第16話 マングローブ林の幸2

 ノコギリガザミ、といえば、マングローブ林の恵みとしては最高峰の一つで、グルメ番組や冒険番組でもたびたび取り上げられている巨大ガニだ。

 だが、決して熱帯オンリーの種ではないようで、余り知られていないが、日本の太平洋岸では漁獲されることのあるカニらしい。現に俺は静岡のスッポン料理店の生け簀に何匹か入っているのを見かけたことがある。


 このカニを初めて食ったのは、西表島初心者の頃。

 連泊した民宿の特別料理で、おやじさんが嬉しそうに出してきたのだ。

 真っ赤に茹で上がった巨大な爪。異形の甲羅。分厚い殻。

 当時大学生だった俺達は、その豪快な一皿に、完全に圧倒された。

 まず、見た目からして違う。ズワイガニやワタリガニ、タラバガニをも凌ぐ迫力。ましてや毛ガニや上海ガニなどとはスケールが違う。

 もちろん、カニには、種類によってそれぞれの旨さがある。

 上品な味わいと食べやすさでは、並ぶもののないズワイガニ。

 たっぷりしたウチコの旨味とあっさりした旨さ、しかも手頃なお値段のワタリガニ。

 味の濃さでは最強のタラバガニ。(厳密にはカニじゃないが)

 ホックリした身の柔らかさと、旨さのバランスで食う人を魅了する毛ガニ。

 なりは小さいが、そこにかえって凝縮された、ねっとりした味わいを持つ上海ガニ。

 かように、それぞれの持ち味と、それぞれに最強、至上の美味を内包しているカニたちだが、このノコギリガザミは、それらのどれとも違う持ち味と、旨さを秘めているのである。

 分厚い殻を叩き割ると現れる、真っ白な筋肉。

 ぎゅっと締まったその白い肉を噛み締めると、前述のカニたちのどれとも違う、しかし、たしかに『カニである』としか喩えようがない旨さが、口いっぱいに広がるのだ。


 このカニの味を、是非自分で捕獲して味わいたいと、浦内川や仲間川といった、大河川の河口域を、けっこう行ったり来たりしたものだが、そう簡単に出会える生き物ではなかった。

 黒く巨大なカニの雄姿を脳裏に描きつつ、俺は何度も西表島を訪れたものだ。


 二度目の出会いは…………自分のアパートで。

 大学を卒業して一年間、俺は研究生として大学に残った。何のことはない。大学院浪人の別名だ。結局、それでも大学院には受からず、学校を去ることになるわけだが、さすがにその時は、俺は西表島に行けなかった。

 だが、所属していた動物学教室の面々は西表島へ行き、様々な研究成果を持ち帰るわけだが、その中に立派に大学院生となった友人が一人いた。

 まあ、大学院に合格したのは立派だし、普段は周囲への気配りもあり、友情に厚く、しかし、付き合っていて気疲れしない、非常に良いヤツなのだが、欠点もあった。

 無類の甲殻類マニアなのである。そして、そのためなら周りの迷惑が見えなくなる。まあ、研究対象=本業も甲殻類だったわけだが。

 自宅アパートに巨大水槽を構え、ゴシキエビという南国の巨大エビを飼っていたり、西表島に行った俺に、凶暴な巨大甲殻類『ヤシガニ』の捕獲&生きたままの発送を依頼したり、研究室でけっこうなスペースを占拠して、カブトガニやカブトエビを飼育したり……といった感じである。


