第34話 モクズガニ


 地方によっては川ガニ、ズガニ、などとも呼ばれる。

 美味で名高い上海ガニは、和名「シナモクズガニ」であり、ちょっと見ただけでこの二種は区別が付かないくらいよく似ている。

 それくらいだから、美味なのは折り紙付きである。

 だが、ほとんど日本中に分布している割に、食べない地域は多い。俺の住む地域でも、基本、誰も食べない。工業団地へ働きに来られた中国の方達が、けっこう捕って食べているらしいが、彼等はコイやフナ、スッポン、場合によってはカモや犬まで食べてしまうらしいので(どれも目撃者あり)、モクズガニだけ特別ってワケでもないかも知れない。

 

 さて。

 このカニが美味だと最初に教えてくれたのは、いや教えてくださったのは、こともあろうに高校の時の体育の先生であった。


 前にも書いたが、生物部だった俺は、文化祭でミニ水族館という出し物をやった。その際に、父の実家近くの川で罠を仕掛けたのである。

 国内で採れる淡水の生物を、とにかく片っ端から展示するのがテーマだったから、何が捕れるか分からないままに、罠だの置き針だの何でも仕掛けたし、あちこちに網を入れて様々な生き物を片っ端から捕獲したのだ。

 で、その父の実家近くの川では、ナマズを捕獲する予定だった。

 だが、置き針だと魚体が傷むし、罠で捕獲できないか、ということで「カニ籠」というタイプの罠に、魚屋で貰ってきた魚のアラ、すなわち骨や頭や内臓を入れて、一晩仕掛けておいたのである。

 初めてカニ籠を使った俺は、興奮と期待で眠れなかった。

 あんな本格的な罠を仕掛けたのは初めてだったし、捕れる生き物が全く予想が付かなかったからだ。

 翌朝、夜も明けきらぬうちに家を出て、籠を引き上げた俺は恐ろしいモノを見た。

 倍以上の重さになったカニ籠が、びっしり黒い影に覆われている。びっしり入りすぎて裏側からしか見えないが、どうやら巨大なカニらしいということはすぐに分かった。

 五つほど仕掛けたのだが、一かごに十や二十は軽く入っていたと思う。つまり少なくとも五十匹以上の巨大ガニ。

 他にも、カニに押し潰されるようにしてスッポン、イシガメ、もちろん目的のナマズも入っていた。

 それにしても立派な、というか恐ろしいほど強力なカニであった。

 現物をご覧になったことのある方はお分かりだろうが、そのハサミの強固さとパワーと言ったら、磯にいる小型のカニの何倍にもなるだろう。間違えて挟まれたら、指の肉が引き千切られそうな巨大なカニだ。

 まあ、それから数年後に行った西表島で、ヤシガニやらノコギリガザミに出会い、モクズガニなぞ幼稚園クラスだと思い知るわけだが、それは別の話。

 なにしろ、そこまで強力で巨大な生きたカニに出会うのはそれが初めてで、しかも、こともあろうに地元の川にこれだけの数が生息しているなどとは、思いもしなかったのであるから。

 これはすごい、と思った。同時に捕れたスッポンと並んで、ミニ水族館の目玉になりうる逸材である。

 しょっちゅう網を持って川をうろついている俺でも知らなかったのだから、大抵の人は川にこんなでかいカニが生息しているなどとは知るはずも無かろう。

 だがまあ、生きたまま展示するのにこんなに数は要らない。俺は大きめのやつ二、三匹確保して、あとは放流リリースしたのであった。


 実際のとこ、文化祭当日、モクズガニはかなりウケた。

 彼等の機動力を甘く見たために、文化祭初日の夜にスッポンと共に逃走され、二日目の朝、廊下のどん詰まりで埃まみれで見つかったりもしたのだが、あやういところで被害者が出なかったのでミニ水族館閉鎖とはならなかったし、展示そのものがアカデミックだと、先生方のウケも良かった。

 俺はかなり有頂天になっていた。

 すると、一人の教師がえらくカニに興味を示して質問してきた。


「おい、コレどこで捕った? どんなふうに捕ったんや?」


 としつこく聞いてくる。

 それは、割と生徒ウケのいい体育の先生。

 専門外なのに、こんなに生物に興味を持ってくれるのかと、俺は半ば感動しつつカニの捕れた場所と捕り方をお教えしたのだが、どうも様子がおかしい。


「先生、こんなカニ捕ってどうするんです? 飼うの大変ですよ?」


「ん? もちろん食うんだよ。当たり前だろ?」


 うわあ。教えるんじゃなかった。

 こともなげに言い放つ体育教師の言葉を聞いた俺は、かなり鬱になったのを覚えている。

 当時の俺にとって、生き物を捕るのは食うためじゃなく、すべて飼うためだった。それを食うってのは「金魚」とか「カブトムシ」とか、ヘタすると「犬猫」を捕まえて食うに匹敵する感覚であって、ちょっと理解しがたかったからだ。

