第31話 ワサビ
その日行ったのは隣県の里山。
だが、もともとはべつに山菜採りに行ったわけでもなければ、昆虫採集に行ったわけでもなかった。
隣県某市郊外にある、妻の兄が開業している医院へ、妻がピロリ菌の検査に行く、と言いだしたことに始まる。
田舎のことであるから、妻は普段から車を乗り回している。
女性特有の危なっかしさは感じるが、これまで事故を起こしたことはない。また、義兄の医院は隣県とはいえ、郊外であるから国道からすぐで、人通りも少なく駐車場も広く……要するに何が言いたいかというと、一人で行ってくればいいのである。
何が悲しゅうて、家族四人全員でそんなもんに付いていかねばならないのか?
だが、妻はそもそも俺が付いていくことは当然とした上で、子供らを自宅に置いていくと勝手にゲームしたり遊んだりする。だから連れて行く、と宣言し、しかも道中、勉強をさせるのだと言って、英語の教科書までも持って来させたわけである。
いつものことであるから、子ども達も俺も特に逆らいはしないが、相変わらずワケの分からん女だ。
しかも、医院に着いてみると、土曜の朝ということもあって満員。
このままでは何時間待たされるか分からん。と、思ったら、妻がしおらしくも珍しく「あんたら、どっか行って来な」と言ってくれたワケである。
この感じだと、待たされるのは実質二時間くらいか。
たぶん、一時間くらいで妻は退屈になるだろうから、一時間で行って帰って来られれば、そう文句も出るまい。
そう考えた俺は、山手の方へと車を走らせた。二人の子ども達はと言えば、長男の方はチョウを採集したくてワクワク。妹の方は特にやりたいこともないが、町の方へ行ったところで面白いこともない、ということで不満そうな顔をしつつも、黙って付いてきた。
車を走らせること約十分。
郊外のことであるから、里山といえど近い。墓地公園の脇から細い道に入っていくと、竹林が点々と続く丘陵地に踏み込めた。
しかし、狭い。
春先、ということもあって地元のタケノコ掘りの車が何台もあったが、すれ違えるような幅ではなく、かなり苦労しながら進んで行った。
だが、行けども行けども孟宗竹の多い暗い林が続くばかりで、チョウのいそうな開けた場所はなかなか無い。見下ろすと、隣県の主要市街地が広がっている眺めの良い場所ではあったが、何も得るモノは無く、入り組んだ山道に引き込まれていったのである。
この辺で二十分ほど経過。
ふと気付く。ここ、携帯の電波届くんやろな……。
だが、この細い山道。携帯を見られるほど運転に余裕があるわけがないっつーか、停められる場所がない。
で、子ども達に見てもらったが、どうも意味不明。
まず真っ先に携帯を奪っていった娘。
「ケンガイ? ケンガイかどうかって、分かんないよ?」
「アンテナ立ってるか? 三本立ってるか見ろ」
「アンテナ? 無いよ。どこに付いてるの?」
「違う。圏外ってなってるかどうかだ。お兄ちゃんに見せろ」
「ダメ。あたしが見る」
「じゃあ早く見ろ。圏外か?」
「どこに書いてあるの? ここ、○○県じゃないよ?」
「その県外じゃねえ!!」
などとアホな会話を繰り返すうちに、しびれを切らした息子が、娘から携帯を奪い取る。
「パパ。圏外になったりならなかったり。あ、今アンテナ一本立った」
ううううむ。やはり、というか厄介な場所のようだ。
連絡の入らない場所にいた、となると、妻は理不尽な怒りを爆発させるに違いない。また修羅場だ
だが、まだ経過時間は三十分少々。ならば一カ所ぐらい停車して、息子にチョウを捕らせ、その間に道草を選んで採取するくらいの時間はあろう。
そうこうするうち、息子が叫んだ。
「クジャクチョウ!!」
ど近眼でメガネのクセに、虫を見つける目だけは鋭い息子。
路上に溢れた湧き水で吸水していたチョウを発見したらしい。すぐに車を停めて息子を降ろし、車を停められる場所を探す。都合のいいことに、タケノコ掘りの人が帰っていくのに遭遇。その車の停めてあった場所へ車を入れて、俺も息子のところへ行った。
だが、肩を落として帰ってくる息子。
「逃げられた。速いわアイツ」
クジャクチョウ、といえば、早春のチョウの中での屈指の美しさを誇るチョウだ。
希少性ではギフチョウの方が上だが、小さいながら派手なオレンジの色彩と、名前の由来ともなった大きな目玉模様は、実に素晴らしい。
もっとも、春先にしか見られないギフチョウなどとは違って、九月頃までに二回羽化するので、今の時期に採らなくとも、もう少し後の方が羽化したての綺麗な個体が採れる。
俺的にはそれで良さそうに思うのだが、蝶・蛾マニアの息子は、そっちはそっちで欲しいが、成虫越冬後の少しボロった個体も採ってこそ完璧、ということらしい。
「少し、張り込む」
まあ、十分くらいなら大丈夫だろう。せっかく車も停められたことだし。
で、息子が捕虫網を抱え、水場でじっと待つ間、俺は周囲を娘と散策。
