第64話 零号作戦

 半ば茫然としている矢倉の目の前で、水面に黒い影が浮かび上がった。

 ドライスーツを身に着けたダイバーだった。


「マサキ、生きていましたか」

 ダイビングマスクを外し、声を掛けてきたのはルイスだった。

「ルイス、なぜこんなところに?」

「フェリペに呼ばれたんですよ。マサキの行方が分からなくなったので、すぐに手伝いに来いって。師匠の言う事には逆らえないですからね、仕事をキャンセルしてこっちに来ました」


「よく衝撃波に巻き込まれなかったな」

「巻き込まれましたが、もう海面近くで減圧停止の最中だったから、体を持ち上げられた程度で済みましたよ」

「それは幸いだったな。ところで、ここがどんなところか知っているか?」

「知るわけがないでしょう、フェリペに行けと言われたから来ただけですよ」


「ここは危険な場所だ。地上へのルートは毒ガスに汚染されているので、海底から出るしかない。君のタンクは、エアーに余裕はあるか?」

「有るにはあるますが、2人分までは無いです」

 そう言った途端だった。ルイスは矢倉の更に後方に視線を合わせて目を見開いた。何事かと思って矢倉が振り返ると、そこにはダイバーズナイフを振りかざした菅野が立っていた。菅野の目は殺気に満ちていた。


 菅野が一直線にナイフを振り下ろそうとした瞬間だった。ダダッという軽機関銃の音が聞こえ、菅野は後方に弾け飛んだ。

 傍らには軽機関銃を握ったフェリペがいた。

「フェリペ、あんたまで何故?」

「何故って、心配で探しに来たんだよ。マサキが潜ってすぐに、潜水艦が同じ穴に入って行ったからな。ただ事じゃないと思ったよ。俺は足が不自由だろう。一人だと心細いので、ルイスを呼んだ」


「ありがたいけれど、体は大丈夫なのか?」

「海の中は平気だ。無重力みたいなもんだからな。減圧症のリハビリの時だって、ずっとプールで泳いでいたんだ」

「とにかく、ここを出よう。2人のエアーを少しずつ分けてくれ」

 矢倉は濡れた床に横たわる菅野の首筋に触った。もう脈は無かった。

「悪いな、菅野、ダイビングマスクを借りるぞ」

 そう言って矢倉は、菅野の顔からそれを引きはがした。


 矢倉は海面に飛び込むと、ルイスのオクトパスを咥え、海中のトンネルに向かって潜って行った。



――2018年8月17日、ホワイトハウス――


「大統領、良くない報告です」

 ブレイクは、大統領執務室に入ると同時にそう言った。

「ストライク・ゴースト作戦で、テレンダールを急襲したNATO軍とアメリカ軍ですが、地下のブンカーに突入した部隊が全滅した模様です。死者は200名を上回ると思われます」


「何が起きたんだ?」

「部隊の突入後、ブンカー内の防衛機能が働いて、区画ごとに防火壁で封鎖されて、中にザビアを噴霧された模様です」

「模様とは何だ。正確に把握できないのか?」

「最前線にいた兵に帰還者がいませんので、知りようがないのです。ザビアを噴霧すると言う館内放送が流れた直後から、封鎖された先にいた兵士からの連絡が途絶している状態です。危険すぎて安否確認にも行けません」


「何という事だ……」

「その後、地上にいる兵士でテレンダールは封鎖したままです。住民への説明は、不発弾がナチスの化学兵器であることが判明し、危険で立ち入れないという事になっています」

「それで押し通せ。テレンダールは永久に封鎖するしかない」


「大統領、イスラエル政府から正式に、本件に関する要望が来ています」

「内容は?」

「モサド局員の遺体回収のため、化学部隊を地下施設に入れたいとの事です」

「いつもながら、やつらの姿勢は徹底しているな。たかが諜報員の遺体回収のために、何人もの兵士が命を懸けるのか――」

「どう返事をしましょうか?」

「認めてやれ。ただし許すのは遺体の回収のみだ。施設内に保管されているザビアには手を出すなと言っておけ。それと本件はNATOからの要請で、イスラエルの専門家が毒ガスの調査に来たというシナリオだ。忘れるなよ」

