第9話 レンギョ

 「だ……誰か助けてーーーッ!!」


 後輩(男子)が叫ぶ。

 俺は、慌ててそいつの体を両手で抱えて引っ張った。

 場所は利根川。

 時期は梅雨。

 日本有数の大河川は、狂乱の渦にあった。

 渦巻く濁流を突き破って、次々と空中へと躍り出る巨魚。

 霞ヶ浦で育った、ソウギョ、ハクレン、コクレン、アオウオが、産卵のために川を遡っていくのだ。

 この四種。在来種ではない。中国から『食用に』輸入され、移植された魚種である。

 中国では「四大家魚」と呼ばれ、池に放ち、草を与えて育てるのだそうだ。

 ソウギョが草を食い、糞で富栄養化して殖えた藻類をハクレンが食い、それを餌に育った動物プランクトンをコクレンが食い、泥底に殖える貝をアオウオが食う……というように、うまく四種を一つの場所で共存させて飼育するのだそうだが、そんなにうまくいくのであろうか??

 実際のところ、日本ではうまくいかなかった。

 あちこちに放流されたらしいが、自然繁殖できたのが利根川水系だけだったらしい。

 コイツらの卵ときたらコイやフナと違って粘着性が無く、水草なんかにくっつかない。

 流れ下りながら育って孵化するわけだが、利根川くらい流域が長くないと、孵化する前に海に出てしまうからなのだそうな。

 まあ、外来種が問題となっている今となっては、この化け物みたいな魚が日本各地で野生化しなくて良かったと思う。

 寿命の長い魚なので、ため池などに生き残っているところもあるらしいが、貴重な水草を食い尽くして、えらいことになっているらしいから。

 それはさておき。

 この魚たちの産卵シーンは、実際、ものすごい迫力であった。

 あの一世を風靡した名作『沈黙の艦隊』の一場面。原子力潜水艦『やまと』が空を飛ぶシーンを彷彿とさせる。

 小さいものでも数十センチ以上。大きなものは一~二メ-トルもあろうかという化け物魚が、水面を破って飛び出す。

 この迫力は見た者でないと分からないかも知れない。

 普通はその迫力に気圧されて、見て、満足して、帰る。

 だが、後輩は違った。


「先輩。俺、ちょっと釣具屋行ってきます」


 待て待て。おーい、ちょっと待てって。

 止める間もなく、後輩はさっさと車に乗り込んでスタート。十分ほど後に買い込んできたのは、ナイロンの太い糸と、錘(おもり)、四本の針が付いた、いわゆる『イカリ針』。

 それをさっさと組み合わせて、仕掛けを組み上げた後輩は、くるくるっと回して川に放った。錘が重いせいもあって、意外に飛ぶ飛ぶ。

 それをぐいぐい引っ張って…………要するに、魚がこれだけひしめいているのだから、やたらめったら引っ張って、偶然引っ掛かった魚を釣り上げようって事なのである。

 気がつくと、同じように釣り上げようとしている釣り人が、そこかしこに見える。

 もちろん、後輩とは違って、ごつい竿で投げているからもっとよく飛ぶ。

 それでも、見ている限りではなかなか掛からない。

 ましてや手投げの後輩の仕掛けに、魚が掛かるとは思いもしなかった。

 で、ほんの数分、ぼーっと魚で沸き立つ川面を見ていたら、突然、後輩が叫んだのだ。


 冒頭に戻る。


 「だ……誰か助けてーーーッ!!」


 後輩(男子)が叫ぶ。

 俺は、慌ててそいつの体を両手で抱えて引っ張った。

 巨大な魚にまさに川に引きずり込まれようとしている後輩は、顔色を無くしている。手から伸びた糸の先が、ゆっくりと左右に動いていた。

 冗談ではない。

 どんな大物を掛けてしまったのか知らないが、このままでは二人とも引きずり込まれる……っと思った瞬間、急に針が外れたようで、俺は後輩を抱えたまま後ろに倒れた。

 驚いたのは、その次の瞬間だった。

 川面を割って飛び出したのは、これまでで最大級のレンギョ。

 でかすぎて、尻尾の先までは水面に出なかった。あんな化け物、手釣りで上がるわけがない。

 命拾いをした後輩の手を見ると、ナイロン糸を巻き付けていた場所には、くっきりと跡が残っていた。

 もう少しで死ぬところだったわけだ。これでは捕獲は諦めるしかない。帰ろうということになったが、もう一人の後輩が釣り人と話している。

 コイツも変わった後輩で、アパートの庭でニワトリ飼ったり、畑を作ったりしているような農業系ワイルドタイプ。

 だが無駄に狩猟本能を満足させることはせず、捕獲がダメなら育ててしまえ、とすぐになる。

 労少なくして実り多くがモットーなのだ。

 この時も、レンギョは食べたいが釣りは無理、となれば、釣れたヤツをもらってしまおう、と考えたらしい。

 で、簡単にそいつと意気投合した釣り人は、快くハクレンを一匹譲ってくれた。

 あっさりくれた釣り人も釣り人だが、コイツの交渉術には恐れ入った。

 だが、釣り人はこう言った。


「まあ、ハクレンは食えなくはないけど、アオウオやソウギョの方が美味いんだ。レンギョは脂が多いから、背中の一部しか食えないと思うよ」


「???」


 俺達は釣り人の言っている意味が分からない。

 まあ、ソウギョ、アオウオの方が美味い、というのは分かるが、脂が多いから食えないって、どういう事だ?


