第55話 C液散布

「C液だけの散布とはどういう意味なのですか?」

 矢倉は、ディータとカルロスの話に割り込んだ。

「ザビアの生成は、AB混合液に、C液を添加して反応を引き起されることは知っているか?」

 ディータが矢倉の問いに反応した。


「知っています」

「かつてはA液もB液も、世界のどこにもなく、全てを合成しなければならなかった。しかし今ではA液もB液も、世界中のあらゆるところにある。

 A液は有機リン系の液体で、組成は農薬とほぼ同じだ。B液はアンモニアとカリウムを主体としたもので、その成分は化学肥料が全て含んでいる。私の言いたいことは分かるか?」


「つまり、化学肥料を撒いて、農薬を散布した畑は、AB混合液と似たようなものという事でしょうか?」

「その通りだ。その畑にC液を足せば、本来より純度は劣るものの、それでもサリンやソマンよりも遥かに毒性の高いザビアが合成される。大量に撒く必要は無い。僅かな量を落とせば、連鎖反応で勝手に広がって行く」


「被害はどうなりますか?」

「誰にも分からない。もちろん私も知らない。しかし農園の一角で収束するような生易しい被害ではないだろう。下手をすると、アメリカ全土を汚染するかもしれない」

「そんなに広く……」


「皮肉なものだとは思わないか? 農薬も化学肥料も第二次大戦の副産物だ。農薬は毒ガスを希釈したもので、化学肥料は余剰の火薬を転用したもの。

 人を殺す目的で作ったもので、今や沢山の人を養っているのだからな。そして今や世界中の農地は、ザビアの原料で溢れている。まったく罪深いものだよ、人間という生き物は」

 ディータは笑ったが、その目はどこか寂しそうにも見えた。


「アメリカ軍は、そうやすやすとミサイルは撃たせてくれないでしょう。何しろ世界最高のミサイル防衛網を持っている国だ。あなた方が返り討ちにあう可能性もある」

 その程度の事を言っても、ディータが考えを変えるとは思えなかったが、矢倉は何かを言わないではいられなかった。


「今、私はアメリカ軍とゲームをやっている」

 ディータは唐突に言った。

「ゲーム? それは一体?」

 矢倉は驚いて訊きかえした。


「まずはワシントンDC東方の海域で、アメリカ軍の軍事衛星の監視の下、伊404を浮上させる。次にV2を格納庫から引き出して発射準備を行う。ボタンを押せばすぐに発射できる体勢をとった後、今度は逆の手順で、V2を再び格納庫に納めて急速潜航。

 一連の動作を、スクランブルしたアメリカ軍の戦闘機が飛来する、ぎりぎりの時間と距離でやり切って見せる。それが今やっているゲームだ」


「何故そんな事を?」

「我々の存在を示すためのデモンストレーションと言ったところだ。乗組員たちも、命掛けのゲームにはやり甲斐があるのだろう。

 日に日に錬度が上がってきている。始めは15分以上かかっていた一連の動作が、今では10分を切るまでになった。乗組員の錬度が上がるにつれ、浮上する海域もワシントンDCに近づいている。先日はワシントンDCから220海里の距離に浮上して見せた」


「デモンストレーションに、何の意味があるのですか?」

「意味は大有りだよ。アメリカ軍は空母、イージス艦、駆逐艦を東海岸に集め、今や160海里圏で防衛体制を固め始めた。理由は簡単だ。ナチスオリジナルのV2は航続距離が170海里しかないため、奴らは我々が、少なくとも170海里の内側まで食い込んでくると見ているのだ。しかし現在のV2は材質の刷新によって、340海里を射程に収める事ができる」


「つまりデモンストレーションを繰り返す事で、アメリカ軍に170海里を意識させ、実際の攻撃はその遥か外側の340海里から行うという事なのですね。しかしそれもどうかと思います。例えV2の発射は相手の裏を掻いて行えたとしても、飛来したV2は沿岸部の地対空ミサイル・パトリオットで迎撃されてしまいますよ」


「ワシントンDCにV2を撃ち込もうとしたらそうだろうな」

「標的はそこでは無いのですか?」

「ザビアが最も広範囲に被害を与えるのは、農薬と化学肥料を大量に撒き散らした場所、つまりアメリカ南部の農業地帯だ。やつらは南部を防衛していたパトリオットを、東海岸に集中させている。最早V2は撃ち落とせない」

