第17話 シイの実(スダジイ・マテバシイ)
台風が通り過ぎ、空が一段と高くなる頃。
ドングリの季節が到来する。
今更ではあるが、「ドングリ」という名の植物はない。カシやナラ、シイの仲間の堅果、すなわち栄養を蓄えた堅い種子の総称である。
しかし、大抵のドングリには強い渋味がある。タンニンという渋味の元が大量に含まれているからで、人間はそのままドングリを食べることは出来ない。
絵本や物語で、ドングリパンだの、ドングリの砂糖煮だの、メルヘンチックな料理が登場する場合があるが、よほど丁寧にアク抜きをしなければ食えない上に、アク抜きをしたドングリはペースト状の真っ黒なモノへと変貌してしまう。
可愛らしく香ばしいドングリ料理は、夢のまた夢なのだ。
だが、例外的にこのタンニンをほとんど含まず、渋味がないドングリがある。
それが表題の「シイの実」なのである。
シイには、スダジイ、コジイ、マテバシイなどいくつか種類があるが、スダジイとマテバシイが一般的であり、公園や街路樹などの植栽もよく見かける。
俺がシイの実に初めて出会ったのも、神社の境内に植えられていたスダジイであった。
高校時代。
生物部の部長をつとめていた俺は、学校周辺の植生や生き物の探索をしていた。
その日は、学校からほど近い神社の中の木々を見ていた。
若いクセに迷信深かったので、バチが当たるのを嫌い、これまで神社の中までは侵入したことがなかったのだが、顧問の先生に「社寺林」というものをお聞きして、調べてみる気になったのである。
「社寺林」すなわち、神社やお寺の木々のことだ。これらは確かに人の手で植えられた人工林なのだが、古くからの植生を残す森でもある。
社殿や本堂などを造り直す際に、材料として用いたり、あるいは売って建材を購入したりするために使用する目的で植えられており、滅多に伐られることがない。
よって、数十年から数百年の樹齢のものも多く、樹種も基本的には地元産のものが多いし、人が手を付けないので林床の植生や生物も、在来のものが保全されていることが多い、とのことであった。
だが、その神社のスダジイは、樹高数メートルと小さかった。樹種こそこの付近の極相林構成種ではあったが、樹齢はさほどではないようで、最近植えられたものであったのだろうと思う。
だが、その低いスダジイの周囲には、小さなドングリがたくさん、砂利の隙間に挟まるようにして落ちていた。
顧問の先生が懐かしそうに、その実を拾い上げ、カリッと噛み砕いた。
茶色い殻が割れると、その中からは、白くつややかな中身がのぞく。形も大きさも、梅干しの種を割ると出てくる核、通称「天神様」にそっくりだ。
先生は、いきなりその実を食べ始めた。
「先生……ドングリなんか食べて、渋くないんスか?」
「なんだお前ら、シイの実を知らんのか? 美味いぞ?」
顧問の先生は、平然と答えた。
どうやら、このドングリは渋味がないらしい。こんな面白そうな食材を、俺が放って置くはずはない。俺も一つ拾い上げ、歯で割ってみた。すると……
「ぺっぺっ!! 中身がない!!」
見た目は綺麗なシイの実だったが、中身の入っていない実だったのだ。
いくつか拾って割ってみたが、木が若いせいか、どうもうまく実っていないようで、中身のない実の方が多い。先生は偶然、うまく身の入った実に当たっただけのようだった。
何個目かの挑戦で、ようやく俺は身の入ったスダジイの実にあたった。
生で食べるスダジイの実は、少し粉っぽいが、薄い甘味があってなかなかイケる。だが、そういえば、煎って食べるともっと旨いのではないか?
生物準備室へ戻った俺は、ガスバーナーでシイの実を煎ってみた。
香ばしい。
生で食べた時とはまったく別物である。
ほのかだった甘味も活性化していて、粉っぽさも消え、歯ごたえはシコシコとした感じに変化していた。火が通った状態では、色も半透明で美しい。
ちょうど、クリとギンナンを足して、味を薄くしたような感じだろうか?
