女が聖騎士団に同行しているかわからなかったが、『オーガー』だと紹介されて驚いたものだ。オーガーとは対ドラゴン用の生物兵器のようなものだと聞かされており、まさか少女の形をしているとは思わなかった。
彼女に関しては、例によってミキヒコが最初に失礼な言葉をかけようとして、南雲と呼ばれる聖騎士の女に首根っこをつかまれて引き倒された。それほど重要なものらしい。
「ドラゴンか。いまは良くないな」
南雲の顔が少し曇った。というより、俺とミキヒコを交互に見て顔を曇らせた。
「私は団員を集める。お前はルシールに正確な距離と方向を計測させろ。準警戒距離を超えているなら撤退する」
「了解」
そうして若い聖騎士は前方へ振り向きかけ、途中で止まった。
いつの間に移動したのか、俺たちもよくわからなかった。オーガーの少女が傍らに立っていた。
「くる」
と、少女は短く言った。赤い髪色が、心なしかより強く発光しているように見えた。
「南雲主任。ドラゴンがくる。いまは準警戒領域にいる」
「総員」
南雲は間髪入れずに応じた。おそらくあの西洋甲冑には、襟元のあたりに通信用のマイクかなにかが仕込んであったのだろう。後方から続いていた聖騎士たちが、動きを止めるのがわかった。
「撤退する。ドラゴンが準警戒領域に入った」
「いえ、南雲主任」
赤髪の少女は首を振った。
「いまは警戒領域にいる。近い」
「待て。ルシール、それは」
南雲が顔を歪めさせた。
「――こちらが先に見つかったのか?」
一瞬、南雲の指示が止まった。
若い聖騎士団員の顔色が、もはや真っ白になっているのが横目に見える。たぶん俺もそれに近いような表情を浮かべていたと思う。『準警戒』とか『警戒』がなんだかわからないが、ドラゴンが近づいているのは間違いあるまい。
とはいえ、ひとりだけ呑気なやつもいた。
「ドラゴン? それって本当? 近いの?」
オーガーの少女の肩を気安く叩いて尋ねる。少女は人形そのもの、何の感情も推測させない無表情でうなずいた。
「うん」
どこかで、強い風が吹いた気がした。少女の口から吐き出される白い息が、たなびいて夜の中に消えた。
「いま、もう真上」
「マジで?」
と、ミキヒコが呟いた次の瞬間には、もう何もかもが酷いことになった。
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