第59話 人道兵器

――2018年8月15日、11時30分、ホワイトハウス――


「大統領、ブラウン国家情報長官と、グラハムCIA長官が面会を希望しています」

 それは、ブレイク首席補佐官からの内線電話だった。

「用件は何だ?」

「緊急事態との事で、会ってから話すそうです。もうウェィティングルームにいます」

「よかろう、通せ。君も来い」


 ブレイクに先導されて、ブラウン、グラハムの2名が執務室に入ってきた。

「何があった?」

「大統領、伊400型の基地が判明しました」

 ブラウンが答えた。

「何だと! どうやって突き止めた?」

「モサドの諜報員が、基地への潜入に成功したのです」

「何故モサドが? やつらと潜水艦は無関係だろう」

「ネオ・トゥーレを追って、相手の本拠地と思われる施設に潜入したところ、あの潜水艦と遭遇したのだそうです。潜水艦の特徴から判断し、伊400型に間違いありません。

 基地の場所はノルウェー北部のトロムソ。北極圏に位置しています。ナチスが整備し、戦後未発見であった地下のUボートブンカーを、そのまま運用している模様です」


「ザビアの開発拠点もノルウェーだったはずだな」

「はい、その通りです。ザビアはそこからUボートブンカーに運び込まれ、終戦後もずっと隠匿され続けていた可能性があります。モサドは状況証拠を総合し、ネオ・トゥーレと第四帝国はイコールであるとの見解を示しています」

「その見解に、まず間違いはないだろう。ところで伊400型の状況は?」

「現在ブンカー内に繋留中で、出撃準備を行っている模様です」


「そいつが出撃する前に叩く必要があるな。対応策は?」

「海軍と海兵隊が既に検討に入っており、24時間以内に作戦計画を提出します。実はブンカーの直上にテレンダールという街があります。要塞都市のようなものではなく、ネオ・トゥーレとは無関係の通常の街です。民間人を巻き込まないようにするための方策を練る事が、目下最大の課題です」

「人間の盾というわけか。悪知恵の働く連中だ」


「大統領、本件では問題が他にもあります。我が軍が他国の領土内で軍事作戦を展開するためには、政治的な根回しも必要となります。そちらの方も準備をよろしくお願いします」

「分かった、まずは作戦計画を急いでくれ。出来次第、国家安全保障会議を招集し、そこで全てを検討および承認する」

「分かりました」

 3人は急ぎ足で大統領執務室を後にした。



――2018年8月15日、15時30分、リスボン――


 リスボンにある国立水中考古学研究所では、伊220の金庫から取り出された書類の保存処理が進んでいた。


 工程としては、まずは全ての書類が綴じ代を外され、1枚ずつアルコールの満たされた角盆に入れられる。そして複数の薬品を使って、紙の繊維に絡みついたシミが取り除かれた後、湿度をコントロールされた部屋に移される。そこで紙の繊維を劣化させないように、ゆっくりと乾燥させるのだ。


 既に1冊目と2冊目の書類は洗浄工程に回されており、ルイスの視線の先では3冊目の『Flüssig C』が、まさにページが分離されつつあった。

 ルイスにはそこに書かれているものの内容は全く理解が出来なかったが、化学記号らしいアルファベットと、数字の羅列に続き、分子構造図が書かれ、その後に文章が書かれていた。


 ページが進むごとにその化学式は長くなっていき、分子構造図は立体的で複雑になっていった。更に後半になると、それまで水素を表すHの記号が、急に見たことの無いDという記号に変わった。

 気になったので、初歩的な化学の本を読んで見ると、そのDとは重水素を示す事が分かった。通常の水素は原子核が陽子1個だけなのに対し、重水素は、原子核に1個の陽子と1個の中性子で構成されるらしい。


 HとDを入れ替える事は置換と言い、同じ分子でも性質が違う場合があるらしかった。その例として、H2OとD2Oはどちらも同じく水であるが、D2Oは重水と呼ばれると書かれていた。不思議な事に重水の中では、魚は生存することが出来ず、植物も発芽をしないのだそうだ。


 ルイスは複雑な構造の中のHとDを、一体どうやって置換するのだろうかと不思議に思った。顕微鏡で覗いて、ピンセットで入れ替えるような作業を想像し、それは無いだろうなと苦笑した。


