三十日目

エピローグ

 その日、俺は久しぶりに防具をつけ、キャッチャーミットを構えた。

 相変わらず風が冷たい日だった。暦の上ではもうそろそろ冬の終わりが見えてもいい頃だろうが、その兆候はほとんどない。太陽の光も心なしか弱々しく感じる。

 市営のグラウンドは恐ろしく寒かったものの、感覚を思い出すためにやっておかなければならない。

「よし」

 一度、冷たい空気で大きく深呼吸をする。

「いいぞ、ルシール! こい!」

 俺はピッチャーマウンドに立つ、赤い髪の少女に声をかけた。ルシールだ。《新桜庭ゴブリンズ》のユニフォームを着て、さっきから不思議そうにグローブを開閉していた。彼女はもうミキヒコのお下がりを来ていない。背番号一は永久欠番となった。これから《ゴブリンズ》のピッチャーは十番をつけることになるだろう。一成の番号も同じく。

 彼女に関して、消防庁が何をどう考えているのかはよくわからない。一度、消防庁の『えらいひと』が来たらしいが、それっきりだ。監督官が派遣されてきたものの、特に俺たちに処罰が示されたりはしていない。いったいどういうつもりだろう。

 あれ以来、すっかり喫茶《ふじよし》の一室に住み着いている。

「主任、ここからどうするの?」

 ルシールは首を傾げて尋ねてきた。さっきまで教えていた、野球の基本的なことを忘れたらしい。俺は自分のキャッチャーミットを叩いてやった。

「投げるんだよ。ここに」

「ボールを?」

「当たり前だろ。グローブ投げんなよ」

「グローブってこのへんな手袋?」

「そうだ。そいつはボールを捕るために……おい、外すな!」

「……おう、ケンジ」

 俺の背後から声がする。

「本当に大丈夫なのかよ。ちゃんと教えたンだろうな? ありゃあ野球のルールを理解してねえツラだぞ」

 審判用の装備一式で固めた、キャプテン・遠藤だ。驚きの回復力でギプスは取れたものの、まだ本調子ではないため、審判をやらされている。それに加えてこのところ、キャプテン・遠藤はきわめて多忙な日々を送っていた。

 ――『ドラゴンを殺した商店街』。

 なるほど、そのキャッチコピーは大いに観光客を呼んだ。ドラゴンの骨を使った立体標本は目玉であったし、本当にドラゴンを殺した剣は喫茶《ふじよし》の店内に飾られることになった。

 キャプテン・遠藤は折れた足をこれみよがしに見せつけながら、「ドラゴンとの死闘」をかなり脚色して語った。ようやく今日は臨時休業日としたところだ。キャプテンがこんなときに店を休む理由はひとつしかない。

 つまり、久しぶりの《新桜庭ゴブリンズ》の練習だった。そして練習となるとキャプテン・遠藤は鬼だ。

「来月には隣の県のチームと試合するンだからな。わかってるだろうな? 使えねえようなら俺が投げるぞ」

「キャプテンよりマシだと思うぜ」

 俺はキャプテン・遠藤のコントロールと、気の短さを知っている。デッドボールの連発で試合どころではなくなるだろう。

「――おい、さっさとやれよ!」

 外野の方から、キャプテンよりも短気そうな声が飛んでくる。

「この俺様だってな、佐々木小次郎をこんなに待たせたりしなかったぞ!」

 岩渕一鉄はグローブを構えて、センターの位置についている。

 彼の言動の異様さには、あれ以来、明らかに加速がかかった。おそらく彼の心のどこか一部分は永遠に欠けたままなのだろうし、それは俺にもよくわかる。一鉄は飲み干すビールの量が減って、代わりに天井を見上げてバカ面をしている時間が増えた。

