第46話 艦長室の金庫

 矢倉が士官室に入ったのは、翌日の午前のことだった。2つのテーブルの周囲には8体の遺骨が有った。

 士官室の脇には、畳二畳ほどの狭い空間があった。元々は木の扉がついていたのだろう。右側に蝶番がぶら下がり、左側には留め具のような凹みがあった。

 その奥には、造りつけの狭い寝台と椅子があり、木の天板を支えていたと思われるL字の金具には、錆びた木ねじが張り付いていた。

 多分ここは、艦長室だろうと矢倉は思った。


 L字金具の下には四角い箱が有り、表面の沈殿物を払いとってみると、それはダイヤル式の小型金庫だと分かった。当然ながらダイヤルは、固着しており微動だにしない。

 矢倉は金庫ごと引き出せるのではないかと思い、両手に力を込めてみたが、びくともしなかった。

 よくよく見ると、金庫の後部は、金属の板が溶接されており、更にその板は艦の壁面に溶接されていた。


     ※


 午後のダイブでは、ダイバーたちは発令所、司令塔、士官室の遺骨と遺品の回収を中心に行った。またここで矢倉はようやく、撮影クルーの水中カメラマンにも、艦内への立ち入りを許可した。

 通常装備で潜水を行っている水中カメラマンは、深度70mの深海には、僅か20分ほどしか滞在ができないため、安全を重視していた矢倉が、これまでに艦内に入らせなかったのだ。


 貨物室から発令所、司令塔までのルートは、既に飽和潜水の調査チームが何度も行き来して安全を確認していたし、透明度も申し分なかった。また移動ルート全体にはランタンが設置され、明かりも十分に取れていた。万が一のために、予備のボンベも所々に配置してあった。

 ちょっとした海底遺跡の見学ツアー並みに、安全が確保されていると言っても言い過ぎではないだろう。

 この日は水中カメラマンに同行して、撮影アシスタントの新藤も初めて艦内に入った。


     ※


 その日の作業を終え、DDCに戻った矢倉は、ルイスに相談を持ち掛けた。

「ルイス、残りの調査の事で相談があるんだ」

「優先度を付けるのですね?」

 ルイスは察しが良かった。

「今日で日程の4分の3が終了し、残りは7日。まだ未調査の区画が半分以上残っている」

「さすがに全部は無理ですね」

「必ずやらなければならないのは、士官居住室と乗員居住区からの遺品の回収だ。もしも遺族が存命ならば遺骨と一緒に届けたい。多分工数的には2日だろう。残り5日の作業に優先度を付けよう」


「どこか気になっている区画はあるのですか?」

「区画と言うのではないが、艦長室の金庫が気に掛かっている。もしかすると中に、航海日誌や作戦書が残されている可能性もある」

「確かに、あの金庫は気になりますね。しかし、海底で開けるのはお薦めできません。紙は意外と強いものなので、金庫の中に保管してあれば、残存している可能性は大いにあります。

 もしもそれが、辛うじて原形を保つ程度の脆い状態なのであれば、扉を開けた瞬間に崩れ去ってしまう可能性があります」


「それではどうしろと?」

「金庫ごと、できるだけ水平を保ちながら引き揚げるしかありあません。金庫を固定している金属板を溶断すれば、移動はできるはずです」

「貨物室まで水平を保って運べるとは思えないぞ」

「指令塔の側面に大きめの穴を空けましょう。そこからワイヤーを艦長室まで引き込んで、ウインチで艦の外から牽引すれば良い。要所々々にプーリーを溶接して、ワイヤーを滑らせれば振動は回避できるはずです」


「引き揚げたあとはどうするんだ? 灘遥丸の中で開けるのか?」

「金庫ごと蒸留水の水槽に浸けて、持ち帰ります。開けるのは陸に上がってからです」

「何故そんな面倒な事を?」


「こういったものの場合、開ける事よりも、開けた後の方が大変なんですよ。濡れた紙は空気に触れたとたんに劣化が始まります。コーヒーをこぼして濡らした本が、元に戻らなくなるのと一緒です。

 正確に言えばコーヒーで濡れた本も、すぐに適切な処理をすれば元通りになるのに、一般人にはそれが出来ないから元に戻らないんです。


 ポルトガルは水中考古学が盛んな国ですから、濡れた本を扱える専門家が大勢います。海底から発見された古文書は、蒸留水で塩分を抜いてから、アルコールで洗浄して除菌し、湿度管理された中でゆっくりと乾燥させるんです。紙質やインクごとに対応方法が違うんですよ」