 ある朝。

 俺はアパートのチャイムで目覚めた。時刻を見ると午前十時。

 受験勉強しなくてはいけないにもかかわらず、深夜遅くまで漫画を読むなど、現実逃避生活を送っていた俺は、寝ぼけ眼で玄関口へ行った。


「宅急便でーす」


 黒い小型肉食獣のマークの、あの会社だ。

 実家からもどこからも、何も送ってもらう予定はない。もちろん、通販もしていない。

 いったい、誰が何を送ってきたのかと送り主の名を見ると、その甲殻類男の名が書いてある。

 そういえば、ヤツはたしか今、西表島。

 同行できなかった俺のために、沖縄ソバか泡盛でも送ってきてくれたかと、その段ボール箱を空けた瞬間。


『がちん』


 巨大なハサミが空を切った。

 おれは思わず手を引いて後退った。見ると、段ボールの隅に巨大な両ハサミを振り上げ、威嚇行動をしている黒いカニが。

 生きたのを見るのは初めてだったが、俺は一瞬でそれが何であるか理解していた。


「な……なんでノコギリガザミがッ!?……」


 宅急便を開けて、あれほどのパニック状態になったのは、アレが唯一の経験である。

 俺はすぐさま、そいつのいる宿へ電話した。


「あー。悪い、悪い。そういや、送ったって電話するの忘れてた」


「ふざけんな。俺、危うく挟まれそうになったんだぞ!!」


 そいつの依頼で捕らえたヤシガニに、指の肉を持って行かれて以来、俺はこういう巨大ハサミ系は少々トラウマだ。


「ええっ!? 俺、ちゃんとしっかり縛っといたぞ?」


 言われてカニの足元を見ると、しょぼいビニール紐がわだかまっている。


「こんなもん、強度も長さも全然足りんわ!! 貴様にヤシガニ送った時の俺の苦労を知らんだろう!? あの時の縛り方を見習え!!」


「アレだって、けっこうほどかれてたんだぜ?」


「それが分かっていて、何故、こんなしょぼいヒモで縛るッ!?」


 コイツは、甲殻類の機動力をいつも甘く見積もりすぎる。

 せっかく送ってやったヤシガニも、数日で逃亡させてしまった。学内の松林に消えたヤシガニ……熱帯産のヤシガニが、北関東の林に生き抜けるわけが無く、すぐに死んだに違いない。


「すまんすまん。大丈夫だと思ったんだけどなあ……」


「何にしても、美味しくいただいておく。ありがとう」


「違う違う。それ、俺が飼うんだ。お前に送ったのは、俺が帰るまで間違いなく生かしておいてくれるヤツを他に思いつかなかったからだ」


 ふざけるな。

 だが、このノコギリガザミには何の罪もない。

 結局、ソイツのアパートの巨大水槽にカニを移し、何の美味しい思いもしないまま、飼い主が帰るまで面倒を見る羽目となったのであった。


 それから、数年後。前項で紹介したルアー釣り旅行においての出来事。

 俺は三度目の出会いを果たすのである。


 とある夕方。

 街に買い出しに出た俺達は、町の近くの遊覧船乗り場で釣りを楽しんでいた。

 買い出しであるからゴムボート無しである。

 しかし、人気の絶えた遊覧船乗り場周辺は、船の下や桟橋周りなど、けっこう魅力的に見えるポイントが多い。本土のシーバスことスズキのルアー釣りなら、誰も放っては置かないような場所である。

 たぶん、岸からでも大物が釣れるだろうと、以前から目を付けていたのである。

 だが、意外にも釣果はゼロであった。

 何故か?

 考えてみていただきたい。ルアーで狙うような魚たちはマングローブの根の周りで、餌を採るやつらだ。落下してくるカニや昆虫を食べる。

 桟橋や船の下にいる連中は、水面を注視していないのであろう。

 どれだけ必死でルアーを水面で踊らせても、釣れないはずである。


 一カ所にかたまって釣っていた俺達は次第にばらけ、そのうち、俺は一人で切り立ったコンクリ護岸上に立ち、スロープを横目に見つつ、沖へ向かってキャストしていた。

 『スロープ』をご存じだろうか。

 海から船を陸に引き上げたり、逆に海に降ろしたりする斜路のことだ。

 ここは少しずつ深くなっていくので、上から見ると、浅い部分に何かの稚魚が群れていたりして、見ていて面白い。

 釣れない釣りに飽きた俺が、ふと目をその浅い部分に向けると、川の上流側から、黒いフットボール大の塊が流れてくるのに気づいた。

 その塊は、水面に浮かんでおらず、何故か川底を、一定の速さでゆっくりと流れてくる。

 変なゴミが流れて……いや、コレ、生き物だぞ!?

 瞬間。俺の中で何かのスイッチが入った。

 それは捕食者としての、野性のスイッチだと思って貰えばいい。アドレナリンが分泌し、視界が異様に広く、そしてクリアになり、しかし獲物しか見えない。脳の回転が倍くらいに跳ね上がるのを感じ、周囲の時間がゆっくりと流れ始める。

 こういう時……獲物を目の前にすれば、誰でもありますよ……ね?

