第54話 出撃準備

 矢倉はゆっくりと、男の視線の先にあるソファに歩み寄った。


「彼には、ネオ・トゥーレの概要だけは話したよ」

 カルロスがそう言ったのは、矢倉がソファに腰かけるのと同時だった。

「……」

 男は何も喋らなかった。

「彼は訳あってこの施設に迷い込んだが、実を言うと、私の縁故の人物だ。我々に敵対する者で無いことは私が保証する。必要であれば彼と私の関係を話しても良い」

「必要ない」

 それがその男、ディータが初めて発した言葉だった。


「君から彼に、ネオ・トゥーレの話をしてやって欲しい」

「聞きたければ話してやるが、聞けばここから出られなくなる。それでも良いのか?」

 ディータの言葉は、まるで感情を失くしたように平坦だった。

「彼は海底からここに入って来た。もう伊404も見ているし、ザビアの事も知っている。どちらにしてもここからはられないんだ。彼が気の済むようにしてやりたい」


「何が訊きたい?」

 矢倉に向かってディータは言った。

「まずはあなた達の思想について――、私はあなた方かここで伊404を維持し、資金を増やし続ける理由が、見当もつきません。ザビアをどう扱うつもりなのかも」

「そうだろうな――」


 ディータは一拍おいて、自分の考えを話し始めた。

「まず初めに伝えておこう。ネオ・トゥーレとは国家である。ただし、我々は国土を持っていないし、持とうとも思わない。

 我々には潜在的な敵は存在しない。もちろんユダヤ人とも敵対しない。世界中のどの国も、我々の敵国ではない。しかしまた友好国もない」


 何故国家なのかと訊かれれば、逆に国家とは何かと訊こう。国家には自国民を幸福に導く義務がある。しかしそのような国家は存在するか?

 国民の幸福を第一義に掲げ、命を投げ打つ国家元首が世界のどこにいる?

 国民の幸福を実現せず、他国や、他民族や、他の宗教との対立に血道を上げる集合体。――それを国家と呼べるのか?

 国土がなくて国家なのかと訊かれれば、逆に国土とは何なのかと訊こう。国土が無いと、国民を幸福にできないのか?


 この世は、持つ事とコストは不可分だ。持つにはコストが掛かるし、維持にもコストが掛かる。国土を維持するのは誰だ? 

 国家元首が自分の財布で維持するのか?

 もしも国民にコストを負担させるのならば、国家元首は本当に国土が必要か考えるべきだ。国民にとって国土が過負担ならば、手放さなければならないし、そもそも手に入れてはならないのだ。


 戦争とは何だと思う?

 戦争を始める理由は色々あるだろう。しかし戦争に勝つという事は、常に相手の国土を手に入れる事を意味している。勝った瞬間は、相手の資産を手中にし、自国は栄えかもしれない。

 しかしそれはほんの一時の宴だ。すぐに相手の国土も国民も、自国に付け代わる。広くなった国土と、増えた国民を、健全に運営する義務を、戦勝国は負えるのか?

 もしも負えないならば、国土は広げてはならないし、その発端である戦争を起こしてはいけないのだ。


 国土を持たないネオ・トゥーレはどうだと思う?

 我々はどの国からも侵略を受ける事はない。受けるべき国土が無いからだ。では侵略をするかと言えば、それは有り得ない。国土に興味が無いからだ。


 それならば、なぜ伊404を維持しているのかと君は訊くだろう。

 あれは国土を守るためのものでも、他国を攻めるためのものでもない。自国の権利を守るための抑止力だ。

 国力というものは、煎じ詰めれば経済力と軍事力の掛け合わせだ。軍事力がゼロであれば、幾ら経済力を強めても結局はゼロでしかない。

 繰り返し言うが、我々が持つ軍事力は抑止力であって、決して我々から行使するものではない。しかし、もしも何れかの国が我々に牙をむき、ネオ・トゥーレの国益を損ねようとするならば、私は躊躇なくその力を使うだろう」


「お聞きしたい事があります」

 矢倉は言った。「私がこの地下にある施設に侵入した際、外から潜水艦が入ってきました。あれこそが伊404なのだとすれば、伊404はモスボールされて時を待っているのではなく、既に運用されているのだと解釈できます」

「いかにも、伊404は昨年末にモスボールを解いた」


「どこかの国が、ネオ・トゥーレの権益を侵しているのですか?」

「君はIMFが先日発表した、管理金準備制度を知っているだろう。別名新金本位制と言われるスキームだ」

「もちろん、知っています」

「我々はそれを阻止するために、伊404を稼働させたのだ」

「何故ですか? 管理金準備制度は忌避すべきものではないはずです。行き過ぎた金融資本主義を是正する、むしろ歓迎すべきものでもあるはずです」


「金融資本主義をオーバーシュートさせたのは、他ならぬアメリカだ。その張本人が是正すると言っているのだ。裏が無いわけがないだろう」

「裏と言うと?」

「世界の金融資産は膨らみ続けている。最早額面などは無価値に等しい。最終的に富を決定づけるのは、世界の資産総額に占めるシェアなのだ。更に言えばそのシェアを構成するポートフォリオは揺るぎないものでなければならない。

