第47話 海底からの帰還

 ルイスは溶接機を取り上げると、リングが剥離した部分から、10cmほど離れた場所にリングをアーク溶接し始めた。先程よりも強度を強めるために、リングを3カ所に溶接するつもりだった。それでリングに掛かる力が分散される。

 補強すべき場所はもう一か所あった。司令塔に溶接したリングも同様に、引き上げの荷重がかかる場所だ。この場所が終わったら、すぐによちらにも手を付けなくてはならない。ルイスは焦る気持ちを懸命に抑えた。


 1つ目のリングを溶接が終わり、引き続き2つ目のリングを溶接しようとした時だった。アーク溶接の火花が一瞬だけ散って、すぐに放電が止まってしまった。

 何度スイッチを押しこんでも火花が散らない。ケーブルの接続が外れたかと思い、バッテリー側に向けて元を辿ってみるがそうではなさそうだ。


 バッテリー本体を見ると、赤いLEDが点滅していた。

「バッテリー切れ――、よりによって、こんな時に――」

 ルイスは舌打ちした。

「どうした、ルイス?」

 矢倉が水中無線で声を掛けた。


「バッテリー切れです。予備の電源もここにはありません。金庫の引き揚げはあきらめましょう。ウインチのワイヤーを艦内に引き回して、金庫を横倒しさせ、あなたを救い出す。そこまでで作業は完了です」

「待て、ちょっと考えさせろ」

 矢倉は金庫をどうしても諦める事ができなかった。しかしそのためには、どうしてもリングを溶接しなければならない。予備のバッテリーを取りに行くには、一度ベルを灘遥丸戻すしかないが――、しかし、ベルの往復時間を考えると時間が足りない――。


 海上から予備のバッテリーを届けさせるしかない。そう決断した矢倉は、水中無線で灘遥丸にいる新藤を呼び出した。

「新藤君、緊急事態だ。こちらに届けてほしいものがある。これからすぐに潜って欲しい」

「分かりました。何を届ければ良いのですか?」

「アーク溶接機の予備バッテリーだ。艦内の倉庫にあるはずだ。サポートスタッフに聞けば保管場所が分かる。確認できたら連絡をくれ」

「了解です」

 新藤の声はそこで途切れた。


 矢倉はルイスに自分のタンクの残圧を確認してもらった。タンク内にエアーはまだ十分にあった。「よし」と矢倉は思った。呼吸は乱れていないし自分はまだパニックを起こしていない。

 新藤から連絡が届いたのは5分ほどしてからだった。

「予備のバッテリーは見つかりましたが、過放電しています。今充電しているところですが、すぐには使えません」

「他にバッテリーはないのか?」

「艦のスタッフに探してもらっていますが、見つかるかどうか――」

 万事休すか――


 矢倉が金庫を諦める決断そしようとした、その時だった。

「矢倉さん、一つ気が付いた事があるのですが――」

 新藤が言った。

「何だ?」

「バッテリーと同じ棚に、新品のガス溶接機の吹管が一つありました。使えませんか?」


「それだ!」

 矢倉は声を上げた。


 ガス溶断器とガス溶接機は基本原理が同じで、火口の構造が違っているだけだ。溶接では酸素とアセチレンの混合ガスで、米粒ほどの小さい炎を発生させるが、溶断ではその火口の中央に、高圧の酸素を吹き出す穴が有る。

 要するに火口で金属を溶かすだけなのが溶接で、その溶かした金属を、高圧酸素で局所的に吹き飛ばすのが溶断という事だ。

 溶接トーチも溶断トーチも、吹管というL字型の器具を付けかえれば共用ができるのだ。


「よく気がついたな新藤君。その吹管を持ってきてくれ」

「はい、すぐに行きます」

「海面付近は波が荒くなっているはずだ。海中へのエントリーは、ベルを収容するムーンプールからやるんだぞ。それと君が万が一にも流されないように、ベルに繋がっているワイヤーに、命綱を掛けるのも忘れるなよ」

「はい」

 新藤は力強く返事を返した。


 新藤が潜ってくる間、ルイスたちは矢倉を残して一旦ベルに戻った。水中に居続けると、それだけで体力を消耗してしまうからだ。


 一人伊220の艦内に残った矢倉は、目を閉じて、頭の中から雑念を追い出した。焦りや恐怖心は、ガスの消費を早めるだけで何の得にもならないからだ。

 海底でトラブルに見舞われ、自分でなすべきことが何もなくなった場合は、積極的に何もしないのが唯一にして最大の対応策だ。

 瞑想状態を作り出して新陳代謝を抑え、ほんの僅かでも仲間が助けに来るまでの時間を稼ぐしかない。ダイバーにヨガの愛好者が多いのは、こんなときの用心のためでもある。


     ※


 新藤が海底に到着すると、ベルに回帰していたダイバー全員が、一斉に活動を再開した。

 ルイスはガス溶接機の吹管を付け替えて、H鋼のリングを3カ所に溶接した。司令塔のリングも付け増しした上に、周囲に鉄板を溶接して補強を図った。

 作業が始まったのを見届けた新藤は、水中無線で矢倉に、「艦に戻ります」と伝えた。


「待て、新藤君」

 矢倉は新藤を呼び止めた。「もう海面付近はかなり荒れているはずだ。そんなところで長時間減圧停止していては危険だ。このままここに残って、ベルで一緒に戻ろう。DDCから出る際に、減圧に3日かかってしまうが、そちらの方が安全だ」

