第35話 タンポポ


 タンポポは苦くて食えたモンじゃない。

 と、「道草を食う」と「庭草を食う」で書いた。だが、ふと思いついたことがあって、最近、もう一度タンポポを食べてみることにしたのである。


 前回の試食の時。

 試したのは、生、おひたしの二種であった。

 そりゃあ、油で揚げたり、炒めたりすれば食えないことはない。そうすればまあ、山菜としては美味い方だが、生や茹でただけでは、ホントに口が曲がりそうなくらい苦いのだ。

 料理したからにはすべて食う、という信念の元、死にそうに苦い葉っぱを囓りつつ、だが俺の脳裏には一つの疑問が浮かんでいた。

 それは、タンポポが美味しいという記述を、何度も本で目にしていたこと。

 しかもその内容が、苦みはあるがサラダでも大丈夫、とか、さっと湯がいておひたし、とか、あの強烈な苦みにまったくそぐわない表現なのだ。

 俺の舌がおかしいのか? それとも、あの本の著者達は苦味が分からんのか?

 という疑問である。


 さて。

 植物に限らず、生き物全般に言えることだが、季節や種類によって、味わいという点では、まるっきり変わってしまうモノが多々ある。

 シャケなどは、海で捕獲すれば、いつも皆さんが食しておられるような、赤っぽい身で締まりもあって美味いが、産卵のために川に入ってしまうと身の赤みが薄れ、締まりも悪く、泥臭くなる。

 イノシシのオスは、交尾期に入る頃になると、脂肪がヨロイのように固くなり、肉の中にも独特の異臭が出始め、味は格段に落ちる。

 時期以外で言えば、種類もそうだ。

 野イチゴの項でふれた美味な木イチゴ、ナワシロイチゴだが、これによく似たニガイチゴという種類があって、これはもう苦くて食えたモノではない。

 素人にはほぼ判別不可能なタラバガニとアブラガニで、味わいに微妙に差があることも、有名な話である。

 たとえ話が適切かどうかは分からないが、見た目同じようで種類も同じとされながら、甘柿と渋柿ではその味わいは天と地ほども違うことは、誰でもご存じであろう。

 こうした木の実の味の違いは、鳥の来る実のなる木……ガマズミやグミなどでも見られ、美味しい実のなる木は晩秋までに食べつくされてしまうが、不味い実の木は雪が降るまで残っていたりもするらしい。

 むろんこれは、種類によって、という話ではなく同じ種類の木における話である。


 さらにもう一つ。

 同じ野菜でも味に違いがあることに、皆さんお気づきであろうか。

 キュウリやキャベツに顕著なのだが、大量生産のものと「地場産野菜コーナー」のキュウリでは、その「苦み」に大きな差があるのだ。

 言うまでもないが、大量生産キュウリは、時に食べられないくらい苦いものがある。

 だが、地場産キュウリの多くはそういった苦みが薄いか、殆ど感じられないくらいであって、食べられないなどということは少ない。

 苦みは主観であるし、品種の差もあるのかも知れないので、強く言うつもりはないのだが、これは我が家の家族に共通した意見である。

 

 これらの違いはいったい何なのか?

 まず、時期の差についてはいわずもがな。その生物の生活サイクルで、体内の物質が変化するから味も変わるのである。

 近縁の別種の味の差は、それがそのまま生き残り戦略に関わってくるモノかも知れない。

 つまり、美味しい方がより捕食されるので、不味い方が生き残りやすいわけだ。

 だがその反面、木の実などは、食べられ、種子を運んでもらって初めて発芽するものも多いから、そう単純でもない。

 たとえばニガイチゴの苦みは、人間やサルなどの哺乳類は感じても、食べて欲しい鳥などは気にしない苦みかも知れない。

 それなら、わざわざ苦みを持つように進化した意味も分からないではない。


 同種の木の実における味の差は、おそらく「遺伝的な差」であろう。

 つまり、木による個体差である。

 人間にだって、背の高いヤツ、低いヤツ、いくら食べても太らないヤツ、すぐ太るヤツ、足の長いヤツ、短いヤツ、と色々いるようなもので、同じ種類でも味の差があるわけだ。

 その差が非常に大きい、というだけのことであろう。

 だが、うまい木の実は鳥や獣もよく知っていて、あっという間に食い尽くされる。それによって、早く確実に種子をばらまくことが出来る。

 では、実の不味い方の木は不利かというとそうではなく、冬が深まり他に食べるものが無いほどになると、さすがに鳥や獣もつらいらしく、不味くても我慢して食べる。

 ところが、その頃の鳥たちは餌が少ないから、自然とより遠くまで餌を探しに出かけるわけだ。つまり一見不利そうに見えて、遅く食われることで、遠くまで種子を運んでもらうことが出来る、というわけだ。

