第11話

「杉浦」

 仕方がないので、俺は杉浦に近づいた。

 なんとなく、こうなるような気がしていた。俺たちはほとんど同じようなものだ。最初の夜の失敗をなんとか取り返そうとして、色々やろうとして、結局ほとんど何もできずにここにいる。

 少しずつ、犠牲を払ってドラゴンを追い詰めながら。

 だから俺にとって杉浦は、ヘドが出るほど腹立たしい相手なのだろう。たぶん。

 ドラゴンは地面を揺らすような唸り声をあげ、牙の間から血の混じった涎を垂らしながらこちらを睨んでいる。まだ警戒している。いまはまだ。俺たちがまだ何か手品のタネを抱えていると思っているのだろうか。

 それならそれでいい。俺は自信満々のふりをして、杉浦の脛を蹴飛ばした。

「ビビってるんじゃねえぞ」

「ビビってません」

 杉浦はどこからか剣を拾い上げていた。その目ざとさだけは褒めてやってもいい。

「なにか作戦ありますか、ケンジくん」

「馴れ馴れしく呼ぶな。何もねえよ」

「そういうこと偉そうに言われると、イラッとしますね」

「お前が何言っても俺はイラッとするけどな」

 作戦は無い。

 そうだ。あとはたった一つの手段を試すだけだ。

 近づかなければ話にならない。ドラゴンは俺たちを睨みつけ、ゆっくりと後退しようとしていた。地面に無事な方の鉤爪を食い込ませる。

 また、あの石の雨が来るか? そいつは困る。近づかなくては。

 俺はため息をついた。杉浦も似たような顔をしていた。

「わかったよ」

「いえ、ぼくがわかりました」

「黙れ、ぶっ殺すぞ。ここは俺が先に出る」

「ここは絶対にぼくですね。囮役は技術がある方がいいはずです」

「いい加減にしろ、お前は――」

 無意味な言い合いは、ごく短時間で済んだ。俺たちの声が互いに聞こえないようになったからだ。

 すさまじい騒音だった。

 空からだ。俺も杉浦も、ドラゴンすらもそちらに注意を向けた。ヘリコプターが飛来している。杉浦は空を指差し、俺に怒鳴った。ぜんぜん何を言っているか聞こえなかった。俺の目はヘリに釘付けだった。

 その機体の側面には、『新桜庭市役所山岳救助隊』のゴシック体が描かれていた。その運転席にも、助手席にも、見覚えのある顔があった。

 運転席の男は俺に片手をあげてみせた。

「及川さん、ヘリコプターまで運転できたのかよ」

 それよりも、きっと市議会から盗んだに違いない。あんなものの使用許可が降りるものか。

 ますます及川さんの経歴が謎になってくる。しかし、それはそれでよかった。思わず不安になったのはその次で、助手席からドアを開け、身を乗り出した男の髭面だった。あんなもの間違えるはずがない。

 やっぱり、そうこなければ締まらない。俺はいつの間にか丸まっていた背中を伸ばした。ゆっくりと息を吐く。ほとんど反射的な行動だった。キャプテン・遠藤に疲れている様子を見つかったら、怒鳴られてさらにダイヤモンドを十周させられる。

 とにかく、このときキャプテン・遠藤はなにかを両手に抱えていた。そして怒鳴っている。ヘリの騒音がひどくて聞こえないが、何を言っているかは口の形を見なくてもわかる。

『ぶっ殺すぞクソ野郎』

 か、

『死にやがれクソ野郎』

 のどちらかだ。間違いない。

 その証拠にキャプテン・遠藤は、両手に持った何かを次々に投下し始めたからだ。狙いはドラゴン。三発、四発、五発――多すぎるんじゃないか。あれは、どう考えても爆弾だろう。ドラゴンは咆哮をあげて退避しようとした。