「さっさと投げろや、でかいの打たれてもいいぞ!」

 だが、一鉄の短気さと威勢の良さは、以前と同じに戻った。それは俺にとっても救いだった。こんなに嬉しいことはない。

「この俺様が守っとるんだ、どんどん放れ! そこらのヘボバッターなんて怖がるんじゃあねえぞ!」

「アー……一鉄サン、スッゲー馬鹿野郎です! 知能が低くてカワイソウ!」

 バッターボックスに立っているのはホセだ。その巨体でバットを構えると、相当な威圧感がある。サミー・ソーサそっくりのバッティングフォームで、へらへらと笑っている。

「ホセ、ホームランしようかと思ったけど、一鉄サンにぶつけて殺します! 任せてほしいよ! トモダチ!」

「なんだと、こら! ホセてめえ、なめた口ききやがると――」

「一鉄さん、落ち着いて」

 一鉄が腕まくりをし、グローブを放り投げて動きかけたところで、メガホンごしに声が響く。

「また暴力沙汰を起こしたら、次の試合は出場禁止だからね。一鉄さんだけ置いていくからね」

 馬場先生は左腕をギプスで吊り、さらに左目に眼帯という格好で三塁コーチの位置にいた。

 あの騒動の際、マリファナをすべて失った馬場先生は、一週間ほど立ち直れないレベルのショックを受けていたようだった。

 むしろ、それだけで済んだことに感謝すべきだ。本来は逮捕されているのが当然だったが、ドラゴン殺しの騒ぎで色々なことが有耶無耶になった。誰かがもみ消しに関与した形跡すらある。俺たちは仮にも『ドラゴン殺しの英雄』であり、商店街の救世主には違いなかった。

「大丈夫っす、一鉄さん! オレと及川さんが内野守ってるんスから!」

 一塁と二塁の間から、暑苦しい声がする。

「バッチコイ! 押忍! 外野までボール飛ばせねえぞ!」

 かなり頭の悪そうな発言は、いまや疑いなくヤスオのものだ。彼には負傷らしい負傷はなかった――奇跡的だった。あれ以来、ヤスオは髪の毛を黒く染めた。大学進学を考えているらしい。

 俺たちの間では『絶対に無理』という見込みがあるが、まあ、ドラゴンを殺すのに比べれば簡単ではないだろうか。とはいえ、ヤスオがバイクの免許を取得した以来の奇跡が必要になるだろう。

「及川さん、大丈夫かよ」

 俺は首を伸ばし、ホセの巨体の向こうを見た。及川さんはいつも通りのショートの位置で、静かに構えているのが見えた。

「ああ。いつでも」

 それだけだ。及川さんの答えは短い。

 これが《新桜庭ゴブリンズ》が誇る、鉄壁のショート。二遊間の断崖絶壁。及川さんのいつもの姿だ。彼だけは、あの騒動の前も後も、何一つ変わっていないように見える。一成とミキヒコの墓参りが習慣となった以外には。

 さらにいえば、『一成とミキヒコの銅像をぶち建てよう』という提案をしたのは意外にも及川さんであり、これは名案中の名案として早速計画が建てられた。商店街内部のカンパが成立すれば、来月からでも制作に着手される予定であった。

 俺たち《新桜庭ゴブリンズ》のメンバーは、こうして七人が生き残った。これは奇跡的なことだと評されたが、俺たちにとってはそうじゃない。失った二人はもう戻らないし、以前のようにはなれない。

 それでも草野球は、あの二人を忘れないための最大の方法だった。いまでも奴らがその辺で素振りをしたり、投球練習をしたりしている気がしてくる。

「じゃあ、ルシール!」

 俺は声を張り上げ、キャッチャーミットを拳で叩いた。

「気合い入れて、思い切りこい!」

「了解」

 ルシールが答え、振りかぶらなかったのが少し気になった。その腕が霞むほどの速度で動いた。

 次の瞬間。

 俺の目はかろうじてボールを追うことができた――ほかの連中には無理だっただろう。ぼっ、と、冷たい空気の壁を破壊するようにボールが飛び、そして俺たちの頭上をはるかに飛び越した。