「分かりました大統領。最後に朗報もあります」


「何だ? 早く言え!」

 カワードは苛立たしげに言った。

「我々を悩ませていた伊400型ですが、どうやら沈没した模様です」

「何だと、どういう事だ?」

「テレンダールの沖、トロムソ近海で、海中で爆発が起こり、水柱が立ったところを何人もの漁師が目撃しています。詳細は目下調査中ですが、沈没した艦の巨大さや、外形からして、まず間違いなく伊400型と思われます」

「馬鹿者、そっちの報告を先にしろ。伊400型の始末さえつけば、テレンダールの問題など些細な話だ」

 カワードの言葉は本心だった。

 そしてカワードは、椅子の背に深く体を預けると、この数か月、誰にも見せたことの無い、ほっとした表情を浮かべた。



――2018年8月25日、東京――


 矢倉と玲子は、東京タワーがすぐ近くに見える都心のビルで、一人の男が現れるのをじっと待っていた。

「来た」

 矢倉は玄関ホールに立つ男に駆け寄っていった。玲子も後に続いた。

「結城さん、お久しぶりです」

 矢倉は男に声を掛けた。男は水睦社の社主だと紹介を受けた、あの結城政光だった。


「これは矢倉さん。よくここが分かりましたね」

 結城は一瞬、ぎょっとした表情を見せたが、すぐにそれを取り繕うように笑顔を作った。

「彼女が、ちょっとしたヒントを頼りに、細い糸をたぐってくれたのです」

 矢倉は玲子に視線を送った。

「初めまして、立本玲子と申します」

 玲子が結城に声を掛けた。

「あなたは良くTVでお見かけするあの立本さん。私はあなたのファンですよ。ポルトガル沖では、あなたが調査団長でしたね」

「結城さん、少しお話がしたいのです。お時間をいただけませんか?」

 矢倉が訊いた。

「構いませんが、それでは私のオフィスに参りますか?」

「いえ、この周辺のカフェで構いません」

「なるほど――、用心深くていらっしゃる」

 結城は笑顔を見せた。嫌みのない素直な笑顔だった。


 矢倉たちは、最寄のカフェに席を取った。

「まずは結城さん、菅野さんと花園さんが亡くなった事はご存知ですか?」

 矢倉が先に口を開いた。

「報告は受けています」

「彼らの安否は、私しか知らないはずです。ご存知という事は、ノルウェーのUボートブンカーに、誰かが侵入して遺体を確認したという事ですね?」

「まるで誘導尋問みたいですな。しかし、その通りです」

「初めに申し上げておきますが、私は国際政治にも国際経済にも興味は無い。ただ、一つだけ知りたい事が有る。それさえ分かれば、他は詮索するつもりは無い」


「何をお知りになりたいのですか?」

「零号作戦は本当に存在したのか、という一点です」

「理由を聞いてもよろしいですか?」

「私たちは伊220の調査活動を、ドキュメンタリー番組として放映します。今は映像の編集作業の最中です。

 私はそこで、可能な限り事実を明らかにするつもりなのですが、一方では事実であっても、公開すべきでないものもあると思っています。全てを公開する事は、逆に事の本質を損なうように思うからです。

 何を公開し、何を秘匿すべきかを判断するために、零号作戦の存在の有無は、必ず知らなければならないと思っています」


「あなたが伝えたい事の本質とは、何なのですか?」

「国の事を思い、国に命を捧げた者たちの心情です。伊220に乗り込んだ搭乗員には皆、家族がいて、妻や子供や守るべきもののために、誰にも知られることなく、国を出たのです。


 彼らの気持ちを斟酌し、弔うためには、当時の状況をなるべく細かく正確に描写する必要があるでしょう。しかしそれとは対極に、彼らが運んだ荷が、毒ガスであったことは秘匿すべきことだと思います。


 毒ガスはあまりにもセンセーショナル過ぎます。搭乗員たちの無念とか、悲しみとか、使命感という、本当に大事なものを一気に消し飛ばしてしまい兼ねない。

 我々は一体どこまで語って良いのか、それを判断するための大事な指針が、零号作戦の存在です」


 矢倉の決意を秘めた眼差しが、まっすぐに結城に向かっていた。

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