第十七章 最後の出撃

第62話 噴霧

 ベングリオンは人目を避けるように、ドック脇の部屋に矢倉達を誘導した。

 そこは補修部品の用具庫のようで、何列にも続く棚には工具類やメーター、バルブやパイプなどが整然と分類されていた。

 入口脇のスペースには、矢倉達がここに侵入する際に身に着けていた、ドライスーツやタンク類が無造作に置かれていた。


 ドック側を向いてはめ込まれたガラス窓越しに、伊404に向かって走る5人の男の姿が見えた。前後左右を守られるようにして、真ん中を走っているのは、あのディータだった。不意の破壊活動を受けたことで、急遽出撃を決めたのだろう。

 午前中に会ったカルロスは、ディータの説得に自信をもっていた。しかし今、目の前を走っていったディータは、決意に満ちた険しい表情をしている。最早カルロスをもってしても、ディータを止めることはできないだろう。


 ディータがまだ艦に辿りつかないうちから、伊404の両舷からはヒューという、やや甲高い笛のような音が上がっていた。バラストタンクに海水が流れ込み、空気を押し出している音だ。矢倉の聴力はかなり回復してきていた。

 伊404の舷側が泡立ち始める中、ディータが甲板の前部ハッチから、まるで落下するかのように艦内に体を滑り込ませていくのが見えた。


「行くな、ディータ!」

 声が聞こえた方を向くと、そこにはカルロスがいた。カルロスは車椅子から立ち上がると、ディータが乗り込んだハッチに向かい、何度も彼の名を呼んだ。

「ディータ聞こえるか? ザビアを使った途端にお前は大義を無くす。クサヴァーと共に、お前の名は悪魔の代名詞となる!」

 ディータの後に続いて、4人の男が次々とハッチの奥に消えて行った。最後の1名が中に飛び込むのと同時に、そのハッチは閉じられた。


 矢倉の背後からは、菅野の話し声が聞こえてきた。

「突入部隊はどうなっているんだ? 予定の時間を過ぎているぞ」

「わかりません。多分、地上の制圧に時間が掛かっているのだと思います」

 答えているのはベングリオンだった。

「わが軍の化学部隊から連絡は?」

「ありません、守秘回線の周波数で何度もコールしていますが、特定の周波数以外は、ジャミングが掛かっている模様です。」


「一体、どういう事だ?」

「もしかすると、突入部隊にイスラエルの参加が、許可されなかったのかもしれません?」

「馬鹿な、ザビアを保管している基地に、実戦経験の無い兵力を投入するなんて、丸腰の人間を弾幕の中に飛び込ませるようなものだぞ」

「アメリカはザビアの本当の怖さを知りません。無意味な政治判断で、イスラエルを外すことは大いに考えられる事です」

 菅野はチッと小さく舌打ちをして、次第に喫水線が上がって行く伊404に目をやった。

「突入部隊がこなければ、このまま伊404が出港してしまうぞ」

 菅野は苛立っていた。

「菅野!」

 矢倉が声を上げた。


 菅野は驚いたように振り返り、矢倉の顔をじっと見た。

「今お前が言った、わが軍の化学部隊とは何の事だ?」

「なんだ、耳は聞こえるようになったのか?」

 矢倉はその問いに答えなかった。

「あんたの正体は、何者だ?」

「正体? なぜそんな事を訊く?」

「あんたの行動には不審な点が多い。それに加えて今の会話だ。あんたはまるで、モサドの人間みたいだな」

 菅野は矢倉の言葉に、何を思ったのかニヤリと笑うだけで、それを否定する事は無かった。


 矢倉が視線を向ける菅野のその先では、伊404の甲板に、プールの波が這い上がり始めていた。矢倉が菅野に掴みかかろうとしたその時だった。施設内には爆発音が連続して響き渡り、マシンガンの音が聞こえてきた。