 ホセはバットを振るどころではなかったし、ストライクゾーンがどうこうというレベルではなかった。俺は急いで振り返る。このコースは場外だ。

 そして、なにか金属的な破壊音。

「あ」

 馬場先生がそちらを見て、顔色を変えた。

「やばいよ、あれ」

 いつの間に来ていたのか、『新桜庭市議会』の文字を記したワゴン車がそこにあった。そこにあって、側面にボールを受けてドアがひしゃげていた。

「うん」

 ルシールはひとりで手を開閉していた。すこし不機嫌そうだった。

「コントロールがよくなかった。ごめん、主任。もう少しで――」

『なんてことを!』

 ワゴン車からスピーカーのハウリング音。そして聞いたことのある声。助手席を乱暴に引き開け、細川まる子が姿を現した。首からカメラをぶら下げている。

『いまのは明らかに危険行為です。即刻、練習を中止し、その危険なオーガーの身柄を引き渡してください!』

「るせえぞ、クソが!」

 もちろん真っ先に言い返すのは、キャプテン・遠藤の役目だ。

「市議会は引っ込め! 俺たちはな、来月に練習試合があるンだよ! これ以上練習サボってどうする。ただでさえクソドラゴン野郎に邪魔されたンだからな」

 悪態をついて、唾を吐き捨てる。細川まる子は視線を尖らせ、スピーカーで怒鳴り返してくる。

『あなたたちの市営グラウンドの利用は、特別措置によって限定されています。いまのような危険行為に及ぶ以上、これ以上の使用は許可できません!』

「知るか、そンなもん! 市長を連れてこい、市長を。また俺に負けるのが怖ぇンだろうよ!」

『失礼な。お父様は何も怖がってなどいません! 何度も言いますが、あなたに負けた事実もありません!』

 怒鳴りあっているうちに、細川まる子の乗っていたワゴンからは、市議会の作業服に身を包んだ屈強な男たちがぞろぞろと出てくる。そしてこういう展開になると、《新桜庭ゴブリンズ》のクズどもが黙っていられるはずもない。

「おう、いいのかキャプテン。吉岡一門と戦争する気か」

 まずは一鉄。こいつはいつも最初に乱闘の先陣を切る。グローブを地面に叩きつけ、バットを両手に抱えて持つ。

「俺様はいつでもいいぜ! これが常在戦場の心だ!」

「押忍! オレもいつでも皆殺しできます!」

「ホセ、あいつらにはこの前イジワルされました! 誰でもいいからヤツアタリしたいよ。スッゲームカついてます!」

 こうしてヤスオとホセが集まってくると、急速に空気が血なまぐさくなってくる。馬場先生は土手の向こう側に隠れるべく移動を始めていて、及川さんは無言のまま動かない。なんとなく、面白がって眺めている気もする。

 俺はといえば、なんとか止めようとするつもりはあったが、近づいてくるルシールに腕を引っ張られた。

「ごめん、主任」

「最初はみんな暴投するもんだ。しかし、コントロールをつける練習がいるな」

「うん。――もう少しであれの頭部を直撃できたと思う」

 ルシールが呟くのが、俺にははっきりと聞こえた。

「お前なあ」

「なにか問題があるの?」

「いや、あいつはあれでも」

「ふが」

 俺は細川まる子を指さそうとした――失敗だ、俺は学習しないバカだ。ルシールは軽く飛び上がって、俺の指に噛み付いた。まるでシャチだ。体重がかかった分、痛みも大きい。

『あ、そこ』

 細川まる子が、スピーカーの音が割れるほど大声をあげた。

『離れてください! ケンジくん、やはりオーガーは人を襲う凶暴性を持っているんです。それがわからないんですか』

「わたし、ぜんぜん凶暴じゃない」

 ルシールはごくわずか、見る奴が見なければわからない程度に眉をひそめた。

「あいつの方がうるさいし、迷惑だと思う。主任、違う?」

「さあ――」

 俺はそこでようやく、グラウンドの隅っこで陰気に突っ立っている男に目を向けることにする。

「お前、どう思う? いちおう、こいつの監督役だろ」

「……いちおう、ではなく正式に監督役です」

 図体はでかいのに陰気な顔の男、すなわち杉浦は、クソ真面目に答えた。

 一週間くらい前までは、包帯で全身ぐるぐる巻きのような状態であったが、いまはそれほどでもない。ただし服で隠されている部分には、いまだに治っていない傷もある。

 杉浦は消防庁によって派遣された、ルシールの監督役ということだった。本人でもその職務の意味がよくわからないらしく、頻繁に『東京に戻りたい』というようなことを言っている。馬鹿め。東京よりもこの商店街の良さがわからないとは、地獄に落ちても文句は言えまい。

