第40話 パンドラの箱

 矢倉はプロジェクトの中で、最も重要な潜水調査についても、プランを練らなければならなかった。そのために矢倉は、水睦社から伊220の青焼をコピーしてもらい、それと首っ引きで、伊220の映像を繰り返し見た。

 菅野は、青焼きは建造計画時のものなので、実際の船内のレイアウトとは違うかもしれないと言ったが、何も無いよりはずっとましだった。


 飽和潜水では長期間の潜水を可能とする技術だけに、海面への浮上を心配をすることなく、リブリーザーという循環式呼吸器を使いながら、1回のダイブにたっぷりと3時間費やすことができる。前回の潜水調査に較べると、格段の作業効率だ。 しかしながら時間は無制限にあるわけではない。法令と安全上の理由から、作業の上限が28日までと決まっているからだ。延べの作業時間が限定される以上、無駄が無いように、事前の作業計画を練らなければならない。


 矢倉は幾通りものプランを立てては壊し、常時の作業に4名のダイバーが必要だろうと結論付けた。飽和潜水の場合ダイバーは、ベルと呼ばれる圧力調整容器に入って海底に向かい、そこを出て作業を行う。ベル内には必ずサポートダイバーが残らなければならない。これは作業中のダイバーにトラブルが生じた場合に、補助や救助をする要員が必要だからだ。

 ダイバー2名につき、サポートダイバーが1名。つまり海底で常時4名が作業を行おうとすると、ダイバーは6名体制となる。


――ルイス、ミゲル、エヴァと自分で4名とすると、あと2名必要になるな――

――ダイバー達のローテーションスケジュールは、どう組み立てようか――

――6名分の飽和潜水の装備も、準備しなければならないな――


 ダイバーの事一つにしても、矢倉は様々な事を考えなければならず、考えたら考えたなりの、諸々の手配や手続きも必要になる。

 その他、伊220への潜入手段や、暗い海底で明かりを取る方法、沈殿物が堆積している船体内部で視界を確保する方法など、矢倉が検討すべき課題は山積みだった。


 膨大な雑事が矢倉にのしかかったが、矢倉はそれをあまり苦にはしなかった。それらはオイルダイバーという本業の中でも、現場のリーダーたる自分に、いつものしかかってくる仕事とほとんど同じであったからだ。


     ※


 矢倉には潜水調査の準備とは別に、片付けなければならない課題もあった。

 嬉しい誤算だが、資金調達のために訪れた経営者の多くから、企画に賛同するとの申し入れがあったのだ。


 水睦社の協力が得られたからと言って、せっかくの好意をむげにするのも申し訳ない。矢倉は一人一人に礼状と詫び状を兼ねた手紙を手書きして送った。

 玲子はそんな矢倉を気遣い、「折角だから本当に、皆さんを集めて壮行会をやりましょう」と言ってくれた。


 5月の連休明けに東郷会館で開いた壮行会には、全国から玲子のリストに上がっていた経営者たちが上京してくれ、夫人の同伴を含めて総勢35名が気炎を上げた。もちろんその晴れの場には玲子も参加し、出席者からはまるで若い人気アイドルのように、握手攻めと記念撮影の渦に巻き込まれた。


 誰からともなく、ポルトガル沖の調査で英霊の遺骨を回収できたら、東郷神社の『潜水艦殉国碑』の横に、『無名潜水艦乗りの碑』を奉納し、慰霊をしようではないかという声が上がり、一同はその話題で大いに盛り上がった。

 参加者は皆、軍国主義とか国粋主義などとは程遠い、気さくで気の良い老人たちだった。恐らくはここにいる誰かが、水睦社と自分との橋渡しをしてくれたのだろうが、尋ねて回るのも無粋な気がして、矢倉はそれについては何も触れることはしなかった。


