第6話
桜木岳までの道のりは、昨夜とまったく変わらなかった。
拍子抜けするほどに同じ光景が続いていた。水を抜かれた田園と、点在する民家。申し訳程度に舗装された道路。ただ、新桜庭市民の姿だけが無い。荷物をまとめて、市外へ向かうトラックとたまにすれ違うだけだった。
街が死にかけているのがよくわかる。
だから俺はずっと無言だった。
俺の心中を汲んだわけでは絶対にないだろうが、ルシールもなにも話しかけてこなかった。ヤスオの改造バイクの騒音が凄まじかったせいもある。あいつのバイクに関する美学はどうかしている。
登山道の入口まで、俺たちはバカバカしいほどの駆動音を響かせ、無言で走り抜けた。まだ夕暮れまでは時間があるが、ゆっくりと陽が傾こうとしているのが見えた。
「ルシール」
俺はヘルメットをバイクのシートにくくりつけ、ルシールを振り返った。ここからは、彼女が命綱になるであろうことはわかっていた。
「お前さ、ドラゴンが近づいてくるのがわかるんだろ?」
「もちろん」
ルシールは自信ありげにうなずいた。
彼女は顔に感情があらわれないだけで、むしろ情緒豊かな部類に入るのかもしれない。
「わたしの探知ネットワークは最新鋭。さまざまなテストを優秀な成績でクリアし、どんな小型のドラゴンでも見逃さない」
「わかった。昨日みたいに、ちょっとでも近づいてきたら教えてくれ。いまドラゴンがどこにいるかわかるか?」
「……わたしのネットワークは、相手の地理上の座標を探知するものではない」
今度は、ルシールは急に不機嫌な声になった。
「わたしを中心に、どれだけドラゴンが近づいているか調べる。ドラゴンを倒すのに、それ以外の情報が必要?」
「いや」
文句を言うのは筋違いだ。俺たちはみんな、できることをやるしかない。
「上等だ。まずはキャプテン・遠藤たちを探そう」
「それはわたしの優秀さを頼りにしているという意味?」
「そうだよ。行くぞ。ドラゴン殺すまで俺は死ねないからな。いま、ドラゴンはどのくらいの距離にいる?」
「探知可能範囲外」
「よし」
俺は大きく息を吐いた。心臓の鼓動が早くなるのを感じた。
ドラゴンはいまだこの山のどこかにいる。もはや明白だったはずのその事実が、予想外に重たい。まずは落ち着くべきだった。息を大きく吸い込んで、肺に冷たい空気を送ってやる。
「いいかルシール、この山の」
「ふが」
俺は山頂の方を指さそうとしたが、それは完全な間違いだった。
ルシールは半ば条件反射的に、俺の指に噛み付いていた。
「……あのさ」
俺はルシールの顎をおさえ、ルシールの口を開かせる必要があった。彼女の牙がくい込んだ指を引っ込める。血が小さな玉のようになっていた。
「お前、なんでいちいち噛むの?」
「そろそろ噛んでいいタイミングかと思って。あと、主任が気合いの入っていない顔をしているので」
「うるせえよ」
大きなお世話だと思った。なので、俺はルシールの肩を叩いて、前方へと足を踏み出した。
「当てにしてるからな。まだ、ドラゴンに遭遇するわけにはいかない」
「任せて」
ルシールは俺を追い越して歩き出す。すっかり機嫌はなおったようだった。いまは祈る以外にできることはない。
ドラゴンに見つかる前に、キャプテンたちと遭遇することを。
――とはいえ、俺は失念していた。
どんな状況であれ、バカを見つけるのは簡単だ。
特にそれが《新桜庭ゴブリンズ》の常軌を逸した連中ならば、さらに容易い。子供の頃の話になるが、ミキヒコは山へ遊びにいったまま夜になっても帰ってこなかったことがある。
あのときは俺を含めて《新桜庭ゴブリンズ》のメンバーが総出で山の中へ入って捜索に取り掛かる騒ぎになった。
いや、正確には取り掛かりそうになったところで、山の麓の神社で花火をしていたミキヒコを発見した。
あの男ときたら、いまはドラゴンに叩き潰された神社に向かい、大量の花火を打ち込んでいたのだった。危うく神社は全焼しかけて、なぜか俺まで『ミキヒコの凶行を止めなかった罪』により、一緒になって怒られた記憶がある。
いまや俺は、改めてその事件を思い出さざるを得なかった。
なぜなら彼らはまったく何の備えもなく、登山道の只中で、焚き火をしながら酒を飲んでいたからだった。
「おう!」
キャプテン・遠藤は明らかに酔っている赤ら顔で、焼酎瓶を掲げてみせた。もう片方の手には焼き鳥があり、静かに煙をあげる焚き火で炙ってさえいた。
俺は呆れと怒りで完全に主導権を失った。
やっぱり、彼らはドラゴンの危険性を過小評価しているか、リアルに受け止められていないのだ。
