第3話 ナマズ2
さて、このままでは前文に書いたことに反して、「まずかった記録」になってしまう。待って欲しい。ナマズは美味なのである。
次にナマズを食った時、俺はそのことを知ったのだ。それは、社会人になってからであった。
当時、俺は水処理プラントの会社に勤めており、試運転業務で中国地方をあちこち飛び回っていた。
この試運転業務というヤツ。なんかカッコ良さげだが、実はかなりヒマな業務なのだ。
いや、ヒマというと少し違うか。
何もしないのではなく、何も出来ない時間が非常に長い業務、とでも言うべきだろう。
プラントを構成する様々な機器が、正常に動作するかどうかを、すべてチェックする業務だから、数値はしっかり見なくてはいけないし、専門知識もそれなりに必要となる。
だが、あるポンプが正常に水を汲み上げているかどうかは、何時間も水を汲み上げ続けて、実際にその水量に達するかどうか見なくてはいけないし、使い始めは電圧が高すぎるモーターも、数時間使用することで抵抗が減って正常値になってくる。騒音測定も、周囲の音が減少する夜間でないと測定できない。
それらの理由で、一度行ったらなかなか会社に帰れないし、現場を離れるわけにもいかないから、車泊もしょっちゅうだった。
迷惑施設だから、いわく付きの場所や墓場の側も多かったが、もともと霊感は薄い方で、しかもそんなものよりも周囲の川や山に興味が行っていたから、霊体験は一切無かった。
いや、あったのかも知れないが、ガン無視していた。
霊だの何だのとおっしゃる方々。アレは気にしないのが一番。出てきても無視するに限ります。気づいてねえな、って思ったら、大抵そのうち諦めてどっか行くから。
前置きが長くなって申し訳ない。
そんな折り、兵庫県のある場所へ試運転業務に行った俺は、新設のそのプラント脇を流れる川を見て驚いた。
それはそれは美しい川だった。
なんという透明度。なんという岸辺の緑。そしてなんという魚影の濃さ。
本当に美しい中流域の川、というものを、俺はこのとき生まれて始めて見た。
川の中流、と言えば濁って薄汚れた印象しかなかった俺は、とにかくここで何かをしたかった。
何しろ時間はある。夜間の騒音測定まで、四時間はボーッとしなくてはいかんのだ。
いつもなら、コンビニを探して週刊漫画雑誌を買い込み、弁当と一緒に楽しみながらその時間を迎えるのだが、その気は完全に失せた。
奇遇なことに、トランクにはルアーセットがある。
まあ奇遇っていうか、ブラックバスを釣って食うのはよくやっていたから、いつでもルアー釣りできる状況にしてあっただけだが。
こんな中流域の美しい川で、何が釣れるかは正直分からなかった。
『日本の川はルアーに適した魚は居ない』なんぞと、ブラックバスを日本に放流した大罪人・赤星鉄馬は書いていたが、そんな馬鹿なことがあるはずはない。
小魚が居る以上、それを食う魚も存在するはず。
生態系ってのはそういうモンだ。それに、かの巨匠・開高健の名著「もっと遠く!!」では、目的地でないちょっとした川でルアーを投げ、なんやかやと釣り上げていたではないか。
そう考えた俺は、とにかくルアーを投げてみた。
バス用のタックルだったから、竿はライトロッド、ラインは三号、小型のスピニングリールにルアーは時代遅れの黒いスピナーであった。
ルアー釣りをしない方のために翻訳しておくと、すなわち、わりと細めの短い竿で、簡単なタイプのリールに糸もそう太くなかった。ルアーは引くとくるくる回るタイプの、旧式の小さいヤツ、であった。とでも言えば分かるだろうか?