 その先生は、自分ちの庭でキノコ栽培したり、畑を作ったり、釣りをしたりしているのは知っていたが、まさかこんなモン食うほどワイルドだとは思わなかった。


「スッポンも同じ場所だな? よぉし」


 まさに舌なめずりしそうな顔で気合いを入れて、意気揚々と去っていく教師。


「待てコラ。そんなバカなことやめんか」


 とは、言えなかった。

 俺的には、カニよりスッポンを食われるのがイヤだった。あんな可愛い生き物を食うとかどうかしている。当時の俺は真剣にそう思ったものだった。

 そして、俺はこのカニが食えるモノだと認識したのであった。

 さて。この話にはオチもある。

 じつは翌年の文化祭もミニ水族館をやったのだが、同じ場所なのに、カニの捕獲数が激減したのだ。

 聞いたところでは、あの体育教師。あれからほぼ毎日のように通っては捕りまくったらしい。それで減ったかどうかは定かではないが、実際、あれから月日が経った今仕掛けると、それなりに捕れる。つまり、資源が回復しているところを見ると、やはりあの体育教師の捕獲圧で一時期、あの場所のカニ(スッポンも)は激減したと見て間違いないと思う。


 思うんだが、野生生物を食うのは否定しないが、遊びの範疇を越えちゃダメなのではないか。一箇所のカニの個体数を減らすほどの捕獲圧ってのは、そりゃ「漁」ってんだ。

 もちろん漁を否定はしないが、漁をするなら資源保護のための抑制か投資をしないとダメなわけで、本職の漁師さん、および猟師さんは、ちゃんとソレをやっているのだ。

 つまり、禁漁期、サイズ規制、種苗放流、環境づくり、親魚の育成などである。

 一般の人は知らないかも知れないけれども、彼等はそれに資源コストを投入しているから、一般の連中が密漁、密猟などしては絶対にいかんわけだ。


 後年、俺も味を覚えモクズガニを捕って食うようになった。

 とはいっても、キャンプの時やビオトープでの観察会の折りにうまく手に入ったら、数個体茹でて食う程度。間違っても同じ場所に毎日捕りに行ったりはしない。

 俺の住む地域は違うが、もちろん、地域によっては漁業権種に指定されていたりもするから、そこで勝手に捕獲するようなこともしない。

 大学に入って初めて食べた時は、伊豆の海岸に流れ込む漁業権などない細流で捕ったモノであった。

 だが、その味わいの深さには本当に驚かされたし、あの体育教師の気持ちが少しは分かった。他の食用ガニと比較して体が小さいので肉をほじり出すのが大変なのだが、それでもアメリカザリガニに比べれば殻も柔らかく、脚も太くて食べやすいのがいい。

 なにより、甲羅の中のミソと赤いねっとりした内子=卵が最高に美味なのだ。

 食べやすさは別として、味だけで言えば、ズワイガニや毛ガニなどを越えることに異論を挟む人は少ないと思うし、かのノコギリガザミでも、あの味の濃さには敵わないかも知れない。

 中国に行った際に上海ガニも食べたが、ほぼ味わいは同じであった。だが、上海ガニの捕れる、あるいは養殖している湖沼の汚さといったら、ひどいものだ。

 日本は農薬も少なく、モクズガニの多く取れる場所はほとんどが清流。

 つまり味だけで言うならば、上海ガニを凌ぎ、おそらくカニの中でも最高峰である。と言っておこう。


 さて。

 このままだと、結局「モクズガニは美味しい」だけで終わってしまう。万が一、コレを読んだ人すべてがモクズガニ漁に走ったら、日本中のモクズガニがピンチに陥るかも知れない。

 そこで、ちょっと食べたくなくなるような話もしておこう。

 場所は西表島。

 タナゴモドキというハゼ科の珍魚を探して、河口域のジャングルをうろついていた時のこと。道路脇まで登ってきた時に、ジャングルに埋もれたU字溝があった。

 何かいないか……と、のぞき込むと、溝の中には水が溜まり少し大きめの石が落ちていた。何の気なしに石をひっくり返した瞬間。

 ぐしゃ。というイヤな感触。石の反対側にモクズガニがいたのに気付かず、石で潰してしまったのだ。


「むう……すまん。迷わず成仏してくれ」


 と手を合わせ、いつもそうするように地蔵菩薩真言を唱えて去ろうとした時。カニの表面が揺らめいた。

 潰れ、ひび割れたカニの甲羅。

 そのひび割れた部分から、なにかが出てくる。最初はてっきり体液が漏れ出たのかと思ったがそうではない。限りなく透明な触手状のモノが無数にはみ出し、ひろひろと手を振るように蠢き始めたではないか。


「うぎゃあああああああ!!」


 俺は思わず叫んで逃げ出した。

 アレが何であったのか、確認を取っていないので分からないが、甲羅内部に寄生していた寄生虫であることは間違いないと思う。

 それにしてもあの数!!

 あれでは、甲羅の中身がほとんど寄生虫だったのではないか、というほどだ。その時、あらためて思い出したのが、生態学の教授の言葉。


『寄生虫の中にはシストという休眠芽を作って、筋肉中に潜むヤツらがいる。シスト状態の寄生虫は、種類によっては沸点では死なないからな。おまえら気をつけろよ?』


 沸点では死なない。

 つまり、茹でたくらいでは死なないヤツもいる、ということだ。

 かの著名な芸術家にして美食の大家、北大路魯山人も、死因はジストマであり、それもタニシを半生が美味いといって食っていたせいだと聞く。

 このジストマはむろん、モクズガニにも付く寄生虫だ。つまり……命に関わる、といううわけだ。


 もう一度言っておこう。

 モクズガニは、絶品に美味い。だが、どんなに上手に料理しても、寄生虫という危険性は完全には払拭できない。

 もし、あの美味を味わいたいのであれば、そこは自己責任でお願いしたい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る