長さ一センチ前後の小さい実をいちいち歯で割らねばならないのが、面倒くさくて玉に瑕だが、おやつとしても、つまみとしても、充分に耐える食材であった。
俺は、神社にとって返すとシイの実を拾い足した。持ち帰って水につけると、中身が空の実は、水に浮くのですぐ分かる。
それからしばらくは、部活の合間にセコセコと焼いては、自分でも食べ、部員達にも振る舞った。
だが、このスダジイという木。どうも毎年コンスタントに実を付ける木ではないようなのだ。
気がついたのが、高校二年の秋だったのだが、受験勉強真っ盛りの高三の秋に赴いた時には、この木は一つも実を付けていなかった。
それからは、なにかと気にして、深緑の小さな葉を持つ常緑広葉樹を見かけると、近寄って樹種を確認していたのだが、見つかるのは渋い実を付けるシラカシやアラカシばかり。
結局スダジイと再会できないまま、俺は郷里を離れて、T大学へ入学した。
T大学には、二次林の松林が一番多いのだが、街路樹や公園樹には様々な樹種がある。
そこで出会ったのが、南方系の巨大な葉と実を付けるシイ、マテバシイであった。
最初に気づいたのは、初夏だ。
学生寮からは、高架歩道上を自転車で大学へ向かうのであるが、学舎の見える手前、A池の畔を通過する場所で、俺は思わず立ち止まった。
それは、明確な樹液の臭い。
この臭いに昆虫は惹かれ、やって来る。周囲にはクヌギもコナラも見当たらないが、確実に樹液は出ているはず……と、見ると、歩道脇のツヤのある大きな葉をつけた、樹高数mの小さな木から臭っているようだ。
木の後ろに回って俺は驚愕した。立派な角を持つオスのカブトが、しみ出る樹液を舐めていたからだ。その横には、なんと巨大なシロスジカミキリもいた。
俺は、その周囲の同じ木を物色し、更にメスのカブトも捕獲。戦利品を胸に止まらせて意気揚々と学校へ向かったのである。まあ、今にして思えば大学生がやることではないが。
この発見は、俺の認識を一変させた。
樹液というと、クヌギやコナラからしか出ないと思いこんでいたのだ。
その日から、葉っぱを目安にするのではなく、樹液の臭いを嗅ぎながら学内の林をうろついた。その結果、マテバシイ以外にも、クルミやイヌシデ、アメリカスズカケノキなどといった樹種でも、カブト・クワガタが捕れることを発見するのだが、それは今回の話には関係ない。
この時点で、俺はまだこの大きな葉を持つ木が、マテバシイだということを知らなかった。だが、樹液の出ている木は貴重なので、樹液の出にくくなる秋口まで、しょっちゅうこの木に立ち寄っていたのである。
ある日、この木にたくさんのドングリがなっていることに気づき、初めて、俺はこの木こそが、あのマテバシイであるのだと知ったのである。
その頃、俺はサギという鳥を研究する会に所属していた。
その研究会で、大学祭に研究発表をすることになり、その頃はほぼ毎日、俺の住む学生寮の共用室を使って発表のための表や絵を描いていた。
そしてハタケシメジの項でも述べた、片思いの女の子も、同じ会にいたのである。
連日遅くまで、一緒にいられる喜び。
だが、夜食にコンビニ弁当では味気ないし面白みもない。そこで、その子を喜ばせようと、実家から送ってきたナシをむいたり、学内でクリを拾って蒸し、差し入れとしていたのであった。
マテバシイに気づいたのは、ちょうどそんな頃である。
幸いなことに、誰もマテバシイを採ろうとはしていない様子。俺は、マテバシイの実を鍋一杯に拾い集め、サギ研究会に持ち込んだ。
だが、結果は大変な不評であった。
長時間蒸したのだが、甘味が薄く、香ばしさもなく、モロモロした舌触りだけが残る。
一緒にクリを出したのが更にまずかった。皆、クリばかり食べてマテバシイは全く手を付けてくれなかったのである。むろんその子も。
