第66話 無名潜水艦乗りの碑
――2018年12月22日、東京、原宿――
玲子と矢倉は東郷神社にいた。ポルトガルの調査に赴く前の壮行会で、誰かが言い出した『無名潜水艦乗りの碑』が現実となり、『潜水艦殉国碑』の横にそれが建立されたのだ。
碑の形状は伊220の司令塔を模したものになり、黒い御影石で造られた。矢倉の発案で、司令塔の上部に設けられた小さな空間に、防水性と気密性を備えた密閉容器が埋め込まれ、その中には伊220から回収した羅針盤が収められた。そしてその空間を覆うように、上部はハッチを模した御影石で塞がれた。
碑の除幕式にはルイスも出席してくれた。この日の夜、ルイスは玲子の特番『帝国への海図』に、生放送のゲストで出演するため、ポルトガルから日本に招かれていたのだ。
宮司のお祓いが終わり、来賓の挨拶の後で、関係者一同が白いロープを引くと、白布の下から碑が現れ、列席者からは拍手が沸き起こった。
ルイスは賑わいの中、矢倉の脇ににじり寄り、耳元に唇を寄せて小声で話し掛けた。
「昨日渡したC液とD液の書類ですが、どうするつもりですか?」
ルイスは国立水中考古学研究所で処理の終わった4冊を、矢倉に手渡していた。
「もう隠した」
矢倉が答えた。
「さすがに行動が早いですね。どこにですか?」
矢倉はルイスに、目線で司令塔の上部を示して見せた。
「あの中に入れたのですか?」
「ああ、昨日最後に蓋をする前に入れた。木は森に隠せと言うからな」
そう言って矢倉は笑った。
D液の技術資料は、公開すべきだと思わないでもなかった。そうすればあのテレンダールの除染は可能になる。
しかし――と、矢倉はそれを思い止まった。カルロス――即ち祖父、邦仁――の言葉を思い出したからだ。
D液を手に入れた人類は、使い勝手の良い毒ガスとして、ザビアを簡単に使うようになるかもしれない。もしもそうなれば、D液の秘密をずっと隠し通して墓場まで持っていったクサヴァーと、ディータを道連れにして果てた祖父の意思は霧散してしまうだろう。
いっそのこと、D液の書類を処分してしまおうかとも考えた。しかしそれも思い止まった。これから先の将来で、万が一誰かがザビアを使ってしまった場合、D液はその時の保険になるからだ。
矢倉は結局、それを後世に託す道を選んだ。
――2018年12月24日、東京、六本木――
この日『帝国への海図』第3夜の放送が終了した。番組は大反響を呼び、3夜目の終盤を迎えた辺りから、局の電話は鳴りやまなかったそうだ。
矢倉と玲子、ルイス、そして若い新藤の4人は、スタジオの撤収作業の混乱をよそに、早々に局を出て、六本木の居酒屋で祝杯を上げていた。
丁度この日はクリスマス・イヴでもあるし、玲子はホテルのレストランにルイスと新藤を招待したいと言ったが、ルイスが日本的な居酒屋に連れていってくれと熱望したため、六本木通りの裏手にある小さな店が、打ち上げの場となった。
「ようやく終わったな」
矢倉が言った。
「そうね、特番が終って、ようやく本当に一区切りついた気がするわ」
矢倉の言葉に玲子が答えた。
「僕まで誘っていただいて、本当に恐縮です」
新藤が横から、肩身狭そうに言った。
「お前はよくやった。良いダイバーになるぞ」
ルイスはそう言って、新藤に乾杯を求めた。
4人は思い思いの話をし、良く笑った。不思議な事に、誰の口からも潜水調査の思い出話、苦労話が出る事は無かった。
4人ともつい先ほどまで局のスタジオにいて、3日連続で調査の記録映像を見ていたのだから、十分に総括したという思いなのかもしれず、また思い残すことの無い仕事をした満足感が、そうさせたのかもしれなかった。
「お2人は結婚なさらないのですか?」
不意に新藤が訊いた。
「子供が首を突っ込む話じゃないわ」
玲子が笑いながら、新藤の言葉を一蹴した。
「そう言うなよ、玲子。実はな新藤君、丁度一年前の今日、玲子にプロポーズをしたんだが、彼女からそのやり方にムードが無いって説教されて、そのまま、お預けを喰らっているところなんだ。君からも何とか説得してくれないか」
「お預けなんて、ひどいわね。この1年はお互いが忙しかったでしょう。ただそれだけじゃない」
「この1年は確かにそうかもしれないが、この先お前はもっと忙しくなるだろう。いったいいつになったら結婚してくれるんだ?」
「恥ずかしいから、人前でそんな事を催促しないでよ。だからあなたはデリカシーが無いっていうのよ」
「いつするかだけ答えてくれ。そうしたらもう催促しないから」
「いつだってするわよ。うるさいわね」
「明日でもか?」
「明日でもよ!」
「聞いたか2人とも。明日俺たちは結婚式をする。君たち2人が立会人だ。いいな?」
「僕は構わないですけれど」
新藤が言った。「もちろん」とルイスも頷いた。
「勝手に決めないでよ。第一、明日はクリスマスだし、教会はミサで人が一杯よ」
「教会じゃなくても良いだろう。東郷神社でやろう。実はさっき、社務所に電話してみたら、4人だけの内輪なら、神主さんが付き合ってやっても良いと言っているそうだ。『無名潜水艦乗りの碑』の前で祝詞を上げてもらおう」
