第十三章 開かない金庫

第45話 宴の痕跡

――2018年7月15日、9時00分、リスボン沖――


 この日矢倉は菅野の頼みで、もう一度フェリペに連絡をし、灘遥丸にベッティーナ号を呼び寄せた。菅野はリスボンに戻って、西野、花園の一件を収拾しなければならないと考えていた。矢倉は同じ事件に巻き込まれた、ベッティーナ号を使うのは危険ではないかと進言したが、「どんな船を使おうと、同じことです」と菅野は答えた。


 西野たちが港に着くタイミングで相手が接触してきたのは、レーダーでこちらの場所を見張っているからに違いなく、そうであれば、別の船を使っても結果は同じだと菅野は言いたかったのだ。

 ただし菅野は用心のために、今度ばかりは日本大使館の車を迎えにこさせた上で、現地警察の護衛を要請すると言った。


 ベッティーナ号には玲子も同乗することになった。昨日菅野から聞かされた話を玲子に話して聞かせたところ、玲子自身が一旦陸に上がって、菅野の話について裏取りをしたいと申し出たからだ。「この一件には、どうしても拭えない違和感がある」と玲子は言った。


 矢倉は西野らの襲撃事件の直後でもあるし、上陸はやめておけと言ったが、玲子は絶対にそうすべきだと言った。「潜水調査の取材は放り出してしまうのか?」とも言ってみたが、玲子はもう同行ディレクターと打ち合わせは済ませ、今後の指示を全て済ませたと言って、一歩も引かない覚悟を滲ませた。

 結局矢倉は、玲子の決断を容認せざるを得なかった。


 矢倉は西村が殺されたことは、玲子の他には誰にも告げなかった。告げたとしても最早どうしようも無い事だからだ。

 矢倉の願いはいらぬ波風を立てずに、このまま調査を続行する事だった。祖父が手紙で伝えようとしたものは、金のインゴットの在処だったのか、それともC液、D液の存在だったのか、或いはそれらのどちらでもなく、もっと別のものだったのかもしれない。


 矢倉はまだ、祖父の真意に触れる情報について、なんらの片鱗さえ見つけられていなかった。潜水艦の中で何か重要な情報を得ようとするならば、なんとしてでも艦の中枢部である発令所と司令塔に行かなければならない。そしてその近くに付属しているはずの士官室と艦長室にもだ――

 そう矢倉は思っていた。


     ※


 この日矢倉が伊220の艦内に入ると、貨物室前方の水密扉の先は、かなり透明度が上がっていた。矢倉は測量担当のミゲルを同行させて、その奥に入って行った。

 慎重に動かないと、すぐに沈殿物が舞うような状態であったが、それでも何とか視界は確保できた。

 むき出しの機械類とパイプ類の間を通り抜けると、その先にある横開きのハッチも貨物室同様に開いたままで固定され、その先はやや広い空間だった。青焼の図面からすると、そこは食堂と調理室のはずだ。


 視界は段々と悪くなってきて、3mほどしか無いような有様だったが、それでも何とか手探りで状況を掴むことができた。

 そこには床に固定された、6人掛け程のスチールのテーブルが4つあり、両脇には造りつけの棚があった。側面には扉が有り、その先は厨房設備のように見えた。


 床面は食器らしい金属の皿や、瓶類が散乱しており、更にその下はボロ布が敷かれたように見えた。矢倉が試みにその布の端を持ち上げてみると、それは沈殿物をまき散らしながらも簡単に持ちあがった。それはズボンの裾のように見え、その先を追いかけていくと、服の形をした布があって、更に先には白っぽく脆い椀状のものが見えた。

 矢倉にはそれが何かすぐに分かった。頭蓋骨の一部だった。


 矢倉とミゲルが活動するのに伴って、艦内の視界は悪化していった。一旦ここは撤退すべきと判断した矢倉は、頭蓋骨に向かって両手を合わせてから、腰の袋から水質浄化剤のペレットを取り出して周囲に撒いた。そして元来た道筋を辿り食堂を出た。

 矢倉は一旦貨物室近くまで戻り、通路の入口まで差し込んであったフレキシブル管の1組を可能な限り奥に引き込んで、食堂の入口付近まで先端を移動させて固定した。


     ※


 その日の午後、矢倉はもう1台の水質浄化装置の方も、食堂内の透明度を確保するために投入するように指示を出した。

 2台分4本のフレキシブル管は延長されて、食堂の中央部まで引き込まれ、更に室内には広範囲に水質浄化剤が撒かれた。また矢倉は今後の船首側の調査に備えて、フレキシブル管の延長パイプを、ありったけの数だけ、貨物室まで運ばせてストックさせた。

 今後は少しずつパイプを先に延長し、艦内の水質改善を行いつつ調査を進めていく事になるからだ。


 調査日程は刻々と消化され、残された日数は少なくなっていた。どうやらぎりぎりになりそうだなと、矢倉は感じていた。


     ※


 翌日のダイブで矢倉が食堂に入ると、水質は各段に改善していた。最早少々激しく動いても、沈殿物が舞う事は無い。そこは貨物室よりも狭い分、水質浄化の効果が現れやすいのだ。