 満面笑顔の老人たちは、「調査の成功を期して」と言って、皆でポケットマネーを出し合って、東郷神社で有名な必勝祈願のZ旗を、団員の人数分購入して境内に立ててくれた。

 会がはねる間際にも、よほど名残惜しかったと見えて、やはり団員の人数分のお守りを売店で買って矢倉に託してくれた。矢倉は多忙な中でも時間を作って良かったと思った。


 そのころの玲子はと言えば、矢倉と同じく多忙を極めており、取材クルーを組織し、現地での撮影計画を綿密に練っている時期だった。

 同時に玲子は、ポルトガル沖での潜水調査とは別に、第二次大戦前夜から戦中、戦後に掛けての歴史取材も行うべく、取材先の選定とリストの作成も行なっていた。


 矢倉と玲子はそれぞれが、自分の成すべきことを見極め、準備をしながら、あっという間に月日は過ぎて行った。



――2018年6月16日、10時45分、東京――


 この日玲子は、潜水調査に出発する前の、最後の『朝まで報道トゥナイト』に出演していた。

 昨年末以来、世界中に経済危機の足音が忍び寄る中、玲子は経済通のキャスターとして存在感が増し、今や古巣以外の局からも3日に一度は、コメンテーターとして呼ばれるほどの人気だ。

 矢倉は玲子の顔が売れ始めている時期だけに、2か月もTVの仕事を休むのは勿体ないと思ったのだが、彼女はそんな心配などどこ吹く風だった。


 矢倉がTVを点けると番組はもう始まっており、玲子はいつも通り古賀の隣に座っていた。古賀はいつものように澱みなく、TVカメラに語りかけていた。


「3か月前の記者会見以降、IMFからは管理金準備制度について、さみだれ式に情報が発信されています。やはり注目すべきは、IMF債拠出金が金の現物に限定されていることでしょう。これは金本位制への回帰とも思えます。武本教授はどう思われますか?」

 古賀はこの日のコメンテーターである、武本に話を振った。


「まさに新金本位制とでも呼べるものでしょう。ブレトン・ウッズ体制の終焉後、膨張を続けてきた実体のない金融資産に歯止めを掛けるためには、今一度、金の普遍性の元に経済を立て直すべきという意思表明に思えます。

 金本位制のデメリットであるパフォーマンスの悪さをカバーするために、各国のGDPに準じて信用幅をスライドさせる手法は妥当と思います。私は評価しますね」


「既にIMF理事国24か国は全て賛意を示しており、IMF債のスキームは、来週のIMF理事会で承認される見通しです。今のところ各国とも異議は無いように見えます」

「当然です。主要各国に対しては、会見前には根回しが終わっていたと見るべきです」


「ところで、各国の資金拠出は金の現物との事ですが、具体的にはどうするのでしょうか。IMFが金を預かって、金庫に保管するのでしょうか?」

「実際にはアメリカ政府がIMFの委託を受けて、保管を代行する形です。ニューヨーク連邦準備銀行の地下と、ケンタッキー州のフォートノックス陸軍基地内にある、貯蔵施設がその場所です」


「なぜアメリカなのですか?」

「IMFの主張――と言いますか、IMFを主導するアメリカの主張は、世界中で最も安全な場所に保管すべきという事です。もしも保管場所が他国に侵略されると、大変なことになるので、世界中で一番強い国が代表して、その国の中でもとりわけ安全な場所に保管してあげましょうと言っているんです」


「随分と不遜な考え方ですね。アメリカが他国から攻撃されることは考えないのですか?」

「考えないですね。それは世界中の国が考えていても口に出来ない、パンドラの箱のようなものです。因みに、過去にアメリカ本土は他国の軍隊から爆撃を受けたことが、たった一度あります」

「知りませんでした。一体どこの国がそんな大それた事をやってのけたのですか?」

「日本ですよ、太平洋戦争時の日本海軍がオレゴン州に、潜水艦の艦載機で爆撃を仕掛けたんです。2回の出撃で2発の爆弾投下。それが最初で最後です」


「なんとも複雑な心境です。アメリカにとっては日本軍の攻撃は例外中の例外であり、今後は攻撃など受けない。受けるはずが無いという姿勢なのですね」

「そうです。もしもアメリカが今後、爆撃を受けるような事になれば、信用失墜でIMFの新体制など消し飛んでしまいますよ」


 武本は、それは有り得ないことだと言うように、少し笑みを含んだ表情で語った。

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