その水場の湧き水が滴る先で見つけたのが、ワサビであったのだ。
久しぶりに見るワサビは、もう白い花を咲かせていた。菜の花、大根などと同じアブラナ科特有の十字花は、菜の花以上に香りがいい。つややかな葉が陽光を浴びて、実に美しく、また、旨そうであった。
ワサビはそう珍しい植物ではないのだが、人気も高く乱獲されやすい。
だから地域や山の持ち主によっては、神経質に看板を立てて採取を禁じている場合も多いし、見張っていて賠償金を取るのを生業にしている恐ろしい連中もいると聞く。まあ、これはワサビに限らず商品価値のある山菜なら、どれもそうなのだが。
ゆえに俺も一株、二株あったくらいだったら、採取したりはせず、愛でるだけにしておくし、たくさんあればあったで、そういう厳しい地域かどうか気になって採取しないのだが、ここにはその様な看板も一切無く、行き交うタケノコ掘りの人々も大らか。
しかもワサビには誰も見向きもせず、流れに沿って点々と数株生えているワサビの個体数も、少なくは無さそうだ。
ワサビの早春の若葉は美しい。これが、よく山に行く夏頃になると、固く汚い葉になってしまうのであるから、手に入るならかなり嬉しい。
俺は、大きく展開した葉を選んで、一株あたり一~二枚ずつ、あと花を少し、いただいていくことにした。
少しずつ採ったって、一握りぶんくらいにはすぐになる。どうせ子供も妻も食わないだろうし、一人で楽しむ分には充分だ。
せっかくのワサビを葉っぱだけ? と、思われる向きもあるかも知れないが、ことに野生のワサビで、根をすり下ろせるほど発達させている個体など、まずない。
あれはワサビ田で栽培するから肥大するのである。
もし仮に、根を食べられるほど大きな株になっているものがあったとしても、根こそぎ採ることで来年の楽しみを自ら無くすようなもの。故に、採らない。
まあ、ワサビに限らず、カタクリ、ギョウジャニンニク、アマドコロ、ヤマイモ、ヤマユリなど、俺は根茎や根を食える植物であっても、基本、そこは食べないか、次世代が残るような採取法をとるようにしているのである。
採取を終わってふと、携帯を見ると……圏外。
時間は五分ほどしか経っていない。つまり、医院を出発してから四十分前後、というところだが、どうも嫌な予感がする。
息子の様子を見に行くと、どうも待ちぼうけだった様子。
かなり悔しそうではあったが、なだめて車に乗せ、山を下る方へと車を進めた。
もともと、大して深い山ではないのだ。
すぐに人家が見え始め、携帯が圏内に……と思った途端、着信メールが。
「ヤバイ。ママだ。着信メール見てくれ」
「電話じゃないよ? メールだよ?」
「圏外の時の着信は後でメールで……ああもう、もどかしい。つべこべ言わずにメールを見ろ!!」
仕方なく車を停め、自分でメールを見ると、どうやら十分ほど前から電話をかけ続けていた様子。うわあ、と思った瞬間、マナーモードにしておいた電話が震え始めた。
『お前!! どこうろついとんじゃ!!』
携帯を耳から離しておいて良かった。それでもうるさい声。
「今、ちょっと山の方」
『山ァ!? 誰がそんなとこまで行けっつったんじゃ!! すぐ帰って来い!!』
「うん。十分ほどで帰る」
『ハァ!? 遅いわ!! せっかく兄に、早く診てもらったのに何にもならんやろが!! 』
そんなこと知るかよ……
結局、妻は医院の外で二十分ほど待つことになって、異常に怒っていた。
高速に乗っても、ぎゃんぎゃん怒り続ける妻。
時間はまだ少し早かったが、高速を降りたところにあるビュッフェスタイルの田舎料理の店に入り、昼飯を奢って、なんとか怒りを収めたのであった。
しかしそうこうするうちに、ワサビは萎れてしまったので、コップの水につけて復活させ、夜になってから調理した。
茹でると香気が飛んでしまうので、ザルに熱湯を掛けるだけで火を通し、タッパウェアで一夜漬け。酒を沸騰させてアルコール分を飛ばし、そこにみりん、醤油、塩、水を加えて味を調え調味液を作る。これを湯通ししたワサビに加えて、冷蔵庫で漬け込むこと数時間。醤油の色がうつった頃が食べ頃だ。
辛みと香気は揮発成分なので、切るのは食べる寸前。切る前にまな板の上で、包丁の背などで軽く叩くと、より香りが立つ。
無論ご飯にも合うが、特に日本酒によく合い、焼き魚や刺身など、その他様々な料理も引き立てる、なかなかの珍味となる。
……なのだが、実は漬けて三日経った今でも食べていない。
土曜は外食。日曜は、なんだかんだと忙しく忘れてしまっていたし、昨夜はこともあろうにカレー。試したことはないが、さすがにわさび漬けには合わなそう。
だが、これ以上置くと香気が飛んでしまうかも知れない。
今夜こそ。
そう思って、秘かに日本酒の一合ビンを用意している俺であった。
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