 矢倉に同行したダイバーは、持ち込んできた幾つものランタンを床や壁に配置して、明かりを灯した。煌々と照らされた状態で、改めて食堂の床面を見渡すと、昨日見たのと同じ布は床一面に広がっていた。


 という事は、この床全体にあるものが恐らくは遺骨だという事だ。ざっと見て30人はここで眠っている。テーブルの広さからすると、12名ほどが使用する事を想定した部屋に、倍以上の人数がすし詰めになっていたという事だ。

 床には布に混じって沢山のガラス瓶もあった。日本酒の一升瓶とビール瓶がほとんどで、明らかにウイスキーの瓶だと思われるものもあった。どういうことなのだろうと矢倉は思った。ここにいる男達は、まるで宴会の最中に艦が沈没してしまったという風である。


 矢倉は遺骨を崩さないように、注意深く布の一つを持ち上げてみた。それは劣化してはいるものの明らかに上着の形をしていた。変色をしていて、最早色の判別は付かなかったが、薄い色の布地だったことは確かだ。肩章も付いていた。

 恐らくそれは、旧海軍で言うなら第二種軍装という正規の服装だ。他の布を持ち上げてみたが、それらも同じものだった。


 潜水艦内は温度が上昇しやすいので、搭乗員は略服の着用が許され、ふんどし一丁で艦内を歩いてもとがめられることはなかったという。それにも関わらず、一体これはどういう事なのだろうか? 

 いずれにせよ全員が軍服を着ていたのならば、遺骨が散乱した状態でも、人数の特定はしやすいし、肩章には階級が示されるので、個人を特定する助けになる。もしかすると服の内側に、名前の刺繍だってあるかもしれない。


 矢倉は遺骨が散逸しないように、一体ずつ袋に納めるようにダイバーたちに指示を出した。次に矢倉は食堂の先にあるハッチをくぐってみた。水睦社の青焼によると、その先には通路の左右に電探室と医務室があり、更に先には士官居住室があるはずだった。

 その上にあるのが発令所だ。そこはまだ透明度が十分でなかったため、矢倉はフレキシブル管を延長して、通路の中央と士官居住区の入口に引き込んでから食堂に引き返した。


この日矢倉は遺骨の回収を最優先し、推定32体を海上に連れ帰った。水睦社で見た資料が正確ならば、伊220の搭乗員は49名。その大半をそこで発見した事になる。


     ※


 一日置いて、矢倉は士官居住室に入った、そこには3段ベッドの骨組みが左右に並んでいるだけで、既にマットレスは跡形もなくなっていた。

 入口近くの壁面には垂直ラッタルが2つあり、一方は発令所に向かって上方に伸び、もう一方は下方にある乗員居住区に向かっていた。矢倉は迷わず発令所に向かった。


 発令所はパイプが複雑に壁を這う中に、メーター類が所狭しと並んでいた。中央には潜望鏡と思われる筒が2つあり、外壁側には操作系のハンドルやレバー、バルブなどが並んでいた。

 スチール製の固定された椅子が6つあって、その周囲には軍服と遺骨があった。皆ここで任務に就きながらこと切れたのだろうと予想できた。


 発令所の前方と後方には、それぞれ横開きのハッチがあり、どちらも開口していた。前部のハッチの脇には、司令塔に続く垂直ラッタルがあり、その上のハッチも開口していた。

 矢倉は司令塔に上がって行った。そこはまだ透明度は高くないものの、狭い空間だったので、十分に全容を確認することができた。

 そこには、下の発令所から突き抜けている潜望鏡の2本のパイプがあり、発令所と同じようなレイアウトでメーター類が並んでいた。


 後方にはスチールの椅子があった。そしてそこにも遺骨があった。その遺骨がまとっている布地は他の遺骨とは違い、明らかに元は黒かったであろう深い色をしていた。恐らくそれは第一種軍装である。

 この遺骨が艦長に違いない。矢倉はその亡骸に敬礼をした。軍人でない矢倉が、思わずとった行動だった。


 矢倉がこの艦を初めて目にした時に感じ取った、強い意志の力は、恐らく司令塔に一人眠るこの艦長と、最後まで規律を守り切った乗組員達が放っている、執念のようなものなのではないだろうか? 

 理由は分からないが、この艦は今もなお任務の中に有り、何者かと闘い続けているのだ――。矢倉にはそう思えて仕方がなかった。


 矢倉は一旦発令所に下り、後方側に開くハッチをくぐった。そこは青焼では矢倉が探している部屋、士官室のはずだった。そこの透明度は低かったが、狭い部屋だったため、明らかに士官室とは違うことがすぐに分かった。壁面が機材で埋め尽くされていたからだ。

 狭い机の上には錆だらけになったモールス信号の電鍵があった。そこは通信室であるに違いなかった。


 反対側の前部側のハッチを覗くと、そこは広い部屋になっていた。中央部には二つのテーブルがあり、床には遺骨らしきものがあった。恐らくそちら側が士官室なのだと思われたが、詳しく調査をするには、まだ透明度が低すぎた。


 この日矢倉は、その場所にはフレキシブル管を引き込むだけに止めて、立ち去った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る