時刻は夕方の五時過ぎ。
何が釣れるという保証もない場所だ。数回投げて反応がなければ、いつも通りコンビニに行くしかない。三投目くらいだっただろうか。すでに気持ちは半分、コンビニの焼き肉弁当へと傾き始めていた時。
目の前の水底に、黒い影がゆったりと泳ぎだしてきた。
でかい。
俺は思わず息を止めて魚影を見つめた。小さく見積もっても数十センチはあろう。
その瞬間はそれが何か分からなかったし、ルアーで釣れるかどうかも分からなかったが、目の前にでかい魚影を見て、試さないバカな釣り人はいない。
急いでルアーを巻き取った俺は、その魚の少し向こうにルアーを着水させ、ゆっくりとリールを巻いた。だが、ルアーは強い流れによって、僅かに流された。
このままでは、そのバカでかい魚の視界にルアーは入らない。
チャンスは今だけ。もう一度投げていては、魚影はどこかへ行ってしまうに違いない。
俺は焦ってリールを巻く手を早めた。
だが、運。というのは、こういう時にやって来るものなのだろう。
水底に鎮座していたその黒い巨魚が、頭の向きを下流に向けて、ふらっと泳ぎだしたのだ。その結果、魚の目の前を、偶然にもルアーが通ることになった。
夕闇でほとんど見えなくなった川底で、それでも魚が大きく頭を振るのだけはハッキリと見えた。銀色に燦めいていたルアーが姿を消し、巨魚は何事もなかったかのように泳ぎ出す。
俺は力一杯、ロッドをあおって合わせをくれた。
がつん。
魚の口に、しっかりと針が刺さった感覚。釣り用語で言えば、がっちりフッキング、といったところか。
だが、その後がすごかった。魚は一気に川を遡っていったのだ。いくらリールを巻いても、糸は引っ張り出されていくだけで巻き取れない。たしかにブレーキはゆるめにしていたが……このままではまずい。と、ブレーキを絞り、ロッドの弾力で何とか耐える。
と、なんとヤツが戻ってきた。
ヤツが遡った上流は浅い瀬になっていて、それ以上、遡れなかったのだ。川幅が数mと、わりと狭い川だったことも幸いした。
糸も竿も、まったくもってソイツを釣り上げるには強度不足もいいところだったが、逃げる範囲が限定されたことで、なんとか少しずつ糸を巻き取れるようになったのだ。
それでも、もう二十mは糸を引き出されている。
焦って巻き取ろうと足掻く俺を尻目に、そいつは二十mほど離れた岸の茂みの中に突っ込んで動きを止めてしまったのであった。自然護岸のこの川は、川岸が草むらに覆われていて、オーバーハングしているのだ。そのオーバーハングの下に潜り込んで動きを止めた巨魚は、いくら引っ張っても動こうとはしない。
普通なら、もう、糸を切ってサヨナラする以外にない状況だ。
だが、せっかく掛けたのだ。しかも、このまま逃がすには惜しい大物。
幸い季節は夏。水も綺麗だ。
俺は躊躇わずに、ロッドを抱えたまま川に飛び込んだ。
川は思いの外深かった。太ももくらい、と予想した水深は、胸まで来た。もう少し深かったらおぼれていただろう。それだけ浅く見えるほど、透明度が高かったとも言える。
だが、水中に入ると覚悟も固まった。しかもラインの自由度も増し、駆け引きしやすくなった。俺は、リールを巻きながら相手の突っ込んだ場所へ近づいていく。逃げ切れていないことに気づいたのか、ふたたびもがきだした魚の動きに合わせて川の中を走った。
全身ずぶ濡れになっての、川の中での格闘は、俺には長く感じたが、おそらく数分だったのだろう。透明度が高いことも幸いして、川底で石の間に突っ込み、動かなくなったそいつをついに俺は追い詰めた。糸が切れないようテンションを保ちつつ、口に指を突っ込んで水面に持ち上げる。俺は、ついにその怪物を仕留めたのであった。
川岸の草の上にずり上げて、初めて、ソイツが五十センチオーバーの大ナマズである事が分かった。
なるほど、口のでかいナマズであればルアーにも食いつくのだなあ、と妙に感心したのを覚えている。
着替えとて無い俺は、ずぶ濡れのまま、プラントの試運転業務をこなし、ずぶ濡れのまま、車を運転して社員寮へ帰宅した。
時刻は十一時を過ぎていたと思う。
あらためて明るい室内の光で見てみると、見たことのない大きさのナマズであった。
あのサイズをハッキリ超えるマナマズは、あれから二十年近く経つ今でも捕獲したことがない。
メジャーを当ててみなかったのが悔やまれるが、その大きさよりも、俺は味の方に興味が行ってしまっていた。
数時間、狭いバケツに入れられ、とっくに絶命しているナマズ。
だが、見れば見るほど美しい。
なんというか、肌の艶が違う。妙な濁った茶色ではなく、灰色がかった深みのある黒。
腹の方の白さがまた、脂の乗りを予想させる艶めかしさだ。
エアポンプを用意していかなかったせいで、泥吐きをさせられなかったのが悔やまれたが、殺しちまった以上は食う、というのが俺のポリシーとして固まっていたこともあり、俺は深夜のキッチンに忍び込み、ナマズを料理し始めた。
料理法は大学時代と比べて大した変化はなかった。
電磁調理器でこそ無かったが、炭火で焼くワケにはいかなかったから、フライパンで甘辛く煮付ける「蒲焼きもどき」が一番楽な方法なのだ。
だが、もちろん技術は向上している。
背開きも見事にやってのけたし、味付けも以前のようなしょっぱいばかりのものではなかった。だが、そのことを考慮に入れても……このナマズは美味かった。
滴るような甘い脂を、ほっこりした白い身の内に閉じこめ、それが噛み締めるたびに口中に広がる。それにナマズ特有と言っていいのだろう、柔らかな芳香が花を添えた。無論、泥臭さなど一切ない。
分厚く固そうに見えた皮までも、とろりと口の中で融けていった。
夕食抜きであったこともあるかも知れないが、五十センチオーバーの巨大ナマズを、俺は、深夜までかかって一人で美味しく平らげたのであった。
ご飯なしでナマズのみで満腹。至福の時間であった。
それ以来、ナマズは数回食したが、あれほどの美味にはついぞお目に掛かっていない。
どの川も、あの川ほどの美しさを湛えていなかったからだろう、と勝手に思っている。
川魚は泥臭いだの、泥吐きさせなくては食えないだの、そんなことは、川を汚してしまった人間の戯言であるやも知れない。
汚染されていない、美しい川で育った生きものは、姿も美しく、また美味なのだ。
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