第7話
さすがに、いつも以上の力をこめることができた。
むしろ、こめすぎたといえる。
俺が投げた瓶は、ドラゴンの頭上をやや飛び越すコースで飛んでしまっていた。やっぱり投球練習はしておくべきだった。
俺は唇を噛んだ。まずいかもしれない。
「馬場先生! だめだ。プランCってのを、はやく」
「いや大丈夫」
馬場先生は、魔法でも使うように片手をあげた。
「これで十分。ぶっつけ本番ですごいね、ケンジくん」
ドラゴンの頭上を飛び越しかけた瓶は、唐突に砕けた。ぼっ、と、軽い音を立てて破片が飛び散る。
それはほとんど、馬場先生が魔法を使ったように見えたかもしれない。
しかし俺の目は、空中の瓶を砕いたものの正体が、一発の弾丸であることを視認していた。神経が尖る不思議な感覚だった。弾丸の飛来した軌跡を視界の端に見る。デパートの非常階段の二階あたり、及川さんが煙をあげる猟銃を引っ込めていた。
「やった」
馬場先生はガッツポーズをした。
「本当に効いた!」
瓶が砕けて、中身の液体が破片とともにドラゴンの頭部に降り注いだ。効果は劇的だったといっていい。その瞬間、ドラゴンは目を強く閉じた。咳き込むような咆哮を断続的にあげながら、頭を抱えてうずくまる体勢をとる。
馬場先生は喜々として、俺の肩を叩いた。
「これ、すごくない? 私の魔法!」
「あれの中身、なんだ?」
「だからぼくの魔法の」
「いいから正直に」
「……農薬。クロルピクリン。いや、効くかもしれないと思ったんだよね、催涙性があるんだ。粘膜とか目を狙うっていう、この私の画期的な――」
俺はなんとなく確信した。馬場先生は、実は魔法なんて使えない。
だがこれは彼の考えた破れかぶれの作戦には違いないだろう。ドラゴンが咄嗟の回避行動をとれないような奇襲で、しかも及川さんの狙撃技術があってはじめて成立するような、限りなく一発芸に近い代物だ。もちろん、俺のイバン・ロドリゲス並みの強肩も必要だったことは言うまでもない。
ドラゴンが身をよじり、苦痛を感じているような声をあげる。こんな絶好のチャンスに、俺たち《新桜庭ゴブリンズ》がチンタラやってるはずはない。守備陣が猛然と走り出している。
「おらホセ、走れ! クソガキがいったぞ!」
「ホセ、ダイジョーブです!」
ルシールを先頭に、キャプテン・遠藤とホセが接近する。俺は気づかないうちに身を低く沈め、拳を握っていた。汗がにじんだ。
ぶおおおおおん、と、ドラゴンが唸り声をあげる。
振り回した尻尾は狙いがでたらめだったが、それでも大きさが違う。ルシールを巻き込む軌道。風が渦を巻いた。ルシールは足をふんばり、迎え入れるように両腕を突き出した。
「ふが」
あまり気合の感じられない声とともに、尻尾を受け止める。異様な激突音がした。その体のサイズから考えて、それは物理的にかなり無理のある構図だった。
しかし、これこそが対ドラゴン兵器の筆頭、最新鋭のオーガーなのだろう。
「いいぞクソガキ」
キャプテン・遠藤とホセは走り込み、これもまたでたらめに振り回される右の鉤爪を盾でおさえた。ふたりがかりで受け止めた形だが、それでもキャプテン・遠藤は少しよろめいた。
キャプテン・遠藤は悪態をついた。
「ふざけンなよ、馬鹿力しやがって」
「ダメ。キャプテン、無理はよくないです。あなた、ホセのパワーの足元にも及ばない貧弱野郎だから」
「なンだとクソが」
キャプテン・遠藤が憤怒の表情を浮かべて、爪を押し返すように力をこめた。ドラゴンが咳き込みながらも、どうにか目を開き、無謀な挑戦者たちに狙いを定めようとする。
その後ろ足から、血が吹き出した。
「おす! すんません!」
ヤスオは血に濡れた剣を抱え、すでに離脱しつつあった。後ろ足への一撃を見舞ったのは間違いない。さすがヤスオ、ゴブリンズの鉄砲玉。打順は一番。最初に飛び出すのは彼だと決まっている。
「ぜんぜん浅かったっす! 一鉄さん、お願ッシャッス!」
「ビビってんじゃねえぞ、おう!」
岩渕一鉄は怒鳴り声をあげながらヤスオとすれ違った。こちらも後先を考えない全力疾走である。剣を両手で握り、ほとんど体ごとぶつかる。ヤスオが傷つけたのと同じ左後脚を、さらに深々とえぐる。
血飛沫が飛んだ。剣を引き抜くのではなく、振り抜いたのだ。相当に無謀な突進でなければ、こうはいかない。
「宮本武蔵様参上だクソ野郎! 死ねボケ!」