 しかしすでに遅く、爆炎と轟音がドラゴンを包んだ。風圧と息苦しさ。俺も杉浦も咄嗟に身を伏せた。だが、うずくまっている場合じゃない。俺は杉浦の背中を殴った。

「杉浦」

 いましかないと思った。俺たちには最後の作戦がある。気合を入れて頭から突っ込む。

「やるぞ。今度こそビビるなよ」

「なんでいつも一言多いんですか」

「知るかバカ」

 俺と杉浦は走り出した。

 動き出す速度も、その後の加速力も、俺の方がはるかに上回っていたことをここにはっきり述べておく。


 及川さんとキャプテン・遠藤の爆撃は、俺たちが接近する時間を作った。

 普通の衝撃と炎なんかではドラゴンの鱗を焼けないが、その内側は別だった。すでに傷だらけのドラゴンの体内を炎が焦がし、生み出す衝撃は確かにドラゴンをよろめかせるのに十分だった。

 俺は巻き上がる煙を突っ切って、最速でドラゴンの正面へ向かった。距離が詰まっていく。喉元の傷口がよく見える。いまだに血が滴る、ミキヒコの与えた一撃だ。

 体勢を立て直したドラゴンの、琥珀色の目が細められた。


 そこからの一瞬だ。

 ここが勝負だと俺もドラゴンも知っている。ドラゴンには尻尾がない。鉤爪も片方ない。無事な方の鉤爪を一撃だけ掻い潜るか、凌ぐかすれば、俺か杉浦が首元に届く。それが俺たちにとって最も楽なパターンだ。

 とはいえ、そう簡単にはいかないのがドラゴンってやつだ。この三日間はそれこそ何度も、立てた計画は途中で失敗し、また大事なものを無くして仕切り直してきた。

 ――ドラゴンが首を仰け反らせ、大きく息を吸い込むのが煙の向こうに見えた。ぐぐっ、という異様な音がする。

 挑発的な野郎だ、と俺は思った。

 炎を吐くつもりなら、俺は全速力のまま前へ飛ばなければならない。逆に昨日のようなフェイントだったら? 飛び込んでくる俺は止まれるはずもないし、ハエでもたたくように、鉤爪で返り討ちにできる。

 どっちが狙いだろう?

 そう思ったとき、俺は発作的な怒りを覚えた。

 誰に勝負を挑んだか、後悔させてやる。俺は《新桜庭ゴブリンズ》のキャッチャーだ。あの超絶バカのミキヒコの配球をコントロールしてきた。打者の裏をかいてきたわけだ――そういう勝負で負けるはずがない。

「ぶっ殺す」

 俺は確信とともに、全力で加速して跳んだ。前だ。剣を構え、ミキヒコのつけた傷痕に刺し通す構え。もはや喉元に迫っている。炎を吐きかけようとしても届かない間合いだ。

 だが、そう思ったのも一瞬。

 唐突にドラゴンの喉から響く異様な音が止まった。息を吸い込むのをやめたのだ。もともと、こいつは後出しをするつもりだったのかもしれない。俺の動きを見てから、炎でも鉤爪でも、間合いに応じた武器を繰り出せば良い。バントの構えからバスター。まさしく――目のいい打者ってのは、本当に、いつだって扱いに困る。

 俺が前へ飛んだから、こいつはそれをやめた。

 無事な方の鉤爪が動く。俺は剣を構えて前のめりになっている。振り出されてくる鉤爪に、自分から突っ込むことになる。

 そういうフリだ。

 本命のストレートと見せかけて、変化球で打ち取ることだ。騙し合いをやらせれば、ドラゴンよりも俺の方が上手いに決まってる。キャッチャーはいつだって打者の裏をかくものだからだ。

 鉤爪が迫る直前、俺はその一歩で大きく跳んだ。今度は上へ。前へ跳んだのは助走に過ぎない。ブレスを吐くのを止め、俺の位置を視認しようとしたとき、ドラゴンの頭の位置は下がった。俺のいまの跳躍力ならたいしたものじゃない。

 こうして俺は跳び、ドラゴンの琥珀色の瞳を至近距離から見つめた。

 俺に対してどんな感情を抱いているのか。怒りか恐怖か好奇心か。それとも感情なんてものはないのか。どちらでもよかった。

 俺はその左目に、魔法の剣を力いっぱい突き立てた。

 ドラゴンは悲鳴をあげてのけぞった。俺はそのまま剣にしがみつく。決して離すつもりはなかった。さらに眼球の奥へと剣をえぐり込む。ドラゴンは大きく体をよじり、首元の傷口が無防備に晒されることになる。砕けた鱗による、ひび割れのような傷だった。