 債権ではなく現金、現金よりも金地金という事だ。管理金準備制度を導入すれば、世界の金融資産は一気に吹っ飛ぶ。最後に信用できるのは金地金の重量という事だ」


「金の重量――、ですか?」

「世界中の金の量を君は知っているか? 50mプール3つ分だ。まだ地下に埋蔵されている量がプール1つ分。それを合わせてもプール4つ分しかないという事になる。総重量は限られているのだ」

「そんなに少ないとは、知りませんでした」


「アメリカにとって管理金準備制度のメリットは2つある。1つ目は利益の確定だ。膨らみ過ぎた金融資産は、張本人であるアメリカにも、最早手が付けられない規模になっている。いつかはクラッシュするチキンレースと言っても良い。

 であるならば、どうなるか分からない未来に怯えるよりも、早めにクラッシュさせて利益を確定した方が良い。

 経済に置いて最も大事なのはシェアだ。額面が幾ら減ろうが問題ない。皆が気付く前に債権を金地金に変えて、そこでクラッシュさせれば、今よりも更にアメリカの金融におけるシェアは、拡大するという訳だ」


「まさか、既に廃れたと思っていた金本位制度に、そんな力があるとは思いませんでした」

「経済も金融も絶対的なものではなく、所詮は誰かが作ったルールでしかない。ルールなら変えることはできる。そして変えた瞬間に世界は変わるということだ」


「2つ目のメリットは何ですか?」

「IMF債に関する各国からの拠出金の確保だ。資金の拠出は金地金で行われ、しかもそれはアメリカ国内に保管される。体の良い人質という訳だ。

 現在でもアメリカは、各国から預かっている金を自国に保有したまま、返還要求があっても突っぱねている。有り得ないと思うだろうが事実だ。アメリカはIMF債の拠出金を、一旦集めたら二度と返すことはないだろう」


「それはネオ・トゥーレにとっては、不利益なことなのですね?」

「当然そうだ。我々のシェアを侵すものでしかない」

「伊404を使ってそれを阻止できるのですか?」

「なぜ各国がアメリカに金を預けると思う? アメリカが世界最大の軍事力で守られているからだ。決して攻撃されないと言う空約束の元に、皆がアメリカに金を持ち寄るのだ。

 では、アメリカが攻撃を受ける国だと分かればどうなる? アメリカの空約束が吹っ飛ぶわけだ」


「ではあなたたちは、伊404でアメリカを攻撃すると?」

「既に昨年のクリスマスに、警告の目的でワシントンDCの郊外にV2ミサイルの空包を射ち込んだ。案の定、その日に予定していたIMFの会見は棚上げになったよ」

「あの時のドタバタは、それが原因だったのですね。しかしIMFは結局、管理金準備制度を発表しましたね」

「そうだ、我々の警告を無視し、アメリカの企みは実行に移された」


「どうするのですか?」

「先程言ったはずだ。ネオ・トゥーレの国益を損ねる者には、躊躇なく軍事力を使うと」

「次は実包を使うのですね。しかもザビアの――」

「やめろディータ、ザビアだけは使ってはならない」

 カルロスが声を上げた。


「相手が本気なのだ。こちらも本気でいく」

「頼む、やめてくれディータ」

「カルロス、いくらあなたの言葉でも聞くことはできない。ここは私の思う通りにさせてもらう」

「ザビアを使えば、お前は大義を無くすぞ。それはお前の……」

 カルロスが全ての言葉を言い終わらぬうちに、ドアがノックされ男が部屋に入って来た。


「化学弾頭はストックのあるAB混合液のタイプでよろしいですか?」

 男が訊いた。

「いや、全弾頭ともC液だけを充填しろ」

「これから充填を始めると、たっぷり1日以上かかります」

「構わない。出来るだけ急いでやってくれ。但しミスの無いようにな。広範囲に散布できるように、V2は高度1000mでクラスターを放出するようにセット。出撃は2日後の朝だ。搭乗員にはそれまでゆっくり休養をとるよう伝えてくれ」

「了解しました」

 男は要件を終えると、すぐに部屋を辞した。


「カルロス、今聞いた通り、我々はザビアを使うのではなく、毒性の無いC液を散布するだけだ。これは毒ガス攻撃ではない」

「詭弁だ、ディータ。結果は同じだ」

 カルロスは声を荒げた。

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