 かように生き残り戦略が別れているということは、もしかすると、既に「うまい実のなる木系統」と「不味い実のなる木系統」にまで別れているのかも知れない。

 これがそのうち、別の種類にまで分かれていくのかは謎だが、そう想像すると、なかなか面白いものである。


 では野菜のキュウリやキャベツにおける味の違いは何なのか?

 これはおそらく、ストレスの差によるのではなかろうか。例えば農薬。

 農薬の濃度や撒くタイミングに関係があるのではないだろうか?

 農薬は、植物にはほぼ無害で、規定量を規定時期に撒けば人畜にも無害とされ、むろんそれはそうなのであろう。だが、昆虫や菌に効く薬剤が、生物である野菜に何のストレスも与えない、などというわけはない。

 また、もしかすると逆に、無農薬であったがために葉や実を食害され、対抗手段として防御物質を体内に生成した可能性もある。

 ストレスが掛かれば、動けない植物は体内に対抗物質を作り出すことは知られているし、それが苦みとして人間に感じられても、なんの不思議もない。

 あるいは肥料。

 どんな栄養分も、過剰になれば食べ過ぎになる。これは植物といえど同じであろう。化学肥料にせよ自然な堆肥にせよ、根から吸収しきれない栄養分は、根へのストレスとなり、植物全体が防御態勢になるのではなかろうか。

 トマトのように、塩水を与えたり、乾燥気味に作ることでストレスを与え、それが却って食味の向上につながる野菜もあるようだが、必ずしも味が向上するとは限らないだろうし、逆に言えば、ストレスが食味に影響を与えることは証明されているわけである。


 いつものコトながら前置きが長くなった。

 そう。タンポポについても、同じコトが言えるのではないか? そう考えたのである。


 まず、生える場所によって味が違うのではないか?

 つまり、道端や庭といった、乾燥した貧栄養の土地ではなく、畑や山地などの肥沃な大地で採れたタンポポは美味いのではないか?

 次に、美味い系統があるのではないか?

 俺の自宅周辺では苦いタンポポしか生えていないだけで、行くところに行けば、美味いタンポポがわんさか生えているのではなかろうか?


 そう考えて、いくつか試してみたわけである。

 まず、墓場の草むしりをしていた際に、それは立派なセイヨウタンポポの株を発見した。

 畑に隣接する墓であるから、土地は肥沃で、かつ柔らかい。しかも草むしりしないととんでもない背丈に草が伸びる場所であるから、当然のように除草剤も農薬も使用してはいない。

 コレはチャンス、とばかりに早速むしってそのまま囓ってみる。


「苦えええええええ!!」


 ダメであった。

 苦さはこれまでのものとほぼ同じ。どうやら、育ち方とは関係ないらしい。

 ではもしかすると、種類の違いによるモノではないか? と次に考えつく。

 セイヨウタンポポではないタンポポの確実にある場所はどこであったか……そういえば、自宅近くの丘陵公園にあったはずだ。

 見かけたのはたしか、犬の散歩に少し遠くまで付き合ってやった時のことであった。

 その丘陵地は市街中心部にありながら、アジサイやサクラの名所でもあり、シーズンには多くの市民が集う場所なのだ。だが人工的な場所ではなく、植生も豊かで、カブトムシやミヤマクワガタはもちろん、ギフチョウやモリアオガエルまでいる、自然豊かな丘陵なのである。