「ケンジ! てめえ、遅いぞ。先に始めてたぜ」
キャプテン・遠藤は自らの傍らを指し示した。
二人の男が適当な石に腰掛けて焚き火にあたっている。二人の男の顔つきはよく似ており、その出で立ちもそれぞれ異様な雰囲気を漂わせていた。
片方は作業着の上から鎖帷子のようなものを着込み、日本刀の大小を腰のベルトにぶち込んでいる。もう一方の男は全身をすっぽりと覆うコートを着た上で、フードを目深に被って俯いていた。
どちらも、《新桜庭ゴブリンズ》のメンバーである。
岩渕兄弟という。
「なんだケンジ、お前」
鎖帷子の方が、俺をじろりと睨んでビールを呷った。
こっちが岩渕兄弟の、兄貴の方。岩渕一鉄。ポジションはライト。本当は内野手だったが、あまりにも喧嘩っぱやく、挑発されるとすぐにランナーをぶん殴ったり蹴ったりするので、ヤスオと入れ替わりで外野送りとなった。気の短さではキャプテン・遠藤といい勝負かもしれない。
そして何より、自分を宮本武蔵の生まれ変わりだと信じている、あまりにも危険な男だった。
「女連れで来るとは余裕じゃねえか。阿呆め。観光気分で来てるんじゃねえぞ。いいか、ケンジ」
一鉄は日本刀の柄を軽く叩いた。
「戦いっちゅうもんはな、向かい合う前から勝負がはじまっとるんだ。そう、ありゃあ俺様が巌流島で小次郎と戦った時だったな、わざと遅れて行って相手を動揺させたもんだ。ケンジわかるかお前に? これが心理戦っちゅうやつよ」
そのあまりにもひどい台詞に、俺はさらに言葉を失ったし、ルシールも片方の眉をかすかに動かし、俺を振り返った。
「主任」
俺はようやくそれが『不機嫌』の合図だということに気づきつつあった。
「なにこの人たち?」
「ドラゴン退治の仲間だ。噛み付くなよ」
「失礼なことを言わないで。私は誰彼構わず噛んだりしない」
「だったらまず俺の指を噛むのを――」
「……う、う、う」
不意に、横合いから唸り声がした。
フードを目深にかぶった男の方だ。
こちらが岩渕兄弟の、弟の方。岩渕一成。ポジションはレフト。こちらは顔色が死人のように青白く、しきりと貧乏ゆすりをしているが、それはいつものことである。見開いた目はルシールを見つめていた。
「兄貴、う、う、おれ、やだな、そいつ」
岩渕弟・一成は、自分自身をかき抱くようにして身を縮めた。唸り声の合間に、どうにか言葉を作っている様子だった。
彼のこの状態の原因については、ライカンスロープ症のせいだと聞いている。
ライカンスロープとは「人狼」のことだ。兄弟で中東を旅行した際に人狼に噛まれ、それ以来この調子である。どうやら人狼に変化すると感覚神経かなにかが何百倍にも強化されるらしく、それを人間の脳ではうまく処理しきれないため、精神に異常をきたす者が多いという話だった。
よく考えると、岩渕兄が本格的に自分を宮本武蔵の生まれ変わりだと吹聴しはじめたのも、弟の一成がこうなってからだったような気がする。
「ち、ち、血の匂いがする。そいつ、怖い」
一成はどもりながらルシールから目をそらし、震え始めた。恐怖と混乱が半分ずつ感じられる表情だった。
「おう! 悪いな」
岩渕兄・一鉄は、ビール瓶に口をつけた。
「うちの弟は人見知りするタチでな、あんまり怖がらせるんじゃねえぞ。俺様の二刀流が火を噴くからな」
「……そう。ハーフ・ナチュラル?」
不意にルシールが呟いた。横目に彼女を見ると、興味深そうに岩渕弟を眺めている。鼻がわずかに動いているところを見ると、匂いでも嗅いでいるのかもしれない。俺はルシールに、その発言がどういう意味か尋ねようとした。
そこで、俺の疑問をかき消すように銅鑼声が響いた。
「おう! 野郎ども!」
キャプテン・遠藤だった。彼は空になった焼酎の瓶を捨てた。
「ごちゃごちゃ喋るのは後だ。とにかくやるぞ。こいつはただの勝負じゃねえ。なあケンジ。馬場親子とホセは後から来るンだろうな?」
わめきながら、彼はややふらつく足取りで立ち上がる。
「いま、及川のやつが偵察に出てる。戻ったら、ドラゴン狩りだ! 絶対にミキヒコの仇はとる。この俺たちがだ!」
「当たり前だ」
岩渕兄が不敵に笑った。根拠のない自信を語らせたら、新桜庭市でこの男の右に出る者はいない。
「この宮本武蔵様がついてるんだ。ドラゴンなんかに負けるはずがねえ!」
「馬鹿か」
俺はいっそ悲壮な気分になった。
ドラゴン退治の前に、やらなければならないことがある。まずは焚き火だ。この煙が目印になってしまうだろう。
「ルシール、手伝え」
砂をかけて消化にかかる。あとは酒も問題だ。アルコールが入っててドラゴンと戦えるはずがない。