名乗りをあげるが早いか、こちらも全速力で走り去る。ドラゴンは傷ついた足を確かめるように地団駄を踏んだ。アスファルトが砕ける。咆哮のオクターブが一段階低くなったように感じた。
「回れ回れ回れ回れ! 足動かせ!」
キャプテン・遠藤が片手を回して怒鳴っている。夕陽のせいで、その影が長く伸びていた。それはまさに、俺たちが練習中のグラウンドで見るそのままの光景だった。
「守備陣! 気合い入れ直せや、次だ、くるぞ」
「トモダチ! ダイジョーブ。キャプテンごときがホセに指図しなくても、ホセ、スッゲーがんばるよ」
そのとおり、ドラゴンは体勢を立て直しつつあった。何度かの瞬きのあと、目が見開かれる。牙が剥き出され、唸り声があがる。翼が大きく広がった。飛ぶつもりだ。やはり、それが有利だと知っているのだろう。
「飛ばせンな! つかまえろ」
キャプテンの怒号で、ホセとルシールが何かを構えた。俺にはよく見えた。鎖鎌だ。ヤスオが振り回していたバカバカしい武器だが、使うやつが使えば話は別だ。
ドラゴンが地面を蹴って飛び上がろうとした、その右前脚に、ホセとルシールの鎖が絡んだ。
「バランスさえ崩せば、飛び立つのは無理だ。きっと。たぶん」
馬場先生が自分に言い聞かせるように呟いた。
数秒間の膠着があった。ドラゴンが力づくで飛び上がろうとし、ルシールとホセが鎖を握り締める。ルシールの髪はさらに激しく赤く発光し、もはや眩しいくらいだった。夕暮れの中でも鮮明に赤い。
そして、一発の銃声がその膠着を崩した。
ドラゴンの琥珀色の瞳に火花が散ったように思う。ドラゴンは咄嗟に目を閉じ、決定的に飛行のためのバランスを失った。
ドラゴンは明らかに苛立っていた。やることなすこと、うまくいかない。翼をただ無意味にばたつかせ、後脚の鉤爪でアスファルトを引っ掻く。
「弾丸はドラゴンを傷つけられないけど、それでも、弾丸がぶつかった衝撃自体には意味がある。さすが及川さん! よく当てるよなあ、あんなの」
馬場先生は及川さんに片手を振った。及川さんは、さっさと次の猟銃を取り出している。弾丸を装填する手間も惜しいようだ。
代わりに、及川さんは俺に向かって首を傾け、ちょっと肩をすくめてみせた。
「次はそっちの番」
とか、そういうことを言いたいのだろう。
もちろん、わかってる。地面に引き倒されたドラゴンを放っておく手はない。俺と、岩渕弟の出番だった。そういう順番で、そういう組み合わせだ。決まっているからやるしかない。
俺はほとんど発作的に走り出した。頭の中は空白に近い。
その数秒間は、ドラゴンの咆哮も、こちらを睨む琥珀色の目も、どちらもまるで意味を持たなかった。自分の感情がどこか遠く感じる。
「声だせ、オラ」
キャプテン・遠藤が怒鳴っていたのは覚えている。
ドラゴンが起き上がろうともがく。その前足の横殴りの鉤爪を、キャプテンは盾で受け止める。衝撃をそらすのは角度だ。魔法の盾の表面を火花が散った。
「ピッチャービビってるぞ! 殺せ!」
本当にそうだといいと思った。
走り出すと、ドラゴンの尻尾が動くのが見えた。俺は鉤爪よりも、こちらの方が厄介だと考えていた。長く素早く、柔軟で、ぶつかると大抵は吹き飛ぶ。
だが、いま、そいつはルシールが抑えに回っている。
いけるはずだ。
尻尾の一撃を再び受け止め、ルシールの赤い瞳が輝いた。彼女の牙のような歯を食いしばるのがわかる。一瞬だけ目があったかもしれないが、俺はそのまま傍らを駆け抜けると、ヤスオと一鉄が傷つけた左後脚に剣を引っ掛けた。
血が吹き出す。肉を破って骨まで届いたような、硬い感触。確認する暇もなく、剣を力任せに引き抜いて、また全力で走る。ドラゴンの咆哮が響く。冷たい血飛沫を顔の左半分に浴びた。
「すげえっ」
ヤスオが目を見開いているのがわかる。ドラゴンがさらに体勢を崩したのが見えたか。左足はさすがに深手だろう。体重を支えるのも苦労するはずだ。
「一成さん、ぱねぇっす!」
だが、このときヤスオが感激したスーパープレイは、俺のことじゃなかった。
岩渕弟だった。
「ううううう――ううう、う!」
一成が魔法の槍を抱えて、ドラゴンの土手っ腹に穂先を突き込んでいる光景がちらりと見えた。それも束の間のことで、俺はそのまま全速力で離脱する。視界が朦朧とした。緊張と疲労、その両方だ。