 平日は会社に遅れるので、そこまで行けないのだが、ある週末久しぶりに一時間以上掛けて、その丘陵地「A山」まで登った。

 頂上近くまで来た時、ツツジの植え込みの脇に生えているタンポポの総苞片、つまり、他の花でいうと「ガク」に当たる部分が反り返っていないことに気付いたのだ。

 よく見ると、この山のタンポポは在来ばかりであった。

 麓の町中には、ほとんどセイヨウタンポポしか生えていないのに、である。

 この在来タンポポ。カントウタンポポなのかカンサイタンポポなのかと、調べてみたところ、どうやらどちらでもなくセイタカタンポポというものらしい。

 聞き慣れない名前とは思うが、別にこの山に特産というわけではなく、関西圏から中部、北陸の数件に渡って分布している。あまり日向が得意でないようで、少し木陰になった草むらを中心に、よく見るとかなりの数が生えていた。

 さて、このセイタカタンポポ。

 葉の色が薄く、実になんというか……見るからに美味そうであった。

 この丘陵地内で除草剤などは撒かれていないようだし、踏み荒らされる恐れもない。

 つまり外的ストレスからはほぼフリーな彼等は、もしかすると「苦くない」のではないか?

 そう考えた俺は、葉っぱを一枚、千切って食べてみたのである。


「あれ? 苦くない。っつーかこれ、本当にタンポポか?」


 衝撃であった。

 その苦みとクセの無さは、水菜やホウレンソウなど、一般の野菜並みの味わいだったのだ。これなら、パセリやセロリなどの方がまだ苦いくらいである。

 それほどまでに、このセイタカタンポポの葉は美味かった。

 早速、一株から一~二枚ずつ……散歩しながら十数枚千切らせてもらい、自宅でよく洗って、マヨネーズをかけて生食させていただいた。

 たしかに、これなら文句なしにサラダでいける。

 そうか。つまり、山菜本の著者達は、こういうタンポポを食していたのではないか?


 こうなってくると、様々な種類で試してみたくなるのが人情。

 いや、人情だけではない。学術的興味も湧いて来るではないか。

 俺の住む県で確認されているタンポポは、セイタカタンポポ、セイヨウタンポポ以外では、アカミタンポポ、シロバナタンポポ、ヤマザトタンポポ、カンサイタンポポ、キビシロタンポポがある。この他にも、都会の方では新型の外来タンポポも侵出してきているらしく、在来タンポポもいくつもの種類に分類されつつある。

 また、最近ではDNA鑑定によって、巷に溢れているセイヨウタンポポの多くは、在来タンポポとの交雑個体であることが分かってきたらしい。

 つまりは、姿形は変わっても、日本のタンポポは消えてなどいない、ということらしいのだが……もし、である。

 もし、食味でこれらの種類がまたいくつかに分けられるとしたら?

 セイヨウタンポポの特徴を持つ個体と、在来タンポポそのものとで、味わいが変わるとしたら?

 その生態的戦略に違いが出てくるのではないか?

 これは、なかなか面白い研究テーマだと俺は考えた。


 とにかく、セイタカタンポポ以外の種類の食味を試すべく、以前、在来タンポポを見つけたことのある場所を思い出しては、行ってみた。こうなればなりふり構わず、車で出かけたのである。


 昔、カンサイタンポポの生えていた一箇所目。

 斜面そのものが無くなり、トンネルになっていた。

 二箇所目。

 イノシシの出没により、電気柵が設置されていた。電気柵は草が触れると効果が無くなるので、草刈りされて更に除草剤までも撒かれていた。

 三箇所目。

 違う種類の草にすっかり入れ替わっていた。


 シロバナタンポポのあった一箇所目。

 長い河川敷土手のどこかだったことは覚えているんだが……どこだったか忘れた。全然、見つからない。

 二箇所目。

 古城の石垣の上。観光用に整備されて、草なんか何も生えてねえ。


 そういや、どれも数年~十数年前のことだった。しばらくタンポポなんか注目してなかったからなあ。

 ましてや、食べるために探すなんて思いもしなかった。

 そんなわけで、いまだに俺は在来タンポポの葉っぱを探して、野山をうろついているのである。

 なんとも不完全燃焼な結果になって申し訳ない。

 もし、今後タンポポの食味について新たな発見があったら、ここでまた皆様にご報告することをお約束させていただいて、お許し願いたい。

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