第十二章 飽和潜水

第42話 DDC

――2018年7月1日、8時00分、リスボン――


 矢倉がリスボンに着いて一週間。いよいよ潜水調査開始の日を迎えた。

 前日までの雨が止んで空は澄み渡り、絶好の航海日和の中で、灘遥丸はリスボン港を離れた。


 矢倉を筆頭とした飽和潜水のダイバー達は、出港からずっと甲板で、潮の香りのする空気に別れを惜しんでいた。調査が始まれば作業期間と減圧期間の合計31日間は、外気に触れる事ができなくなるからだ。しかしその儀式のような時間も、30分を過ぎたあたりで終わりを告げた。

「行くぞ」

 矢倉の掛け声と共に、皆最後に肺一杯に潮風を吸い込むと、名残惜しげに船内に消えていった。


 矢倉たちが向かった先は、船体下部中央に位置しているDDCと呼ばれる区画だ。DDCは Deck Decompression Chamber を略したもので、再圧タンクと呼ばれる圧力容器のことである。ダイバーはこのDDCの中で、目指す海底の水圧と同じ圧力まで加圧されるのだ。


 灘遥丸のDDCは居住性重視で、内部はかなり広く、区画単位で複数の円柱を連結した構造は、まるで宇宙ステーションを思わせる。

 ダイバー全員が中に入り、気密ハッチが閉じられると、DDCは次第に気圧が上げられ、やがて内部のガスはトライミックスに切り替わった。


 矢倉たちの体には、呼吸で排出されるやすい酸素以外の、窒素とヘリウムが飽和濃度まで溶け込んでいった。正に飽和潜水の名の由来の現象だ。そして3時間掛けてDDCは70m深度の8気圧まで与圧されて行った。


    ※


 目的の海域が近づくと、矢倉たちはDDCと直結されているベルに乗りこんだ。ベルの内部もまたDDCと同じ気圧に加圧されている。これから先の全調査日程を通して、矢倉達はこのベルで灘遥丸と海底の現場を往復することになる。


 灘遥丸は目的の海域に到着すると、船底にある油圧扉を開けた。この開口部はムーン・プールと呼ばれており、ベルはムーン・プールからワイヤーで、海底に投下される。

「準備はどうだ?」

 艦のオペレーションルームから、管制官が尋ねた。

「準備OK、行こう」

 矢倉の声と共に、油圧シリンダーのロックが解除され、ベルはムーン・プール周辺の空気を巻き込みながら海面に突き刺さっていった。


 灘遥丸の艦外では、取材クルーの水中カメラマンが待機しており、レンズは、ベルが沢山の空気の泡を巻き込みながら、海底を目指す光景を追っていった。

 ベルの横に設けられた丸い窓からは、ただぼんやりとした海中が見えるだけで、時折下から上に横切っていくマリンスノーだけが、ベルが海底を目指している事を示している。


    ※


 やがてベルの床から、軽い衝撃が伝わって来た。それが着底の証だった。

 ベルの底には3本のランディングギアが突き出しており、それで安定した3点支持を確保するようになっている。


 矢倉が下面のハッチを開けると、ベル内の気圧が海中の水圧とつりあっているため、海水はそれ以上にベルの中に侵入することはなく、そこはただの丸い水溜りのように見えた。矢倉はその水溜りの中に、足から順に全身を浸していった。


 夏至に近いこの時期は太陽が真上から光を放つので、海底でも黄昏時程度の明るさがある。50mほど先には伊220の船影が見えた。どうやら狙い通りの場所に着底したようだ。

 矢倉はアンカーを海底の岩盤に射ち込み、そこにベルのガイドワイヤーを固定した。これで海上と海底の移動ルートが確立した。


 やがて海上からは最初の貨物が下りてきた。

 始めは作業現場を照らすための投光器が、次に伊220のすぐ脇を狙うように、水質浄化装置のプラントが下ろされた。

 どちらも燃料電池で駆動する方式で、海上から電源を供給する必要がないものだった。


 矢倉とルイス含め、水中に出たのは4人のダイバー。残る2人は万が一の場合のサポートのために、ベルの中で待機する。

 矢倉たち4人は、まずは投光器を伊220の周囲に配置した。

 矢倉が電源を入れると、伊220の周辺は、まるで浅瀬にいるかのように明るく照らし出された。


 矢倉は水中無線で、2名のダイバーに水質浄化装置を設置して、試運転をするように指示し、自らはルイスを伴って、伊220の船尾側のハッチに向かった。

 矢倉はガス溶断器で、まずはハッチの外縁に近い部分に2つの穴を空けた。ルイスはその穴に金属のスイベルを通し、海上から下りて来ているワイヤーに繋いだ。 さすがにルイスは、日ごろから海底のトレジャーハントで慣れているため、この種の作業はお手の物だった。


 次に矢倉はハッチの周囲を焼き切っていった。ハッチの構造は、前回の調査時にファイバースコープで確認済みだったので、溶断作業は難しくはなかった。青白い炎がハッチに沿って一周したところで、ルイスが海上に指示を送ると、ワイヤーが巻き上がり、ゆっくりとハッチは持ち上がっていった。