これに対して、キャプテン・遠藤は血相を変えて俺の肩を掴みに来た。
「おい! なにしやがるンだ」
「ルシール、お前は酒だ。中身ぜんぶ捨てろ」
「そう。了解」
ルシールの動きは素早かった。さすがにオーガーなだけはある。
岩渕兄の手からビール瓶を奪うまでもなく、拳を一閃させると、快音とともに瓶が砕けた。中身がこぼれる。
「う、う、ううううう――」
間近でそれを見た岩渕弟が、ひどい唸り声をあげはじめた。頭を抱えて耳を抑え、後半はほとんど叫び声に変わっている。
「う、う、兄貴! こいつ、うるさい! 嫌だ!」
「おい、このクソガキ!」
岩渕兄はルシールに凄んでみせると、手中に残った半分のビール瓶を地面に叩きつけた。形相は阿修羅のようで、片手も刀の柄にかかっている。
「俺様の酒が! それに見ろ、うちの弟を怖がらせやがって! 一成はうるせえのが嫌いなんだよ。二天一流の餌食にするぞ!」
だが、ルシールはそんな文句は聞いちゃいない。彼女はただビールで濡れた自分の手の匂いを嗅ぎ、思い切り顔をしかめた。
「アルコールくさい。主任、これでいい?」
「ああ。悪かったな。――あのさ、キャプテン・遠藤」
俺はキャプテン・遠藤の肩を掴み返した。その酔っ払いの目を覗き込む。たしかにそこには怒りと狂気と、それから破れかぶれに近い殺意があった。
「本気でドラゴン殺すんだよな、俺たち?」
「当たり前だ!」
キャプテン・遠藤は大声でわめいた。
「ドラゴンの野郎は、俺たちが絶対にぶっ殺してやる」
「だったら、本気でやろうぜ。破れかぶれじゃなくて、ちゃんとまじめにドラゴン殺すんだよ。そうじゃなきゃ意味がねえんだよ」
「俺は大真面目だ! ふざけてンなよケンジ。ミキヒコが殺されて!」
キャプテン・遠藤は獣じみた唸り声をあげた。
彼が激しい怒りを、それでもどうにか俺に向けずに抑えてくれているのがわかった。俺に対して『臆病者』の言葉を決して口にしないように、努力してくれているのがわかった。
「俺が! ケンジ、この俺が、てめえよりも悔しくねえと思ってンのか!」
「違う、そうじゃねえんだって。そうじゃなくて」
俺はどうしていいか途方に暮れた。
彼らにドラゴンの危険性をわかってもらうにはどうすればいいのか? まだドラゴンと戦うための手段は何もなく、作戦のひとつもない。こんな状況でみんなを失うわけにはいかなかった。
だが、いま、他になにができるだろう。
俺はほとんど諦めかけた。『勝手にしろ』の言葉が喉まで出ていた。
それを防いだのは、登山道の斜面を滑るようにやってきた、新たな一人の男の登場のおかげだったといえる。
「おい」
と、彼は低い声をあげた。
小柄な男だ。薄汚れたコートに身を包み、頭には帽子。そして、片手には猟銃が握られていた。
「……なにをやってる。かなり先まで声が響いている」
どこか陰鬱な声で、そいつは俺とキャプテン・遠藤を引き剥がした。
「いま、殴り合ってる場合じゃないだろう」
静かだが、そこには有無を言わせぬ意志があった。
彼の名を『及川さん』という。新桜庭で猟師を営んでいるが、その詳細な経歴を知るものは《新桜庭ゴブリンズ》にすら誰もいない。下の名前だって俺は聞いたことがないのだ。
アホ揃いの商店街の中でも、もっとも常識があると思われている一人だった。
俺とミキヒコは彼に山歩きの基本を教わった。密かに尊敬していたともいえる。キャプテン・遠藤だって、彼には一目置いていた。
「及川」
キャプテン・遠藤は、まだ怒りのこもった目で及川さんの顔を睨んだ。
「――どうだったンだ? ドラゴンは?」
「見当たらないな。だが、わかったこともある。まずは山の生き物がほとんどいなくなっていること」
及川さんは、そこで一瞬だけ俺を見た。
「それと、――この先で少しな。ケンジ。どうする。このまま進むか」
及川さんは、俺に問いかけていた。この先。俺はまた心臓が早まるのを感じた。冷や汗が吹き出してきそうだった。もしかすると、数秒間ほど無意識に目を閉じていたのかもしれない。
キャプテン・遠藤だけでなく、岩渕兄弟まで心配そうに俺を眺めていたくらいだ。
「ああ、大丈夫だ。及川さん」
俺はうなずいた。
思いついたことがある。そう、それは絶対に必要なことだった。これからドラゴンをぶち殺すために。
「行こうぜ。キャプテンにも岩渕兄弟にも、見てもらいたいんだ」
そうして俺は、重たい足を前へと踏み出した。冬の日は短い。太陽はすでに大きく傾き始めていた。
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