「まあ、さばいてみれば分かるよ」


 とのことで、俺達は全長八十センチ超の「小ぶりなハクレン」を一匹もらって帰途についた。

 料理したのは、その農業系ワイルド野郎の部屋。

 ま、部屋っつーか、ぼろっちい民家を仲間二人でシェアしているヤツだったから、一戸建てを、その野生生物サークルの一団で占拠したような形だ。

 この時飲んだ酒が「チョウセンゴミシ」のリキュールで、その味と効能に驚愕することになるのだが、それは別の話としてとっておきたい。

 

 ハクレンの味の話である。

 まず、ハクレンをさばいた俺達は、そのえらく透明感があって白っぽい肉に驚いた。


「なんか、豚肉みたいッスね?」


 引きずり込まれ掛けた後輩が言う。


「見てくださいよ……包丁が、もう、切れないッス」


 農業系ワイルド野郎が言う。

 たしかに、まるでラードか何かを切った時のように、包丁は脂でぬめり、切れ味が落ちていた。

 それでも力任せに切っていくが、意外に軟らかい肉はぶにゃぶにゃと頼りなく、たしかに脂っぽい。


「まあ……これじゃあ網では焼けないから、フライパンで焼いてみるか」


 その時、ちょうど酒がやってきた。買い出し部隊が戻ったのだ。

で、その時最年長だった俺は、料理を農業系ワイルド野郎に任せて飲み始めた。

 だが、飲み始めて二十分経っても、三十分経っても、つまみになるはずのハクレンのムニエルが登場しない。

 しびれを切らせてキッチンへ行くと、大変なことになっていた。


「おい。誰が油で揚げろと言ったんだ?」


「イヤ先輩。コレ、油一滴も入れてねえッスよ!!」


 切り身にはなかなか火が通らなかったらしい。そのうち、ハクレンの切り身から油が浸み出し始めた。最初は、油ひかなくていいや、くらいだった油はどんどん増えていき、ついには、切り身を浸すくらいになっていたのだ。

 自分の油で表面カリカリに揚がった魚肉。

 見るからにアレなシロモノだったが、とにかく俺達は一口食ってみた。


「ダメだ。魚の味がせん」


 特に泥臭さが強いわけではない。だが、油がすべての味を包んでしまって、何とも言えずまずい。浸み出したと言っても、すべて出きったわけではないのだ。依然、肉中に脂はたっぷりと含まれており、それがラードかマーガリンでも食っているかのような感じを与える。


「食えませんねえ……」


 これでようやく、釣り人の言っていたことが理解できた。

 だが、全く食えない、とは言っていなかったはず。部分的に、脂の少ない部分はあるのだろう。

 とにかく、その部分を探すしかあるまい。

 俺達は巨大な魚体を、バラバラにして各種料理を試しにかかった。

 結果、たしかに、背中の一部は食えないことはなかった。だが、一番美味かったのは頭だった。農業系ワイルド野郎は、俺達が他の後輩の失恋話を肴に、チョウセンゴミシのリキュールで盛り上がっていた間中、切り落とした頭を、カセットコンロの上で黙々と焼き続けていたのである。

 小さい火力のカセットコンロ。

 普通に考えれば表面しか焼けない。その上に、脂がボトボト滴り落ちて、危険なことこの上ないのだが、それをこの男は数時間、焼き続けたらしい。

らしい、というのは、その間、俺は酔い続けていたので何をやっていたかはよく分からないのだ。

 とにかく、数時間かかって、ハクレンの巨大な頭に火は通った。

 それでも、口先のあたりはまだ生っぽかったが、後頭部の肉は上手く焼けている。

 っていうか、この部分だけでも満腹できそうな量の肉が付いているのは、さすがの巨魚だ。

 そして、この部分の肉は、まことに美味であった。

 脂と肉のバランスが絶妙なのだ。

 たぶん、内臓に脂肪が蓄積するため、その周囲の筋肉は脂だらけで食えたものではなくなるのだろう。

 だが、後頭部は血管が集中しているせいか、あまり動かないのが良いのか、とにかく脂が少ない。とはいっても、そんじょそこらの魚に比べると、それでもものすごい量の脂を含んでいて、それが旨さになっているのだ。

 網でねちねちと焼き続けたのも良かったのだろう。

 焼かれて、熱でほとんど脂が落ちてしまったのが、一番の理由なのに違いない。

 正直、コストパフォーマンスの悪い魚だから、わざわざもう一度捕りに行って食おう、などとは思わない。だが、もしまた、目の前で跳躍を見たら、狩猟本能は抑えられないような気がする。

 そうだ。今度は息子を連れて見に行こう。

 釣り具をきちんと用意して、今度はハクレンではなくソウギョかアオウオを、自分の手で釣り上げて食べるのだ。


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