「何とか間に合ったようです」

 ベングリオンが言った。


 爆発音と銃声は次第に、広範囲に拡大していった。

 菅野はじっと矢倉の目を見据えていた。その手には突撃銃が握られており、銃口は真っ直ぐに矢倉に向いている。

「おとなしくしていれば撃ちはしない。お前は連れて行く。まだ使い道が有るからな」

「菅野、突入部隊って何だ? 誰が突入して来た? お前は一体誰なんだ?」

「おとなしくしろと言っただろう! ここを脱出してからならば、幾らでも話してやる」


 菅野が話している内にも、銃声の音は響き続け、しかもそれは段々と大きくなっていた。突入して来た何者かが、次第にこちらに近づいているという証だ。相手の火力が強力なのか、その音は滞るということもなく拡大し続けている。

 ドック周囲には人影は無い。恐らく施設内にいた人員は全て、侵入者からの守備に回っているに違いない。


「もうすぐ突入部隊がこちらに来ます。ドアが爆破されるはずです。耳を塞いでください」

 ベングリオンがそう言ったのと同時だった。

 不意にプツ、プツという音が、ブンカー内に響いた。

 それは天井付近に設置された拡声器が発した音だった。そして感情の無い、無機質な、女性の合成音声が大音量で施設内に流れ始めた。


『侵入者あり、侵入者あり』

『ブロックA2からA5を封鎖』

『ザビアを噴霧します。ザビアを噴霧します。関係者は避難。関係者は避難』

『15秒前……』

『10秒前……』

『5……、4……、3……、……、……、噴霧』

 それまで聞こえていた銃声が、ある一角で一瞬で消え去った。


『ブロックD7からD15を封鎖』

『ザビアを噴霧します。ザビアを噴霧します。関係者は避難。関係者は避難』

『15秒前……』

『10秒前……』

『5……、4……、3……、……、……、噴霧』

 別の一角の音が止んだ。


『ブロックK2からK4を封鎖』

『ザビアを噴霧します。ザビアを噴霧します。関係者は避難。関係者は避難』

『15秒前……』

『10秒前……』

『5……、4……、3……、……、……、噴霧』


 合成音声が響く度に、銃声は聞こえなくなっていった。それは突入してきた兵士の死を意味していた。感情を持たないその音は、その後も響き続けた。

 気付いた時には伊404の姿は既に海面下に消えおり、菅野たちは、茫然とそれを見ていた。


 ふと矢倉の目の端には、ブンカーの脇を歩く人影が目に入った。カルロスだった。車椅子を離れ、カルロスは杖も突かずに自分の足で歩いていた。

 ゆっくりとだが、確かな足取りだった。

 矢倉はわが目を疑い、何度も両方の瞼をこすった。矢倉の目に映っていたのは、91歳の老人ではなく、20歳の若年兵が、きちんと背筋を伸ばして歩を進める姿だった。


 カルロスはタラップの手摺に左手を掛けた。その先にあるのは、ブンカーでモスボールされていた海龍改だった。カルロスはアルミのラダーを登って、小さな司令塔の上にあるハッチを開き、その中に乗り込んでいった。

 矢倉にはカルロスがやろうとしていることが、はっきりと分かった。彼は海龍改で伊404に体当たりをし、ディータの行動を阻止しようとしているのだ。


 今朝カルロスと話をしたとき、彼は、ディータがどのような道に進もうとも庇ってやるのだと言っていた。今やカルロスにできる事といえば、自らの身を挺して、ディータとクサヴァーの名誉を守ってやることしかない。矢倉はブンカーを走り、海龍改に向かった。


「カルロス、やめてくれ!」

 カルロスは矢倉の声に気付き、ハッチから上半身だけを出して矢倉を見下ろした。

「雅樹か――」カルロスは初めて矢倉の名を口にした。「雅樹――、最後にお前に会えて良かったよ」

「なぜ、あなたが行かなければならないんだ。ディータは自分の正しいと思った道を進んだんだ。今更もう、どうにもならない」

「いや、まだ間に合う。私はディータの名誉を守らなければならない」

「一緒に日本に帰って家族に会いましょう。あなたはもう十分に戦った」

「雅樹、私はかつてやらなければならなかった事を、今実行するだけの話だ。ようやく私に出撃の順番が回って来たのだ。紀代美に伝えて欲しい。私の人生はそんなに悪くは無かったと……」

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