 その亀裂に、突っ込んできた杉浦の剣が吸い込まれたように見えた。血が吹き出す。いままでにないほど大量の血が。杉浦は両足を地面につけて踏ん張った。

 しかし、浅い。剣をしっかりと鍔際まで押し込まなければならない。あのときミキヒコがやろうとして、できなかったように。

「バカ、杉浦、お前」

 俺は剣の柄にしがみつきながら怒鳴る。

「ビビるな、思い切りいけ! ぶん殴るぞ!」

「わかってます、言われなくても」

 とはいえ、杉浦にそれほどの余裕はない。ドラゴンが横から鉤爪で殴りつけてくる。一度、二度、それを盾で防ぐのが精一杯だ。両手を回せない。それどころか、盾ごと吹き飛ばされそうだ。いや、もはや爪は杉浦の体に食い込んでいる。盾が砕けていく。肩がえぐられる。脇腹に突き刺さる。背中が引き裂かれる。地面に踏ん張っていた杉浦の足が、ふらつき始める。

 どこまで耐えられる?

 ドラゴンはもはや断続的に絶叫をあげ、口から血を吐いている。

 俺にしたって、ドラゴンの眼球に突き刺した剣にしがみつくのにも限界がある――いや、もう少し――こんなところで。なにか他にできることが――打てる手は。

 なにか。

「杉浦!」

 結局俺は、血だらけの杉浦に対して怒鳴ることにした。俺はキャッチャーだからだ。なんのアドバイスでもない、ただのいつものバッターに対する野次のようなものだったが、俺はそれ以外の言葉を知らない。

 俺はいつものように声を張り上げる。杉浦の盾が完全に砕け、傷だらけになって、さらに傷つくとわかっていてもだ。投手がどれだけ追い込まれようが、キャッチャーまで戦意を失ったらおしまいだからだ。やらなければならない。

「気合入れろ! そいつをぶっ殺したら商店街で祭りだ! 寿司でも焼肉でも勝手にしろよ、だから――」

「本当?」

 むしろそれは、俺の怒鳴り声や、ドラゴンの咆哮よりも小さな声だったと思う。だが、確かに聞こえた。

「がんばる」

 ルシールがいつの間にか杉浦の後ろに立っていた。作業着は血に染まり、左肩はだらりと垂れ下がっている。髪の毛と瞳が赤く発光していた。そのとき、俺はいつの間にか夜が来ていたことに気がついた。

「わたしは、ドラゴンとの戦闘を支援する」

 そしてルシールは無造作に、ドラゴンに刺さった剣の柄を蹴飛ばした。かなりの勢いだったと思う。杉浦もなにか気持ちのわるいうめき声をあげながら、思い切り剣に体重を預けた。

 剣が深く、今度こそしっかりと、鍔元まで突き刺さるのがわかった。

 ドラゴンは空に向かって一度だけ吠えた。

 それがドラゴンの死だった。


「いつまで寝てるんだ」

 すっかり日が落ちた。

 俺はドラゴンの死骸の傍らで、杉浦の顔を覗き込んだ。力を使い果たしました、と言いたそうに、ぐったりとうずくまっている。全身は傷だらけだ。それはドラゴンの血か、自分の血かわからないほどだった。

「ゲームセットなんだよ。みんなを連れて戻らねえと。いや、及川さんが救護班とか、呼んでくるかもしれないけど」

 ルシールは馬場親子を探しに行ったので、俺は杉浦の応急処置を担当するしかなかった。最もやりたくない役回りだった。

「試合ってのは家に帰るまでだからな。ゲームセットしてからが本当の勝負だ。おい、わかってんだろうな」

 そういう俺自身の呼吸も覚束ない。風が吹き、急激に冷え込みを感じた。俺は地面を見た。岩の上は血でぐしゃぐしゃだった。

「返事くらいしろ」

 今夜は月が出ている。なんとなく神経が鋭くなっている気がする。俺は一成を思い出す。あまりにも寒く、俺は肩を震わせた。

「杉浦」


「疲れてるんで、黙っててください」

 杉浦はかすれた声で答えた。少し腕が動いた。

「すごく疲れてるんですよ。すごく」

「冗談だろ? これから打ち上げなんだぜ――おい。寝るな。殺すぞ」

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