第63話 海龍改

 矢倉の背後に足音が聞こえたかと思うと、突撃銃を連射する銃声が響いた。鋭い火花がキン、キン、キンという金属音と共に海龍改の脇腹を這いながら司令塔を登り、ハッチを叩いてから、カルロスの左肩に当った。カルロスは体を艦内に滑り込ませて、ハッチを閉じた。


「お願いだ、行かないでくれ。おじいちゃん」

 矢倉の最後の声が聞こえたのだろうか、艦内からカン、カン、カンと、3つ耐圧殻を叩く音が聞こえた。

 矢倉を押しのけてベングリオンが突撃銃を構えた。矢倉はベングリオンに体当たりをし、そこで2人は揉みあいになった。


「やめておけ!」

 菅野の声が聞こえた。「もう伊404は出港してしまった。この小さな潜航艇1隻を壊してみても、最早何の足しにもならない。放っておけ」

 ベングリオンは矢倉を掴む手を緩めた。そして矢倉を後ろ手に締め上げ、先程まで潜んでいた備品倉庫に戻った。矢倉が途中で振り向いた時には、海龍改は海面から消えていた。

 花園は矢倉の両手をロープで縛り、さらに壁面のパイプにつないだ。


「撤収だ。突入部隊は恐らく全滅だろう。もうここにいてもしょうがない」

 菅野が言った。

「C液、D液は確保しなくて良いのですか?」

 ベングリオンが菅野に訊ねた。

「施設内のどこが汚染されているか分からないのに、無防備で探し回れないだろう。一旦外に出てから、体制の立て直しだ」

「脱出ルートはどうします? 私が見つけた地上へのルートは、もう汚染されてしまったかもしれません」

「ここに来た道を逆に辿れば良いだろう」

 菅野は顎をしゃくって、ドックの海面を示した。ベングリオンはなるほどと頷いた。


「お前が着てきたドライスーツはどこだ?」

「この部屋の奥に隠してあります」

「すぐに取って来て、身に付けろ」

 ベングリオンは走って部屋の奥に消えた。

「花園は、それを着ろ」

 菅野が顎をしゃくったその先には、矢倉のドライスーツがあった。


 菅野は矢倉を真っ直ぐに見下した。

「前言撤回だ。お前は連れて行けなくなった。お前を人質に取っておけば、あの立本玲子という女が妙な番組を作らないように、コントロールできたんだがな――。まあ仕方がない。悪いが、お前のドライスーツは花園が借りるよ」

 菅野はそう言うと、自分でもドライスーツを着こみ、タンクの残圧を確かめた。

矢倉の記憶では、充分とは言えないまでも、元のルートを辿って外の海面に浮上できるだけのエアーは残っていたはずだ。


「最後に種明かしをしておいてやろう。お前は私の正体が知りたいようだが、私は日本人であるが、ユダヤ人でもある。モサド局員ではないが、モサドに協力する者だ。お前には自衛隊の所属だと言ったがあれは嘘だ。お前を信用させる方便にすぎない」

「それでは何故、伊220の図面を持っていた? 零号作戦について知っていたのは何故だ?」

「簡単な事だ。図面はお前が企画書に添付していた動画と静止画から描き起こしただけだ。艦内のレイアウトはただの想像だ。潜水艦の内部などどれも同じようなものだ。外観を見れば専門の人間なら大体想像はつく。書き起こした図面を古い青刷り機で複製し、紙は薬品で劣化させた」


「外交官のライセンスはどうした? リスボンでは日本大使館でお前に会っている」

「そんなライセンスなど持ってはいない。大使館で会うのは簡単なことだ。日本企業の名で会議室を予約すればよい。大使館は現地にいる邦人をサポートするためにそこにあるのだ。連中は依頼さえすれば、現地企業のアポ取までやってくれるぞ」

「俺は、まんまと騙されたわけか……」

「お前にとっては、そう悪く無かっただろう。積年の願いを叶える事ができたのだからな」


「最後に教えてくれ、なぜモサドは、お前のような男を日本に忍ばせている?」

「第四帝国を阻止するため。こいつだけは本当だ。かつて第四帝国の建国に協力しようとした日本人がいた以上は、戦後もそいつらの周辺を監視するのは、モサドにとって当たり前の事だろう」