「準備万端整えてから、金庫の扉を開けるというわけか。わかった君の言う通りにしよう。それで、引き揚げにはどれくらいかかると思う?」

「最後の5日間をそれだけに集中できれば、問題ないでしょう」

 ルイスの言葉で、残りの作業工程が決まった。


     ※


 その後の遺骨の回収は、矢倉が見積もった通りに、ぴったり2日で完了した。

 矢倉は最後の5日間の作業時間を増やすために、一日の作業を2ダイブから3ダイブに変更することに決めた。


 矢倉達は2台のガス溶断器で、司令塔側部の鋼板を焼き切った。

 内部にパイプ類や計器が無い場所を狙い、後の作業がしやすいように開口部を大きくとった。切断した鋼板は海上に引き揚げさせた。

 次に矢倉は、開けたばかりの開口部の上に、鉄製のリングをアーク溶接した。プーリーを吊るすためだ。

 伊220の甲板に固定した電動ウインチから、このプーリーを介して、ワイヤーが艦内に引き込まれるのだ。


 司令塔内部では、発令所に下るハッチの直上にH鋼でやぐらを組み、そこにもプーリーを吊るした。金庫は垂直な状態で、司令塔まで持ち上げなければならないからだ。

 更に移動経路となる床面には、鉄パイプでレールの軌道を作った。車輪付きの台車に乗せて、金庫を平行移動させるためだ。


 地上で行えば何ということも無い作業のはずだが、海底では一つ一つの行動に恐ろしく時間が掛かり、ここまでの金庫の搬出準備だけで丸3日を要した。


     ※


 まだ2日の余裕を残していたので、金庫の引き揚げは何とかなりそうだと誰もが思い、矢倉も安堵していた矢先だった。

 突然に不測の事態が発生した。


 DDCにいる矢倉に、灘遥丸の艦長から艦内電話が入った。

「矢倉さん、良くない報告があります。赤道近海で発生した熱帯性低気圧が、急速にポルトガル沖に迫っています。高波を避けるために、本艦は避難しなければなりません」

 DDCと海底の往復ばかりで、海面を見る事が無かったので全く気が付いていなかったが、そう言われてみると、確かに今日はいつもよりも少しローリングが大きい気がする。


「いつ移動するのですか?」

「遅くとも明朝には……」

 1日避難した後、翌日戻ってきてすぐに作業再開というようには、都合良くはいくまい。艦が移動してしまったら、そこで今回の調査は終了だ。

「困ったな……」

 矢倉は腕組みをして考え込んだ。


「これからすぐに潜りましょう。明日の朝までならば、あと2ダイブはできます。何とかなりますよ」

 矢倉から事情を聞いて、ルイスはそう進言した。

「行ってくれるのか?」

 矢倉が訊くと、「もちろん」とルイスが頷いた。


 ルイスは他のダイバーたちに状況を説明し、「すぐにドライスーツを着てくれ」と指示を出した。続けてルイスは艦内電話を取り上げて、「タンクへのトライミックスの充填は出来ているか?」とサポートスタッフに訊ねた。

 電話の先からは「もう終わっています」と返事が返ってきた。

「よし、行こう」

 矢倉の掛け声とともに、6人のダイバーたちはベルに乗りこんだ。


     ※


 海底に到着した矢倉とルイスは司令塔に開けた開口部を通って、まっすぐに伊220の艦長室に向かった。

 同じシフトで一緒に海中に出たのは、日本サルベージから来た外山と永友だった。彼らは移動経路の再点検を行っていった。


 艦長室に着いた矢倉は金庫背面の金属板を溶断し、その間にルイスは金庫の上面の四隅にリングをアーク溶接した。

 2人で金庫を持ち上げようとしたが、予想以上にそれは重かった。矢倉は水中無線で外山と永友を呼んだ。4人での力でようやく金庫は動いたが、持ちあげて、レール上の台車に乗せるのは難しそうだった。


「ミゲル、エヴァ、こちらに来てくれるか」

 矢倉はベルで待機しているミゲルとエヴァも呼んだ。金庫に溶接したリングに、ロープを通して環をつくり、6人がかりで持ち上げて、ようやく金庫は台車に乗った。

 士官室の出口まで台車を転がしたところで、ダイブの制限時間が来た。矢倉たちはベルに戻り、休憩を取るために一旦灘遥丸のDDCに向かった。


     ※


 DDCに戻ってみると、波は次第に高くなっているようで、先程のダイブで海底に潜る前よりも、明らかにローリングは大きくなっていた。矢倉はこれ以上に波が高まらないことを祈った。


 1時間の休憩をとった矢倉達は、最後のダイブに向かった。

 ここからの3時間で金庫を引き揚げてしまわなければならない。


 海底に着くと矢倉たちは急いで士官室に戻った。

 発令所に続く狭いハッチの中を、水平に金庫をくぐらせるのは大変な作業だったが、先程と同じように6人がかりで、なんとかそれを行う事ができた。


 司令塔ハッチの直下まで金庫を運ぶと、ルイスがハッチの上から下りて来ているワイヤーのフックを、金庫に溶接したリングに掛けた。

 後は電動ウインチに任せて上に持ち上げるだけだった。一旦艦外に出た外山が、そこに設置したウインチの起動スイッチを入れた。


 ワイヤーはキリキリという音を発しながらテンションが上がって行った。5㎝、10㎝、15㎝――、ゆっくりと金庫は床を離れていく。


――キーン――

 突如、耳を突く甲高い音が水中に響いた。

 重量に耐えきれず、H鋼のやぐらでプーリーを吊していたリングの溶接が剥がれた音だった。

 続けてドンという重い音がこだました。金庫が床に落ちたのだ。


 不意に矢倉の体は自由を奪われた。

 金庫が横揺れしないように、脇で手を添えて支えていた矢倉は、たった今の落下によって、腹部を垂直ラッタルと金庫の間に挟まれてしまったのだ。

 腕足と末端部から体を動かしてみる――

 体に痛みはなかった。最後に体をよじってみる。やはり痛みはない。骨折や外傷はなさそうだ。

 しかし、とにかく身動きが取れななかった。


 慌ててルイスたちが近寄り、金庫を移動しようとするが、びくともしない。

 先程まで6人がかりでやっと移動してきた金庫だ。一人掛けてはそう簡単には動かせないだろう。


「急いで、溶接し直しましょう」

 ルイスは水中無線で矢倉に声を掛けると、床を蹴って、一気に司令塔に上がって行った。

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