「対潜能力のある艦艇が出払ってしまったメキシコ湾に侵入し、ミサイル防衛網が解かれた南部に攻撃を加える。あなたは最初からそれを狙っていたんですか?」

 ディータは何も言わず、余裕のある仕草で頷いた。


「頼む、考え直してくれディータ」

 カルロスが必死に訴えた。

「カルロス、私の結論は変わらない。話はここまでだ」

 ディータが指笛を鳴らすと、室外に待機していた男達が部屋に現れ、カルロスの車椅子に手を掛けた。


「後悔するぞ、ディータ」

 カルロスはそう声を上げながら、車椅子を押されて部屋を出ていった。矢倉もその後に続いた。



――年8月15日、9時00分、九段下――


 玲子は地下鉄半蔵門線を、九段下駅で降りた。水睦社の社主、結城を訪問するためだ。居留守を使われる事を避けるため、事前のアポイントは取っていない。

 もしも結城が不在ならば、「帰社するまで待たせてもらう」と言うつもりだった。


 終戦記念日に当る8月15日の九段下駅は、靖国神社に向かう参拝客のために、改札を出る前から大変な込み具合で、階段を上がって地上に出ると、そこは更に大勢の人々が歩道を埋め尽くしていた。

 玲子は参拝客に混じり、大通りの靖国通りに沿って、緩い上り坂の歩道を、小さい歩幅でじりじりと進んで行った。


 5分ほど歩いたところで、玲子は厳重な機動隊の警備を縫うようにして、靖国神社の境内前の道を右に折れた。その周辺は、教会や学校、企業の社員寮が目立ち、その隙間を縫うように低層のマンションが建っている場所だった。

 商業施設などは皆無で、道一つを隔てただけで、周囲は一転して、大通りの雑踏とは無縁の静けさになった。

 ようやく自分の歩幅で歩く事ができるようになると、玲子はポケットから、水睦社の住所を記したメモを取り出した。


 その住所にはすぐに行きつくことができた。しかし玲子は、その場に立ちすくむしかなかった。

 目的の場所が、防音シートで囲まれたビルの解体現場だったからだ。


 事情が把握できぬまま、隣のビルに確認しにいくと、そこの管理人が言うには、そのビルは何年も前から空きビルで、老朽化していながら、債権者の権利が入り乱れて手つかずになっていた場所らしい。

 先月になって債権者同士の折り合いがついたらしく、ようやく取り壊し工事に入ったとの事だった。水睦社という会社名を知っているかと訊ねたところ、知らないという返事だった。


 踵を返して歩き出そうとした瞬間、玲子の背後で「そう言えば」という管理人の声が聞こえてきた。振り返ると、管理人は玲子に向かって思い掛けない話をした。

「解体が始まるずっと前、もう半年ほど前の事になるんだけれど、映画のロケと言う事で、貸し出されていた時期があったよ。薄汚れたビルのくせに、表札だけがピカピカの新品になったもんで、随分と嘘っぽいなと思っていたんだ」

 管理人はそう話した後で、「確かあの表札は――、水なんとか社と書かれていたような気がするな」と思い出したように言った。


――まずい!―― 

 玲子の脳裏に不吉な予感が走った。玲子は慌ててバッグからスマートフォンを取り出した。先週矢倉に連絡を取った際、矢倉は菅野とノルウェーの調査に行くのだと言っていた。

 水睦社は信用できない。急ぎ矢倉に今の状況を伝え、菅野に気を付けろと注意を促さなければならない。


 時計を見ると10時を回ったところ。時差を考えるとノルウェーは未明の3時くらいだろう。起きている時間ではないが、少なくとも留守番電話だけでも入れておかなければならない。

 玲子は矢倉の電話番号をコールした。しかし、長いタイムラグの後に聞こえてきたのは、玲子が期待していた国際電話のツー――、ツー――という甲高い呼び出し音ではなく、無機質な女性の声で『電波が通じない』という旨の英語のメッセージだった。


――水睦社とは、一体何者なのだ?―― 

 改めて玲子は思った。


 その瞬間だった。

 玲子には不意に、ベッティーナ号で菅野とリスボン港に戻ったときに感じた、あの妙な違和感が蘇ってきた。

 あの時、菅野は日本大使館の車を迎えに来させていると言っていた。港に来ていた車は確か黒塗りで、見るからに公用車のようだった。玲子はそこで違和感を覚えたのだ――

 その理由は――、そうだ――、それをおかしいと感じたのは、運転手も警護官も明らかに日本人ではなかったからだ。

 そして彼らは、現地採用のポルトガル人にも見えなかった。明らかに顔つきが違っていた。


 三角形の鼻に、大きな耳――、敢えて言うならば、そう――、あれは典型的なユダヤ系の顔と言うやつだった。

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