「随分と手回しが良いわね。でも、まあいいわ」
玲子にはピンと来ていた。矢倉は亡くなった祖父の前で結婚式を上げたいのだ。自分はきっと、矢倉のこういうロマンティストなところが好きなのだろう。そう玲子は改めて思った。
居酒屋の天井近くには、古びたTVがあり、古賀の『報道トゥナイト』を流していた。そう言えば、一年前にこの局の番組を見ている時に、臨時ニュースでギリシャのデフォルトの一報が入ったのだった。
矢倉は今にも、キンコン――、キンコン――という電子音と共に、TV画面の上方に臨時ニュースが流れそうに思え、それを恐れるかのように、しかし半ば期待しながら、しばらくその画面を見上げていた。
「ところで、今日の番組で、最後に視聴者から受けた質問なんだけど――」
ルイスが急に皆に話し掛けてきた。『帝国への海図』では番組の最後に、視聴者からの意見や質問をFAXで受け付け、それに出演者たちが答える時間帯があったのだが、ルイスが言っているのはその話だ。
最後の質問といえば――、玲子は直前の記憶を辿った。確かハイジャンプ作戦のその後に関する、小学生からの質問だった。
『アメリカ軍は南極に機雷を敷設したそうですが、機雷の寿命が来たら、ナチスの潜水艦が外に出てくるのではないですか?』
質問に回答したのは、ゲストとして呼ばれた軍事評論家だった。
『機雷というのは、とても寿命が長いんです。接触型という最も単純な構造のものは、少なくとも30年、条件さえ良ければ50年以上持つというのが、専門家の常識です。それだけの長い間、地下に潜んでいられる人はいませんから、心配する必要はありません』
軍事評論家は自分の専門知識を披露し、満足そうな表情を見せていた。
ルイスは言葉を続けた。
「あと何日かで年が明けますよね。そうしたらもう戦後73年でしょう。あの軍事評論家が言ったことが本当なら、どんなに長くても機雷は寿命を終えているはずですよ。ということは、外から調査に入ることもできるということです」
「確かにそうね」
玲子が頷いた。
「行ってみませんか? レックダイビングに」
ルイスの提案に、皆がどよめき立った。
「素晴らしいアイデアよ、ルイス。『帝国への海図~2~ 南極編』という事ね。今回の特番は大反響だったし、きっと予算は付くはずよ。明日早速企画書をまとめてみるわ」
「駄目だ、明日は結婚式が最優先だ。明後日にしろ」
矢倉の言葉に皆が笑った。
宴会がはねて店を出た矢倉達は、六本木通りでタクシーを拾い、ルイスと新藤だけを後部座席に押し込むと、運転手に彼らの宿泊先を伝えた。
タクシーのテールライトを見送った矢倉と玲子は、ゆっくりと矢倉のマンションに向かって歩いた。そこから歩けないほどの距離ではないし、冷たい風に当るのは、酔い覚ましには丁度よかった。
突然、玲子は矢倉の肩にもたれかかってきた。酔っているのかと思い顔を向けると、そうではないようで、悪戯っぽく玲子は微笑んでいた。
矢倉はコートのポケットに手を入れてみた。そこには硬い板の感触があった。矢倉をポルトガルに導いた、祖父の残したセルロイド板だった。
指で触ると、針で文字を掘り込んだ手触りがあり、その裏にも同じような感触があった。それは矢倉が新たに掘り込んだもので、そこには『無名潜水艦乗りの碑』の場所の緯度経度が記されていた。
後はこれを誰に託すかという事だ――、と矢倉は思った。
やはり娘の洋子だろうか? もう矢倉の姓ではなくなってしまったが、祖父の血を引き、自分の血を引き継ぐ唯一の存在は娘しかいない。
洋子は去年までは将来は医者になるのだと言っていて、矢倉は祖父の願いは4代目にしてようやく叶うのかと期待をしていたが、先日会った娘は、どうやらもう気が変わったようで、ファッションモデルになりたいのだと言って、矢倉の目の前で、毎日練習しているウォーキングを披露し、ポーズを取って見せた。
まあ、それでも良いか――、また気が変わるかもしれないし、と矢倉は思った。
玲子が自分の子供を産んでくれたら、そっちに託すのも悪くは無い。しばらく様子をみて、無鉄砲そうな方に、その子が20歳になった時に、祖父の手紙と共にそれを渡してやろう。そう矢倉は思った。
矢倉はこれまで、祖父や父を想う時、つくづく血は争えないものだと、いつも心の中で呟いてきた。果たして自分の子供も同じように感じる時が来るのだろうか?
そうなって欲しいような気もするし、そうでは無く妹の望美ように、平凡な人生を送って欲しいようにも思う。
「どちらでもいいさ。そんな事は子供自身が決める事だ」
矢倉は呟いた。
そう、どちらだって良い。
自分の道は自分で選択すれば良い。
今はそれができる平和な時代なのだから。
矢倉は清々しい思いと共に、冷たく澄んだ星空を見上げた。
――第十七章、終わり――
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