しかし、やれる。できた。俺は魔法の剣を握り直しながら、どうにか駐車場の看板の裏に転がり込む。遮蔽物を利用して、ヒット・アンド・アウェイ。それだけが唯一の戦い方だ。
「やれる」
俺は言い聞かせた。
ミキヒコのようにドラゴンに一撃をくわえてやった。まだやれる。一瞬、顔をあげると、馬場先生の背後でまだ固まっている杉浦がこちらを見ているのがわかった。俺は挑戦的に中指を立てた。
お前と違って、俺はやれる。そういう意味だ。
「おら、でかいのくるぞ!」
キャプテン・遠藤が注意を促す。ドラゴンが大きく息を吸い込むべく、のけぞるのがわかった。琥珀色の目が憎悪に燃えていた。
その巨体の影が、やけに長く伸びた気がする。太い首がごぼごぼと音を立てて膨れ上がる。俺はその動作に見覚えがあった。思わず祈った――何にとは言わないが、とにかく祈った。
「飛べ、クソども」
ホセと、キャプテンと、ルシールは揃って飛んだ。
つまり、前方へ。ドラゴンのブレスの死角は、首元に触れるくらいの至近距離にある。三人が赤黒い巨体の影へ飛び込み、そして見えなくなった。
ドラゴンの開いた口から、白くまばゆい炎が吐き出される。俺は反射的に身を低く伏せていた。目が眩むほどの光。炎は直線的に放たれ、駐車場に停まっていた何台かの車を焼いた。それどころか、駐車場を囲むように植えられていた樹々を消し炭に変える。
一瞬だった。
俺は知らないうちに呼吸を止めていたらしい。
「ふが」
再びそれを再開できたのは、ルシールが赤い髪をなびかせて、ドラゴンの顎を殴って跳ね上げるのを見たときだ。尋常な腕力じゃない。キャプテンとホセは「クソ」だの「馬鹿力」だの喚き散らし、悪態をつくふりをしてルシールを褒めていた。
二人はデタラメに振り回されるドラゴンの鉤爪を受け止め、ルシールともども、再び距離を離す一瞬の隙を稼ぐ。それには、再び及川さんがドラゴンの目を狙って放った銃弾が助けになった。
すべて、連携の結果だ。
十分に通じる。
俺は手応えを感じた。ドラゴンだって無敵じゃない。こういう場所で、多人数で、徹底的にハメてやれば、そんなに怖がるものじゃない。俺はそう思いかけていた。あと少しで、本当にそう信じるところだった。
あと少しで。
「もう一回かよ、畜生」
キャプテン・遠藤がまた警戒を促した。
ドラゴンが首をのけぞらせ、ごぼごぼと大きく息を吸い込む。立て続けに二回目のブレス。これを避ければ大きな勝機が出てくる。おそらくブレスは二発までという話だ。確証はないが、それにしたって、ドラゴンの必殺の一撃を回避できたのは、俺たちにとって大きな自信になった。
それがよくなかった。
すべては針の穴を通すような、唯一の正解を選び続けていく戦いだった。ひとつでもそれが外れれば、そこで何もかもが終わる。
「飛べ!」
キャプテンたちはそろってドラゴンの首元へ飛び込もうとした。ルシールは眉をひそめ、一瞬、動くのが遅れた。その判断が正解だった。
ドラゴンは唐突に息を吸い込むのをやめた。
「キャプテン! ダメですって、そいつ頭いいから――」
馬場先生がメガホンを使って警告するのは、完全に遅れていた。
引っ掛けだ。
ドラゴンにその概念があるかどうかはわからないが、俺はそう思った。決め球のストレートに目を慣れさせておいて、カーブで打ち取る。そんなやり方、俺がもっとも理解しているべきだった。
ドラゴンはドラゴンで、俺たちへの対策を立てたということだ。この、無謀にも己に挑み、なおかつ痛手を与えてきやがった連中に対して。
「畜生」
キャプテン・遠藤の目は、火を吹きそうなほど怒り狂っていた。
ドラゴンは前足を無造作に振り上げ、鋭い鉤爪がキャプテン・遠藤の体を捉えた。キャプテンは咄嗟に盾を構えることには成功していた――そんな防御行動をとれたのだって、奇跡的だ。
しかし、それで限界だった。真正面からドラゴンの一撃を受け止めることは、キャプテン・遠藤にはできない。彼の体が宙に吹き飛ばされる。高々と舞い上がって一回転。足から着地できたこともまた、奇跡的なことなのだろうと思う。
それでも無理なものは無理だった。
ごきりと異様な音が、俺の耳に届いて反響した。
自身の鎧の重量も含め、落下の衝撃をまともに受け止めたキャプテン・遠藤の足は、およそ有り得ない方向に曲がった。
甲冑のすね当てから、血が吹き出すのが見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます