第15話 マングローブ林の幸1
その島に着いた瞬間。俺は、自分の生まれ故郷に帰ってきたのだと感じた。
真っ白な防波堤も、島全体を覆う濃い緑も、コバルトブルーの海も、そこに吹く柔らかな風も、初めて出会うはずなのに、たまらなく懐かしい。
密林の奥から聞こえてくるオオコウモリの声ですら、遠い記憶の中から蘇るように思った。
西表島。
八重山諸島最大の島である。沖縄県ではあるものの、沖縄本島から、更に飛行機で数時間。そうやって辿り着いた石垣島から、連絡船に乗って二時間。
そうしてようやく、東洋のガラパゴス。西表島に来ることができたのである。
移動だけでほぼ一日を費やし、太陽は既に大きく傾いていたが、熱帯の日差しは強烈だ。
夕日に映えるジャングルは、まさに『秘境』の様相だった。
この島に来て、「やっと帰ってきた」と感じた人は、どのくらいいるのだろうか?
俺の、第一印象がそれだった。
前世などというものがもしあるなら、俺は間違いなく熱帯の島に、いやこの島に住んでいたのだと思う。たぶん、人間ではない別の生き物として。
最初の訪れは、大学二年の初夏。
それから十年ほど、ほぼ毎年通うようになり、一年に二度行った年もある。
正直、最初の頃は勝手が分からなかった。とにかく目に映るモノすべてが目新しく、興味深く、またどこか懐かしかったので、生き物の採集、観察に大忙しであったのだ。
ヤシガニに指をはさまれ、肉を引き千切られたり、サキシマハブの子供を手づかみしそうになったり、オオウナギの置き針をしたら、農家の人にねちねちと文句を言われたり、島を横断している途中に友人が行方不明になったり……様々な冒険譚はあるものの、それはこの、『きゃっち☆あんど☆いーと』には、あまり関わりのない話なので、また別の機会に譲るとしよう。
島の雰囲気に大分慣れ、浜辺でキャンプできるまでになった頃、俺はもう社会人になっていた。
たぶん、七、八回目の訪島の頃。俺は『GT』を釣るのを目的としていた。
『GT』とは『グレート・トレバリー』、あるいは『ジャイアント・トレバリー』の
つまり、直訳すれば「巨大アジ」。和名ロウニンアジ、ギンガメアジ、カスミアジなどの、熱帯性の巨大アジのことで、地元では『ガーラ』と呼ばれている魚のことだ。
コレの幼魚は、太平洋岸に暖流に乗ってやって来て、河口域で「メッキ」の愛称でルアー釣りの対象になっている、引きは強いが可愛い魚だ。
だが、この成魚はとにかくでかく、しかもヒットするとよく走る。
訪島初期の頃、珊瑚礁で小物釣りをしていて、何を間違ったのか穴釣りの仕掛けにコイツが食いついたらしく、凄まじい勢いで糸を引き出された挙げ句、ハゼ用竿をポッキリとへし折られた。
その時から、俺の心に住み着いた『GT』。今度こそは絶対に釣り上げるぞと誓って、島へ渡ったのであった。
前置きが長くなった。
創作小説であれば、ここから俺達と『ガーラ』の熱い死闘が繰り広げられ、ついに仕留めた『南海の主』と友情もどきを交わして、
結局、『ガーラ』こと『GT』は釣れなかった。ルアーを目がけて襲ってきた水柱はいくつか観測したのだが、食いつかず、そのうち飽きるか日が暮れるかの繰り返しであった。
まあ、いわゆる『メッキ』クラスの小魚は釣れたのだが、そんなものでは話にも何にもなるまい。
だが、この旅行がつまらないモノであったかというと、そうではない。
大目的の『GT』以外にも、様々な生物と出会い、そして美味しくいただいたからである。そもそも、どうして宿に泊まらずキャンプにしたのか? といえば、収穫物を料理して食うためでもあった。
朝起きると、テントから這い出して目の前の海へ。
『GT』を狙ってルアーを投げちゃ引き、投げちゃ引きするが、一向に釣れない。
そのうち飽きる。
で、ゴムボートを担いで、マングローブの生い茂る河川域へと移動することになるのである。
一見、渓流のような細い川でも、河口までボートで流れていけば、マングローブが生い茂り、異様な景観が広がる。
マングローブの根は、ご存じの通り泥に何本も突き刺さって幹を支えている。
あたかも、無数の脚で泥の上に立つ、異形の生物のようだ。
その足元こそが、まさに芳醇な南の幸の宝庫なのであった。
干潮時には、その姿が完全に見え、泥面が露出してゴムボートを引き摺らねばならないが、水面が少ないのでルアーを投げ込むポイントは絞りやすくなる。
残っている魚たちは、潮が引いて泥から這い出してきた『トントンミー』こと『トビハゼ』の仲間を狙っているから、水面を引くルアーに敏感に反応して食ってくる。
僅かに水面に岩が出ていたりすると、もう完璧だ。
岩から十センチ以内にルアーを着水させれば、ほぼ百パーセント、水柱が立つ。
水面の獲物を狙った魚が、ルアーを咥え、急速反転した時に尾びれが水面を爆発させるのだ。
一気に合わせをくれると、ある時はモゴモゴと頼りなく、ある時は雄々しく水面を蹴って飛び上がり、ある時はルアーのブレーキを無視して反対方向へ走る魚たち。
この反応の違いは、魚種によるものだ。
底を住処とする巨大ハゼ・ホシマダラハゼはモゴモゴと泳ぎ、オオグチユゴイは水面を叩いて走り、ミナミクロダイやカスミアジは、一気に突っ走る。
満潮時には、水面にいきなり梢があるような水没林になるが、海から大物が遡上してくる。彼等は、枝からカニや昆虫が落ちてくるのを待っているので、葉の際スレスレにルアーを落とすと、てきめんに食いついてくる。
そんな場所を狙ってキャストするものだから、何度も葉っぱにルアーが引っ掛かる。
だが、それを恐れていては一匹も釣れないのが満潮の釣り。
ボートなのだから近づいて外せばいい。何度もやっていれば、どんな下手くそでもちょうど良い場所にルアーを落とせるようになる。
うまく落とせたら、いかにもカニが『水面に落ちちゃったー』って演出で、糸を巻かずに竿先だけでちょいちょいとルアーを動かす。
と、干潮時と同じように、やはり水面が爆発する。が、今度は水が澄んでいるので、襲ってくる魚、ルアーを咥えて反転する姿が丸見えだ。
深い場所から一気に襲ってくるだけあって、満潮時の魚は足が速い。
モゴモゴした動きのものはほとんど無く、大抵が一気に突っ走る。そして、尾ビレで水面を叩いて、その野性を主張するのだ。
こうしたマングローブ林の釣りで、俺達は様々な魚を釣った。
ゴマフエダイ、ホシマダラハゼ、イセゴイ、オニカマス、ミナミクロダイ、ミナミマゴチ、コトヒキ、ギンユゴイ、オオグチユゴイ、カスミアジ幼魚、ギンガメアジ幼魚……
ざっと思い出すだけでも、これくらいの種類の魚が釣れた。
名前を聞いただけでは、よくお分かりにならないだろうが、まあ、本土の河川や池でルアーを投げても、これほど多彩な魚は釣れない。
定番のバス、ギル、ライギョ、ナマズに加え、ウグイやコイがたまに掛かる程度だ。
偉大な釣りの大先達であり、冒険釣行の先駆者でもある、大作家、故・開高健氏の『オーパ!!』は、かのアマゾン川を舞台にした釣行紀である。
ピラーニャやドラド、ピンタード、トクナレ、ピライーバ、ピラルクなど、まあ、知らない人が名前を聞いても、なんやらサッパリ分からないであろう怪魚達を、バンバン釣り上げ、それを美しいカラー写真で紹介した、前人未踏、史上最高の名著であるが、その「オーパ!!」の世界を、まさにそのまま日本国内で堪能できる。
それが西表島の、マングローブ林の釣りだったのである。
「いや、『オーパ!!』は言い過ぎだろう。沖縄じゃあスケール小さいし」
などと仰る貴兄。そんなことはないのである。
西表島のマングローブは河口域。海からとんでもない大物がやって来る可能性がある。
例えば、オニカマスだの、カスミアジだの、ギンガメアジだのという魚種は、たしかに俺達が釣ったのは大きくても二十~三十センチ。つまりベビーサイズだったが、成魚では、一回りも二回りも大きくなる。
またルアーでは釣れないが、二m近いオオウナギが川を上っていくこともあるし、たまにホオジロザメなんかも遡上してくるらしいから、油断も出来ない。
実際、俺自身、姿も見えない大物に、竿先をへし折られたことが何度かあるのだ。
たしかに、魚種ではアマゾンには及ばないが、稀にテッポウウオだのツバメウオだのという変わり者も釣れるらしく、ロマンをかき立てられる、という意味で、マングローブでの釣りの魅力は、アマゾンに劣るとは俺には思えないのである。
さて、こうして釣った魚だが、じつは大半は
魚体を傷めるだけ傷めて再放流、などというのは、正直、主義に反することではある。
が、しかし、一日釣っていると釣れすぎるのである。つまり、食いきれないのだ。必要以上に殺すことは、たとえ食ったとしても逆に主義に反する。
だから、釣ったらすぐには殺さないで、しばらく網の中で生かしておく。そして、より晩飯に相応しい魚が釣れたら入れ替えるのである。
選定基準としては、食ったことのない魚を優先にキープ。