「化学と言うのは随分と奥が深い物なのだな」

 ルイスは心の中で呟いた。



――2018年8月16日、テレンダール――


 カルロスが倒れた日のその翌日のことだった。カルロスの看護をした2人の男達が、矢倉の監禁部屋のドアを開けた。

「カルロスが会いたがっている」と男達は言った。


 カルロスの寝室に通された矢倉は、「体は大丈夫ですか」と声を掛けた。

「心配するな。歳を取ると人間だれでもガタがくるものだ」

 カルロスはベッドに横たわりながら笑顔を見せた。カルロスは昨日までの陰りのある顔と異なり、どことなく爽やかな表情に思えた。

「今日はどうして私を?」

 矢倉が訊くと、「昨日、話せなかったことがあってな」とカルロスは答えた。


「何をお話になりたいのですか?」

「ディータが戦っている理由についてだ。独善的なアメリカに対抗し金融のシェアを守ると言うのは、ただ一つの側面でしかない。彼はもう一つ、大きな理由を抱えている」


「もう一つというと?」

「姿なき第四帝国への復讐だ。ディータは父親の志や未来を奪い、且つ自らを戦いの渦中に投げ入れた第四帝国を憎んでいる。

 既に存在しない第四帝国への復讐は、自らがそれにとって代わり、ナチスの唯一の継承者となることでのみ成就される。そのためにディータは、蓄えた力を削がれるわけにはいかないのだ。

 大義と私怨、その2つが緊密に結びついた存在が、現在のネオ・トゥーレだと言って良い」


「大義を盾にして、父親と自分の無念を晴らすだけではないですか?」

 カルロスは矢倉の問いに何も答えなかった。しかし否定もしなかった。それがカルロスの答えだと矢倉は思った。

「あなたは、ディータの事をどう思っているのですか?」

 矢倉は更に訊いた。

「クサヴァーと私は盟友だ。私はディータを息子のように思っている。ディータがどのような道に進もうとも、私は彼を庇うだろう」

「それでは、あなたにとってザビアとは?」

「さしずめパンドラの箱だな。私はザビアを持つこと自体は反対しない。自分が守るべきものを守る。当たり前の事をするには力が必要だ。国にとって力といえば何だ? それは軍事力に他ならない」


「ディータは国力とは、経済力と軍事力の掛け合わせと言いましたね。豊かさの源泉として経済力を求め、それを守るためにザビアを持つという事ですか? 

 私にはどうしても違和感が拭えません。ネオ・トゥーレが経済力を極める事を国是とするのは分かりました。しかしそれと対になるべき軍事力が、毒ガスだという事にどうしても馴染めないのです」


「毒ガスとは何だろうな? なぜ毒ガスは、世界中で嫌われるのだ?」

「非人道的な兵器――、だからでしょう」

「兵器に人道的も、非人道的もあるのか? 核兵器と毒ガスの違いは何だ? 銃弾で殺された方が、毒ガスで殺されるよりも人道的なのか?」

「そこまで突き詰めて考えた事はありませんでした……」


「苦しむ間もなく死が訪れる――。クサヴァーに言わせれば、ザビアはどんな兵器よりも人道的なのだそうだ。私はザビアが人道的か、非人道的かなどと議論するつもりはない。

 私がディータを思い止まらせようとしているのは、ザビアの威力があまりにも強大過ぎるからだ。もしも使えばディータは、永遠に悪の権化と決定づけられるだろう」


「それは同時に、ザビアが非人道的な毒ガス兵器と決定づけられる瞬間でもありますね。それこそあなたの盟友のクサヴァーが最も望まなかった事だ」

「昨夜、少しだけディータと話をした。彼は自分なりにもう一度考えてみると言ったよ。明日2人で、最後の話し合いをする事になっている」


「そこでもし説得できなければ、明後日にはディータが出撃してしまうことになりますね」

「要は世界中に、アメリカが強力な兵器で狙われている国であると、見せつければ良いだけだ。それでディータの目的は果たせるはずだ」

「確かにその通りです」


「例えば、アメリカの主要都市のどこかに向けてもう一度空包のV2を撃ったらどうだ? 多数の目撃者がいて事実の隠蔽はできなくなる。

 着弾で多少の被害者は出るかもしれないが、最小限で済むだろう。同時にIMFの理事国の全てに、合成済みのザビアを送りつけ、その効果を試させる。それで十分じゃないか」

「ディータはそれで納得しますか?」

「私は大丈夫だと確信している。ディータという男の本質は善だ。罪の無い民間人を巻き込みたいとは思ってはいないはずだ」


 カルロスは伝えるべき事を全て矢倉に話したとでもいうように、安堵した表情を見せた。

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