第39話 ワサビ2

ワサビ2


 熱燗が嫌いなのである。

 五十~七十代の先輩諸氏が、特に寒い時期に好まれる日本酒の熱燗。これがオレは大嫌いなのだ。

 むわっとくる、きついアルコール臭。

 必要以上に喉元にツンツン来る刺激。

 そのくせ変に甘ったるく、料理の味も台無しになる。

 口元に持って行くだけで、吐きそうになる。

 むろん、どんな酒でもそうだというわけではないことくらいは知っている。

 本当に良い酒を、人肌より少し温かいくらいにした燗酒は、決してそのようなことはなく、非常に美味い。

 だが、居酒屋、寿司屋、小料亭などで何も言わずに「熱燗」と頼むと出てくるそれは、上記のごとくに不味い。確実に安い酒を、そうとバレないように沸騰寸前まであたためて出してくるのであろう。

 その、不味い熱燗を、ほぼ一年中、二、三ヶ月おきに吐くほど飲まなくてはいけない。

 飲みたくて飲んでいるわけではない。接待だ。

 お客さんの「協力会」ってやつで、会費を取って宴会をする会があるのだ。

 その会社は決して取引量が大きいわけではないのだが、古くからの付き合いで、決して浮気をしない。しかも、そこの会長さんがとても人柄が良く、俺は大好きなのだ。その上、よく美味しいものをくださったり、紹介してくださったりするもんだから、なおさら不義理はしたくない。

 嫌いな熱燗といえども、勧められれば飲まざるを得ないのだ。

 まず、会長の手打ち蕎麦が美味い。

 玄人はだしなどとよく言うが、そんなレベルではない。のどごし、香り、歯ごたえ、どれをとっても、その辺の蕎麦屋よりは確実に数段上だ。

 それはそうだろう。蕎麦屋は顔の見えない不特定多数の客に対して、出来る限りコストを抑え、大量に供するのが仕事であって、値付けをする以上は、いくら吟味してもどこかにアラが出る。

 だが、会長はストイックに蕎麦の旨さのみを追求し、蕎麦粉、つなぎ、打ち粉、道具までも吟味し、こだわり、ごく少量を気に入った人に配るだけ作るのだから。

 時々、打ち立ての蕎麦を持ってきてくださったりもするし、年に一、二回は蕎麦会を開いて、関係者を招いてくださる。

 うちの息子などは会長の蕎麦の大ファンで、蕎麦会では、毎回十杯近く食べる。


 会長は畑も作っておられて、様々な野菜も持ってきてくださる時があるが、これまた美味い。キュウリ、トマト、大根、瓜など、どれもどこに出しても恥ずかしくない器量と味だ。

 完全無農薬、というわけではないらしいが、手を掛けておられるから必要最低限なのだろう。どの野菜も甘味充分、渋味は全く感じない。


 味噌も手作りされていて、これは誘われて一緒に作りに行った。

 厳冬の頃、とある施設を借り切って、持ち込んだ無農薬の大豆、こうじ、自然塩で、田舎味噌を造る。できあがるのは初夏になってからだが、当然、旨味も香りも段違い。

 味噌汁や鍋にもいいが、そのまま食べる田楽用の甘味噌や酢味噌、あるいは野菜炒めに入れて味噌炒めなど、火を通すと、特に市販品との差は歴然とする。この味噌を一回使ったら、アホらしくてパックの味噌など買う気も起きないのだ。


 そうそう。

 美味うまいものには目のない会長だから、山菜採りも大好きでお上手だ。

 ワラビやウド、ワサビもご自分で採ってきて料理し、冷凍パックで一年中楽しんでおられる。そのことを知って、ある年の春、ワサビ採りに連れて行っていただいたこともある。

 そこは、市街地から一時間程度走った場所だった。県庁所在地とはいえ、田舎のことだからそれだけ走ればそろそろ県境にも近くなる。

 地元の人が、毛むくじゃらの大男を見た、などというUMA目撃情報もあるあたりで、会長の車は停車した。かなりの山奥で周囲には人家はない。車通りもほとんど無いとはいえ、二車線の立派な道路沿いであり、こんなところでも斜面にへばりつくように水田が作られていた。

 会長は、ガードレールを乗り越えるとその水田脇を通り、谷へ降りて川を渡っていく。鉄骨が渡してあるだけの橋とも見えないような細い橋を、七十過ぎとは思えない身軽さでひょいひょいと越えていくのだ。

 川を越えると管理された杉林。

 一番面白くないタイプの山だ。俺一人だったら通り過ぎてしまうだろう。まさかこの奥にワサビが生えているとは思えない状況だ。

 少し行くと杉林が途切れ、自然林が混じり始める。杉を切り倒した後、何も植えなかったことで、自然に復活してきた林という感じだ。

 明るく開けているせいか、そこここにコゴミがあり、カンゾウの芽もたくさん吹いていた。それを少し採り、更に先に進む。こうした植生から見ても、少し湿り気がある程度。

 渓流に生えることの多いワサビは、ほぼ水生植物と言っていい。この上にワサビがあるというのは本当なのか……そう思っていると、幅一メートルほどの細流にぶつかった。

 石のごろごろしている渓流だ。たしかにその脇にはそこここにワサビの葉が見える。

 よく観察すれば、かなりの密度で生えている。なるほど、ここか、と得心していると、会長が促した。


「何してるんやの。先に行くざ」


 へ? ここじゃないの?