思えば、蒸すのではなく煎るべきだったと思う。そのころは電磁調理器を使っていたので、煎るのはほぼ不可能であったのだが。
シイの実の味とは関係ないが、その子は実際、魅力的であった。
誰が見ても申し分のない美人なのだが、飾り気無く、真っ直ぐな性格で、媚びたところが一切無く、思いやりがあって、慎ましい。そのくせ芯が強くて、妥協しない。主義や自分の信じる正義を守るためなら、火のような激しさもたまに見せる、という、まあ側にいて惚れない方がどうかしているような女性だった。
そんな子を放って置くわけが無く、俺だけでなく同じ会の先輩も明らかに狙っていた。
会が終わると、遅くなったからと送っていこうとするのである。
なにしろ、その子の住む学生寮は、だだっ広い大学敷地の反対側。自転車で二十分以上の距離である上に、途中の歩道には、人家どころか街灯もほとんど無いのだ。
むろん、俺も送っていく、と言った。
だが、俺は自転車しかなく、先輩は車持ち。
送っていく、と俺達が言うと、その子はきょとんとした顔で言ったのだ。
「私は自転車で帰るんだから大丈夫。自転車で私を送ったら、あなたの帰りが危ないじゃない。それに先輩の車で帰っちゃったら、明日、私は歩いて自転車取りに来なくちゃいけないでしょ?」
それはその通りなのだが…………
だが、俺は心配だった。
こんな素敵な子が、暗い夜道を数キロも自転車で帰るなど、もってのほかである。もし俺が変態なら必ず襲うであろう。
しかも、この子はかなりなドジでもあった。
入学間もない頃、道をよく知らなかったとはいえ、柵のない学内の池に、自転車で真っ直ぐ突っ込んで、全身ずぶ濡れになった前科もある。
何事にも一生懸命で責任感が強いくせに、そのせいで気持ちが空回りしてしまうのか、よく失敗するのだ。
そんな彼女を、深夜一人で帰すことは、どうしてもできなかった。
さっさと帰り支度を始める彼女を前に悩んでいると、先輩がとんでもないことを言い出した。
「じゃあ、自転車をトランクに乗せていってやるよ」
ううううう。先輩。あんたの車、セダンだろうに。
「でも…………」
それでも渋る彼女。
俺も悩んだ。しかし、先輩に任せるのは危険だが、一人で帰すよりは百倍マシだ。
「……それがいい。そうしてもらいなよ」
「……じゃあ、お願いします」
俺の後押しが効いたのだろう。彼女は先輩の車に乗せてもらって、帰っていった。
それで、俺はようやくほっとした……ワケがない。
やおら自転車にまたがると、先輩の車に負けないよう、深夜の高架歩道を疾駆したのであった。
彼女を降ろした先輩の車が帰り、彼女の部屋に明かりが灯るのを確かめて、また自分の寮へと帰る。実際、何やってんだと思うが、それが俺に出来る精一杯のことだった。
それから、研究会があって彼女が遅くなるたびに、同じ事を繰り返した。
時には明け方近くまで作業があり、朝靄の中、先輩の車を追いかけたことも。
まあ、それも結局、その子がその先輩ですらなく、違うクラスメイトとつきあい始めてしまうまでのことではあったが。
あれから年月は経ち、俺も所帯持ち。彼女も遠くで家庭を築いている。
だが、この人生で出会った女性の中で、彼女を越える人は、一人もいなかったことだけは断言できる。
あの夜。
自転車で突っ走る歩道の街路には、マテバシイがあり、誰にも拾われることのない実が、点々と散らばっていた。
その後発見したのだが、マテバシイの実は、蒸したり茹でたりするのでなく、煎るとなかなかに香ばしくて美味なのである。
地元に帰って、意外にも公園や街路樹にたくさん植えてあるマテバシイを発見して、たまに拾って食べているが、なんとなくあの頃を思い出してしまう。マテバシイは、俺にとっては、なんとも切ない木の実なのである。
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