「わかりました。そうします」


 その後は新藤も、金庫の引き揚げ作業に加わった。僅かに一人要員が増えただけで、その後の作業の流れは各段にスムーズになった。

 ウインチが巻取りを始めると、金庫はゆっくりと確実に上昇していった。矢倉はようやく自由の身になった。


 金庫は司令塔から伊220の艦外に出されると、次は灘遥丸から下されているワイヤーのフックに繋ぎかえられ、ゆっくりと海面に向かって上昇していった。海面近くは荒れているだろうが、金庫が重い分、揺れは少ないだろう。

 中身が無事であるかどうかは、運に任せるしかなかった。引き揚げられた金庫は、ルイスの紹介で、リスボンの国立水中考古学研究所に預けられる事になっていた。


 矢倉達はベルに戻ると、海上からの経路を確保していたガイドワイヤーのフックを、海底に撃ち込んだアンカーから外した。


 ようやく作業は終わった。

 ベルはゆっくりと灘遥丸に引上げられていった。



――2018年7月20日、ホワイトハウス、アイゼンハワー行政府ビル――


 この日、ギャビン・ミラー統合参謀本部議長は、副大統領執務室を訪れていた。


「バウアー副大統領、もう限界です。これ以上ミサイル防衛網再構築の作業を遅らせることができません。周囲の監視の目が厳しく、空母の配置も再考せざるを得ない状況です」

「弱音を吐くな、ギャビン。外部に公表されてこそいないが、謎の潜水艦はあれからもう3度も姿を現し、明らかな示威行動を取っている。カワードはそれに対し、IMFの新体制に何らの手加減も加ず、それどころか関係諸国を歴訪し、管理金準備制度の地盤固めを推し進めている状態だ。あの潜水艦はもう間もなく、実包を発射してくるだろう。それまでの辛抱だ」


「副大統領、私の周辺には最近になって、セキュリティサービスが付くようになりました。ブレイク首席補佐官からの指示で、国防の最前線にいる私の身辺警護を固めるのだそうです。しかしそれは明らかに嘘です。彼らは私の身を守るのではなく、私の一挙手一投足を監視しているのです」

「セキュリティサービスは君だけでなく、私にも張り付き始めたよ。気にすることはない、堂々としていれば良いのだ。

 君は決して違法行為をしている訳ではない。国防上幾つも有る選択肢の一つを選んでいるだけに過ぎない。結果的にその選択が最適ではなかったというだけだ」


「申し訳ありません、副大統領。私は軍人であり、政治的な駆け引きは最も不得意とするところです。今の私の立場は、私の信条に明らかに反しています。このような状態が続くのであれば、いっその事、紛争地帯の最前線で部隊の指揮を執る方がずっとましです」

 ミラーは両目にうっすらと涙を浮かべながら、バウアーに訴えかけた。


「分かったよ、ギャビン。今まで無理を言って済まなかったな。これからは君が最適と思う事をやってくれて構わない。愛国者である君を、私はとても尊敬しているよ。これまで協力してくれた恩は忘れない。君のこれからの昇進は私が約束するよ」

「有難うございます。副大統領」


 ミラーが部屋を出たのを確認すると、バウアーは「フン」と大きく鼻で息をし、「所詮はこれまでの男か、とても国防長官の器ではないな」と呟いた。

 あの潜水艦はもう間もなく、実包を撃つ。バウアーはそう確信していた。

 その時が訪れた時のための根回しは、着々と進めている。ミサイルの着弾とともに、『管理金準備制度』とやらは絵に描いた餅になる。そこでカワードの政治生命は終わりだ。

「やつを追い出した後で、ホワイトハウスの主となるのは、このデニス・バウアーなのだ」

 バウアーはまるで自分に言い聞かせるように、その一言を呟いた。


 ミラーがこれまで、自分への貢献者だったことに変わりは無い。悪いようにはすまい。彼のために新しい昇進ポストを用意してやろう。

 そうだ――、ミラーの希望を聞き入れて、『危険紛争地域担当長官』という役職を設けてやるのが良いだろう。合衆国の閣僚でありながら、危険地域の最前線に駐留する特別な役割だ。さしずめ今ならば、トルコかサウジアラビアあたりが、赴任地としては旬だ。

 

 万が一にもミラーが殺害されようものなら、即ちそれは、合衆国との戦争を意味することになる。間違いなくそれは、紛争地域における絶大なる抑止力となるに違いない。

 何よりも、我が合衆国の世界平和に掛ける覚悟を、世界に示すことができる。そしてそれは、新しく大統領となる私の覚悟でもある。


――生きている間は、合衆国に身を捧げる軍人の鑑であり、死ねば英雄――

「最高だろう、ギャビン」

 バウアーはミラーの顔を思い描きながら、満面の笑みを浮かべた。

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