 獲物の正体を知らないまま、戦闘態勢で身構えた俺の視界の中で、ソイツは、僅かに速度を速めたり遅くしたりしつつ、ついに足元までやって来た。

 それを見て、俺は思わず息を呑んだ。

 潜水艦のごとき重厚な黒。全身を包む極限の機能美の鎧。そして、まるで重力や水の抵抗を感じさせない、軽やかな動き。それは、見紛うこともなく、かのノコギリガザミであったのだ。


「おおいッ!! 網!!」


 突然叫びだした俺に、友人達は怪訝そうな顔で振り向いた。


「網なんかねえよ。持ってきてねえもん……何かいるの?」


 俺の様子に、ただごとではないと感じたのか、友人の顔色も変わる。

 だが、くそッ。どうする? 

 網が無い、だと? 当然ルアーなんぞには食いつくはずもないし、ここには餌もない。

 回転の速まった脳で考えているウチにもノコギリガザミは、スロープの行き止まりを察知し、わずかに沖の方へと進路を変え始めていた。

 このまま放っておけば逃げられる。


『ザッバーン』


 思考に行き詰まった俺は、とにかくヤツを逃すまいと、川へ飛び込んだのだった。

 カニの行く手を塞ごうと、スロープの沖側へ飛び込んだため、深い。

 水深は太ももくらいか。

 突然のことに驚いたのか、カニが動きを止めたのが見える。

 だが、勝負は一瞬。

 どんなに鈍かろうと、水生生物が、人間に水中で後れをとるワケはないのだ。奇襲以外に倒す術はない。

 手でつかもうとすれば、かがみ込んでいる間に逃げる。しかも、飛び込んだせいで、足元は濁って見えない。

 ええい。ままよ。

 俺は足元のソイツを、水ごと蹴り上げた。

 空振り。空振り。ヒット!!

 濁り水から、何度目かの蹴りでソイツを蹴り出せたのは、幸運以外の何ものでもなかった。

 だが、一撃では水の外には出ない。

 二発、三発と蹴り上げ、ようやく手で押さえ込める水深に蹴り出せた。


「ななななな……何してはるんですかッ!?」


 同行の友人が、狼狽えて関西弁おくにことば丸出しで俺に聞く。

 が、それどころではない。

 野獣のように研ぎ澄まされた俺の感覚は、最初の一発で、ヤツの大事な大ハサミが片方、取れてしまったことまで感じていた。


「ない!! ない!! ハサミが!! そこだぁッ!!」


 左手でノコギリガザミを押さえ込みつつ、右手で泥の中から大ハサミをゲット。

 我ながら、神が乗り移っていたとしか思えない。

 恐るべしアドレナリン。

 この部分、いっさい盛ってないので、信じていただきたい。


 こうして俺は、数年ぶりに、今度は自分の手で捕まえたノコギリガザミを味わうことが出来たのであった。

 自分で捕獲したノコギリガザミは、当然ながら宿で食したよりも美味であった。

 大きさもでかかったが、メスだったのだ。

 卵を持たないメスの内子、すなわち卵巣は、ふんどしに抱かれた外子よりも、遙かに口当たりが良く、旨味が濃い。


 その日はルアー釣りがふるわず、晩飯は情けないものになりそうだったのだが、このカニのおかげで、実に豪勢なメニューとなった。


 だが、それを最後に、俺は西表島へのこうした釣り旅行をしていない。

 それからほどなくして、郷里へ帰り、所帯を持つことになったからだ。

 あのカニや魚たちは、俺への、西表島からの餞別だったように思えてならない。

 一昨年、ようやく時間が出来て、妻や子供達を連れて行った時には、オシャレなペンションやリゾートホテルまで出来ていて、なんだか、違う島へ来たようであった。

 オシャレなペンションに泊まった俺の前に、ヘゴの若芽もオオタニワタリも、見事なフランス料理になって出てきた。

 まあ、味は良いのだが…………フランス料理、ね。

 マングローブ林も遊覧船がひっきりなしに通り、大型バスが何台も行き交う状況では、ボロボロのTシャツでルアーロッドを振りまくる中年オヤジは、目立ちすぎていけない。

 結局、二日の滞在で、釣りが出来たのはほんの三十分。

 河口に立ち込んで、ようやくオオグチユゴイが一匹釣れただけであった。

 相変わらず豊かなマングローブ林からは、俺を呼ぶ魚たちの声が、たしかに聞こえていたのだが……島が変わったと言うよりは、俺が野獣性を爆発させるには、年をとりすぎてしまったということなのかも知れない。


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