「戦後70年以上も監視か?」

「ユダヤ人は2000年近くも流浪をした民族だ。お前たちとは時間の尺度が違うよ」

 菅野は右の口角だけを上げて笑った。


「準備できました」

 ベングリオンの声が聞こえた。

「よし行こう。お前たちは先に潜れ」

 菅野はベングリオンと花園に指示を出し、2人が海面にエントリーするのを確かめると、腰のベルトからダイバーズナイフを取り出した。

 菅野は矢倉の口に手を当て、壁際に押付けた後、矢倉のみぞおちを膝で一撃した。意識が遠のきそうになる矢倉に向かい菅野は、「縁があったらまた会おう」と言って、矢倉の自由を奪っていたロープを切った。


「働いてくれた礼に、お前に慈悲をあたえてやる。運が良ければ、ザビアの汚染区域に当らずに地上に出られるかもしれないぞ」

 菅野は矢倉の頬を一度だけ軽くはたくと、ドックの端にゆっくりと進み、足から海面にエントリーした。


     ※


 海龍改の艦内ではカルロスが、俊敏な動きで発進の準備をしていた。

「ハッチよし、電動縦舵機よし、水平翼よし、深度計よし、方位計よし、特眼鏡よし、燃料計よし、充電一杯異常なし」

 カルロスの発する言葉は、はまるで普段から使い慣れた言葉のように、一切の淀みがなかった。その言葉を発すると同時に、艦の操縦者は最早カルロスではなく、矢倉邦仁に変わっていた。

 若い頃に体に刻んだ記憶が、長い時間を飛び越えて、邦仁の体と五感に呼び戻された。そして体には、若かりし頃の力がたぎった。

 

「鳴海艦長、ただいま参ります」

 邦人は左右の操縦桿をきつく握って意を決すると、かつて一回しか口にしていないあの言葉を、もう一度だけ発した。

「海龍改発進します!」


 潜航した海龍改は、海底のトンネルの位置を捉え、そこで一旦まっすぐに艦向きを整えると、スクリューを全速で回して直進していった。

 邦仁が何も考える間もなく、体は勝手に動いた。

 邦彦にとってそれはたやすいことだった。複雑な操船をする必要は何も無い。ただ真っ直ぐに艦を維持するだけで良かった。


 先にトンネルを出ていた伊404は、トロッコを離れて後進全速で後ろ向きに進み、海底が深く沈み込む辺りで回頭を始めた。それはいつもの決まり切った動作だった。

 丁度、伊404が90度回頭した時だった。艦の側面から突進してくる物体を聴音手が捉えた。


 邦仁の心には、死の恐怖は無かった。

 過去に何度も覚悟をした死――。

 いつも肩すかしを食っていた死が、そこにあるだけだった。


 邦仁の記憶は過去に遡っていた。

 ディータの後見人として過ごしてきた日々、そしてテレンダールの街並。

 30年ぶりに会ったクサヴァーと、彼の連れている幼いディータ。

 オンダアルタでの思い出。

 自分を救ってくれた修道士。

 大恩ある鳴海艦長、そして伊220の搭乗員たち。

 そして、紀代美。

 思えば、一度も好きだと口に出した事がなかったな。


 紀代美、もう一度お前に会って……

 そこで邦仁の意識は途切れた。

 

 同時に海上には大きな水柱が立ち上った。


     ※


 テレダール沖の海中には、伊404の断末魔のように、爆発の衝撃波が伝わっていった。そしてそれはブンカーのトンネルにも侵入していった。

 トンネルの出口付近まで来ていたベングリオンと花園の体は、その衝撃波に押し戻され、揉まれるようにしてブンカーに戻って行った。

 遅れてトンネルに入った菅野にも、その衝撃は伝わった。


 ブンカーのドックからは海水が噴き上がり、床面を水が這った。うつ伏せに倒れたままの矢倉は、思い切り海水を飲み込んで、むせ返った。

 ようやく矢倉が立ち上がり、ドックに出てみると、そこには3人の男の体が浮かんでいた。仰向けに浮かんでいるのはベングリオンと花園だ。目、鼻、耳から血を流している。よほど強い水圧を受けたのだろう。


 まだ息はあるようだったが、もう助かるまいと矢倉は思った。うつ伏せの男は菅野だろう。先程矢倉に慈悲を与えると言ったばかりの男が、自らは慈悲を受けることも無く、憐れに海面に浮かんでいた。

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