 そう思って半信半疑で後を付いていく。その渓流を横切り、更に斜面を登ったところに、その場所はあった。

 一面のワサビ。

 林床一面にツヤのある、黄緑色の葉が展開し、白く小さな花が咲いている。それも、見渡す限り。

 ワサビの花の香りは強い。それがこれだけの数となると、風が吹くたびに花の香りが立ち上り、むせかえるようだ。

 足を踏み入れると、落ち葉がずぶずぶと沈み、下からじんわりと茶色く透明な水が浸みだしてくる。この林床、見渡す限りが湿地帯なのだ。どうやら、先ほど渡った細流が上流でせき止められ、そこから分岐した流れが林床に入り込んだ、ということらしい。

 この水のせいで湿度に弱い木々が枯れ、まばらになって日光が差し込むことで、ワサビはほどよい日光と、湿度、さらに腐植質という栄養分まで手に入れ、このように繁栄したものだろう。

 会長は、早速せっせとワサビを採集している。

 しかしさすが会長、根など取らない。小さな株にも目もくれない。

 大きな株のいいところだけを選んで、葉を摘み取っていく。これほどの好条件、大群落でも、根をすり下ろせるほどのワサビはさほど無いのだ。

 だから、利用は基本的に葉っぱのみ。

 会長は一株だけ、すり下ろし用の根付きワサビを採取したが、それだけだ。

 こういう採り方なら、何年先でも利用し続けることが出来るにちがいない。

 三十分もそこにいただろうか。

 俺もかなり遠慮がちに採取したつもりだが、ワサビの葉は俺の分だけで、買い物袋二つ分にもなった。

 それにしても良い場所であった。林の中を流れてくる清い流れと、それに育まれる若葉の美しさ。ぼうっと眺めていると時間が止まってしまったような錯覚を覚えるほど。

 ワサビを採ることよりも、そんな春の林を満喫して俺達は帰途についたのであった。


「おまえ、昼間っからどこ行ってたんじゃっ!!」


 携帯のつながる場所まで来た途端かかって来た妻の怒鳴り声で、清い自然に触れたすがすがしい気持ちは霧散した。

 そうそう。お客さんとの同行、ということで、営業の範疇だと勝手に解釈した俺は、平日に行っていたのだ。休日は家族サービスで、行けるワケないしな。

 でもな。俺が仕事中と分かってて、なんでそうしょっちゅう、意味無く電話してくるんだ?

 さらに夜、持ち帰った大量のワサビ葉を見て妻が目を剥く。


「こんな無駄なモン採ってきてどうする気じゃッ!!」


 それにしても口が悪い。こういうモンの処理で手を煩わせたことは一度もないはずだが。

 そう言うと


「ガスと調味料の無駄なんじゃ!!」


 と返ってくる。そりゃ、君はこういうの食べないから無駄かも知れないだろうけど、俺にとっては無駄じゃない。宝の山だ。

 俺はその夜、冷凍パック五つ分のワサビ葉漬けを作り、それから約一年間、ぼちぼちと晩酌のアテに楽しませてもらったのであった。


 そんなわけで、今月も俺は嫌いな熱燗を飲まされに行く。

 嫌いな熱燗ではあるのだが、この会長と飲むと、そうイヤでもないから不思議である。

 たばこの煙もそうだ。

 イヤな人の煙は見るのもイヤだが、好きな人の煙は香しくさえ感じる。

 とはいえ、真夏といえど必ず熱燗。しかも一杯お注ぎすると、三杯返ってくる。さらにペースが速いので、一度に五本、十本とお銚子を頼む。もったいないからと、すべて飲める人間に回ってくるので、この会から帰ると、いつも俺はぐでんぐでん。妻の怒りの声がこだますることになるのだ。

 しかし妻も、この会長の席と知っているから、決して「行くな」とは言わない。

 蕎麦のことだけではなく、みんな、会長が好きなのだ。周囲の人を大切にする人は、性別も年齢も立場も越えて、いくつになっても、誰にでも愛されるということだ。

 そういう歳のとり方は、誰でも出来るものではないだろう。

 きっと、長い、長い時間と苦労の積み重ねなのであろうから。

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