一度に同じ種類が何匹か釣れたら、大きい個体から食べる数だけキープ。
そんなこんなで、結局、前述した魚種はほとんどすべて味わってみた。
明らかに幼魚だったカスミアジとギンガメアジは、再放流したので食わなかったが。
ミナミマゴチ、ミナミクロダイの刺身は最高であった。
南方の魚は、大味で身の締まりが悪いなどと誰が言ったのか。日本海育ちの俺が、その日本海の魚に比してみても、まったく遜色ない美味なのだ。
たしかに、荒波に揉まれたコリコリ感では劣るかも知れぬ。だが、豊かなマングローブ林で育まれた旨味の濃さは、味わいとして決して負けていないのだ。
オニカマスは焼き魚としたのだが、正直、普通の白身魚以上のモノではなかった。
小さい個体だったせいか、たしか、異様に小骨が多かったように思う。
ホシマダラハゼは、巨大なハゼだ。だが、ハゼというよりその風貌は、よく言われるように、確かにシーラカンスに近い。その上、南方独特の黄色いスポットが横腹に点在し、いかにもな感じだが、食べるとなかなかの珍味である。
火を通すと、何というか、非常にねっとりした食感の白身になるのだ。
歯ごたえというものがほとんどなく、ほろほろと口の中でほどけていく。これをもって締まりがない、というか、柔らかくて旨い、というかは意見の分かれるところで、同行した二人の友人の意見は真っ二つに別れた。
だがまあ、その後釣り上げても、キープしようと誰も言い出さなかったところを見ると、そこまでして食うほど美味ではない、と言えよう。
コトヒキは締まった白身で美味であった。なんだか、この魚だけ、本土の魚の味がした。
この魚は分布が広く、太平洋岸であれば、本州中部以南、たまに千葉や茨城などでも釣れるから、そんな気がするのかも知れない。
ギンユゴイ、オオグチユゴイは、持っていた魚類図鑑に「塩焼きで美味」とあったので相当期待したのだが、結論から言えばそう旨い魚ではなかった。
たしかに締まった白身なのだが、その締まり具合もコトヒキには大分劣るし、なんとなく生臭く、磯臭い。バスやギルを食べる時のように、皮を引いてムニエルにした方が良かったかも知れない。
ゴマフエダイ。
今回の釣行で、もっともたくさん釣れ、そして旨かったのはこの魚であった。
旅の後半は、この魚ばかり狙っていたと言っても良い。
とにかく、白身で旨味が濃い。
他の魚と比べ、焼いてもその差は歴然なのだが、煮るとその煮汁がダシの塊になるのである。そのことに気づいた俺達は、晩飯の鍋の汁を捨てずにとっておき、翌日、「沖縄そば」の麺のみを買ってきて、ラーメンにして食った。
コレが実に旨いのだ。
その辺のチェーン店のラーメン屋など問題ではない美味。いい加減な料理法だったが、人生で食ったラーメンで、確実に十本の指に入る旨さであった。
こうした事を堪能する合間に、他の食材との出会いもあった。
ヘゴの若芽は、茹でると巨大なアスパラという感じ、食感も似たようなモノだけど、独特の風味がある。青酸を多少含んでいるということで、多量に食べるのはまずいらしい。
オオタニワタリの若芽はなかなか出会えないし、出会っても樹上に着生しているシダなので、採取が命がけ。数が少ないので環境に対するインパクトを考えて、採集して食べることはなかった。お店で味噌和えを食べたが、ゴソつかないコゴミといった感じ。美味。
珊瑚礁では、ムカデガイ、様々なイモガイの仲間、クロナマコ、タコを捕って食べてみた。タコは言うまでもないが、貝もなかなかの美味。
俺の地元の日本海では、下手に貝類採集していると、警察に通報されたり、漁民に袋叩きにされたりし兼ねないので、潮干狩りしている地元のおばちゃんに「採って食べても大丈夫でしょうか?」と聞いたら、「好きなだけ採りなー」と気安く言っていただいたので、食った。しかも、タコのいる穴まで教えてくれた。
ただ、珊瑚礁の貝はアサリやなんかと違って、殻がごつくてでかい。
まあ、カルシウム豊富な珊瑚礁で生きているからなのかも知れないが……ここまで大きくなるのに、一年や二年じゃないだろうなーと思うと、そうたくさんは採れなかった。
採りすぎて採取禁止になり、二度と食えなくなるくらいなら、今、我慢した方がいいものな。
最後はカニ。
これは、偶然の出会いだった。コイツについては次項で。
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