「ルシールにあまり無茶なことはさせないでください。力の加減がどのくらいできるか、明確なデータがないので」

「最初の投球練習なんだから、仕方ないだろ」

「ルシールに野球をさせるなんて、ちょっと正気を疑います。しかも、ピッチャーですよね? 万が一のことがあったら」

「確かに、あのコントロールじゃあな」

 俺はポケットに入れておいたボールを取り出し、杉浦に放った。

「だったら、お前がやれよ」

「え」

 杉浦はかろうじて空中で捕球することに成功する。センスはいまいちだ。

「ぼくが?」

 まったく気の進まなさそうな顔で、手の中のボールを見ている。

「どっちにしろ、このままじゃメンバー足りねえんだよ。ちょっと投げてみろよ」

「きみたちの一員に数えられるのが、ぼくはすごく嫌なんですけど」

「ビビってるのか?」

「ビビってませんよ」

 杉浦は明らかに不機嫌だった。俺はさらに杉浦を馬鹿にしてやりたくなった。

「じゃあやれよ。ルシールにピッチャーやらせたくないんだろ」

「そうですけど」

「なんだったら、東京に逃げ帰ってもいいぜ。俺もお前の顔見たくないし」

「ぼくも同じ気持ちですけど、無理ですよ。ルシールは目を離したら何するかわからないんです。現場放棄したらぼくが処罰されます」

「そんなことないだろ? 悪いこと言わねえから帰れよ。ルシールはめちゃくちゃ消防庁の規則守ってるじゃねえか。融通きかないくらい」

「なんですかそれ。ルシールに規則なんてないですよ」

「冗談だろ。俺が主任になるのも規則だって言ってたぜ」

「だから、ルシールは消防庁の正規職員じゃないんだから、規則なんて」

 言いかけて、杉浦は横様に弾き飛ばされた。避ける暇もない。すさまじい速度と力だった――ルシールは右の拳を突き出していた。髪の毛と瞳が赤く発光していた。

「そうした機密事項を軽々しく話すのは、推奨しない」

 ルシールは白い息を吐きながら、厳かに告げた。殴り倒された杉浦は、完全に気絶している。あまりにも躊躇ない拳だった。

「言っておくけど、主任」

 ルシールは赤く発光した目で俺を見た。睨んだ、というのかもしれない。

「わたしは、誰でも噛むわけじゃないから」

「なにがどうなったら噛むんだよ」

「それは主任が悪い」

「俺?」

「あんなの放っておけなかったから。最初は。最初の夜のことを言っている。普通はあんな状態のひと、放っておけない。普通。無事に送るだけのつもりだった。でも主任は本気でドラゴンと戦うつもりで、それで、なおさら放っておけないし。主任は本気だったから」

 ルシールは一気にまくしたて、ちょっと息をついた。

「わたしはそういうのがいいと思った」

 また息をつく。

「それだけ」

 ここまで長くこの少女が喋るのは、初めて聞いた気がする。俺は意味を理解しかねて呆然としていた。もしも理解できたとして、なにか意味のある返答ができたかは怪しい。ルシールはさらに大きく深呼吸すると、俺の肩ごしに視線を向けた。

「それより主任、そろそろ危ないと思う。それともあの連中と戦闘するの?」

「いつもどおりだ」

 俺はそう答えるしかない。

 なにかひどい罵倒を怒鳴りながら、キャプテン・遠藤たちが動き始めている。こっちはヤスオ以外は手負いだ。つい最近、骨が折れたりひどい怪我をしたりしている。市議会の屈強な連中によって、コテンパンにされるだろうか?

 まさか。

 ミキヒコがいれば、いまごろ殴り合いがはじまっていただろう。俺もそれに巻き込まれていただろう。一成は一鉄の背中を守っていただろう。そんなことも有り得た。

 そう思うだけで笑えてくる。

「いつもどおりだ」

 俺にはそれでよかった。

 なにもかも、それだけでよかった。

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