 丸く開いた開口部をライトで照らすと、内部はひどく澱んでいた。透明度は50㎝も無いほどだろう。中の様子を知るためにルイスが侵入を試みた。

 ハッチのすぐ下には垂直ラッタルが伸びていることが手探りで分かった。更に中に体を滑り込ませた途端、瞬く間に沈殿物がルイスの周囲に舞って、視界はゼロに近くなった。ルイスは小型のソナー型測距器を使って、船内の空間を計っただけで脱出してきた。


 予定潜水時間の3時間が迫ってきたため、矢倉は最後の作業として、動作確認が終わったばかりの水質浄化装置から、吸入用と排水用の2本のフレキシブル管を伸ばして、ハッチから艦内に差し込んだ。

 そして最後に浄化機能をフルパワーに設定し起動状態にしたままにして、帰還のためにベルに向かっていった。


 DDCに戻った矢倉たちは、今後の調査方針を確認しあった。艦内の透明度が予想以上に低いために、まずは水質の改善に全力を上げる必要があった。

 矢倉たちは具体的な対応手段として、予備機として用意してあった水質浄化装置も現場に投入し、2台体制で24時間フル稼働させる事、装置を起動したままで艦に出入りできるよう、開口部をフレキシブル管4本分広げる事、そして浄化効率を上げるため、艦外の海水が環流しないよう、ハッチ上に簡易扉を設けることを決めた。

 またバクテリアを使った水質浄化剤も、早い段階から艦内に投入することにした。


 ルイスが採取した測距器のデータを検討したところ、ハッチの下はかなり広めの空間であることが確認された。水睦社で手に入れた青焼では、そこは貨物室と書かれていた場所だった。


 2日目以降は1日2ダイブのタイムテーブルになり、3人単位で構成したチームで行動する。2人が海底で出ている間は、一人が予備要員としてベルに待機する必要があるため、ローテーション表を作り、午前のみダイブの日、午後のみダイブの日、午前と午後の通しでダイブの日を作って3日で一巡させるようにした。


    ※


 翌日の作業は、前日決めた通りの作業を済ませ、3日目は艦外各部の撮影と測量を行ってから、司令塔の側面だけ、あのゴム状のコーティングを剥がした。

 潜水艦は司令塔に艦名を記す事が多いため、もしかするとコーティングの下に、伊220という文字が残っている可能性があったからだ。しかし、結局矢倉はその文字を目にすることはできなかった。


    ※


 4日目になって矢倉がハッチの上を覆っている簡易扉を開けると、艦内の透明度は劇的に改善していた。水質浄化装置を使う方向性に間違いは無いようで、このまま透明度は改善していくものと思われた。

 今の段階ではまだ、艦内でダイバーが動けば沈殿物が舞って視界は悪くなるが、慎重に活動すれば調査はできなくは無い。矢倉はこの日以降、ダイバーを艦内入れて調査を行うよう決断を下した。


    ※


 艦内の測量が進んでくると、内部のレイアウトは水睦社の青焼とはかなり違っている事が判明してきた。しかしそれは当初から覚悟の上であった。

 矢倉達は実測データに基づいて、日々新しい図面を引き直しながら艦内の調査を進めて行った。


 調査開始直後から、貨物室の後部にはほぼ隙間一杯に、複雑な形状の構造物が、パズルのように収められていることが分かっていたが、水質が改善されてから撮影した写真を、軍事の専門家に鑑定させたところ、それはウルツブルグレーダーというナチスドイツのレーダー装置であることが分かった。

 やはり伊220はドイツから貨物を運んでいたようだ。


 他に目立ったものでは、大型のポータブルタンクが2つあった。重量的に動かす事が出来ないめ、タンクの外周を捜索したところ、内容物が水銀であることを示す金属プレートが見つかった。専門家によれば、水銀も当時の重要な軍需物資の一つだったらしい。


 水銀のタンクの周辺には複雑な形状の部品類が散乱していた。元々は木箱に分類されていたのであろうが、木材が腐食したために、無秩序に散らばってしまったのだ。部品類の位置を写真に記録しながら艦外に運び出していくと、やがてその下からは銀色のインゴットの山が見つかった。

 現場のダイバーたちは、プラチナではないかと色めき立ったが、海上に引き上げて調べると、残念ながらそれはタングステンだった。


 残念ながらとは言うものの、第二次大戦当時は、タングステンは対艦対戦車砲の徹甲弾や、装甲材料、電球のフィラメントなどに利用される貴重な軍需物資である。艦に積まれた時点での価値は相当なものであっただろう。


 段々と貨物室の空間が整理されていくと、船首側に水密扉が見つかった。それは開いた状態で固定されており、その先はまだ濁った状態の通路だった。


 矢倉は2台の水質浄化装置の内、一方のフレキシブル管のセットを移動させ、その通路の中に固定した。通路が延びる方向から考えて、それは潜水艦の中枢である発令所や司令塔に続いているはずであった。


 もしも搭乗員たちの遺骨が有るとすれば、間違いなくそちら側であろうと矢倉は考えた。

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