第35話 破滅の逃避行
いつの間にか僕とラシュトイア王女は手をつないでいた。そしておぼつかないゆっくりとした足取りで線路を進む。心の奥底から間欠泉のように虚無感が湧き出し、それが手を通じて相手に流れていく。互いが互いの虚無感を受け止め、支え合っている状態。
きっとこの手が離れてしまえば、まるで出来損ないのガラス細工のようにちょっとの衝撃で砕け散ってしまいそうだった。
そのまま東池袋駅に到着する。結局現在の地下と地上の状況がわからないので、確実に地上に出られる場所は、調査開始地点であるここしか思い浮かばなかった。この場所は敵に割れているかもしれないので、もしかしたら待ち伏せされているのかもしれなかった。だが僕たちはそんなことに気を配ることもせず、無警戒で出口に向かう。どのみち、今の僕たちに敵と交戦する気力と体力はないので、気にするだけ無駄なのである。
幸いにも待ち伏せはなかった。東池袋駅地上にある密度が少ない林を抜けると、一気に視界が広がる。林の中では背の高い木々の葉が天上を覆い尽くしていたが、それらがなくなると、まるで夜空に砂金をばら撒いたかのような光芒が僕たちを出迎えた。この光景は僕がこの世界の地上に初めて出てきたときと同じものである。もう既に夜になっていたのだ。僕たちは林の出口に立ち止まって夜空を見上げた。
「綺麗ですね」
「そうですね」
ラシュトイア王女がこぼした呟きに、僕は反射的に返事をする。
「総介さん。総介さんの暮らす街では、このような星々を見ることはできるのですか?」
「街の中では、無理かな。僕が住んでいた東京という街は『眠らない街』と呼ばれていて、夜でも昼間のように明るいところなんだ。その街の明るさで夜空の星の光を打ち消してしまい、地上からでは星の一つも見つけることはできない。都市部の光害というものさ。でも、街から離れた自然豊かな場所であれば、見えるよ。まさにこの光景がね」
僕は空いている方の手で夜空を指した。流石に東京では無理かもしれないが、栃木とか群馬とかに行けば、満天の星空を見ることはできるのではないだろうか。
「……総介さん」
星空を眺めるラシュトイア王女は、僕の名前を呟いたあと無言になる。僕は目線を星空から隣にいるラシュトイア王女に向ける。数拍の間ののち、ラシュトイア王女は星空を見つめながら、再び口を動かす。
「総介さんは、元の時代に戻りたいですか?」
「迷っていたけど、今は、いずれ戻らなくてはならないと思っている」
ここではないどこかを馳せるラシュトイア王女の眼差しを追いかけるようにして、僕も再び空を見上げながら答えた。空の下部は、まるで遠くで山火事が発生しているかのように紅蓮に染まっていた。丁度南の方角であり、恐らく永田町だろう。察するに、地上に残った調査隊は敗北して陣に火が放たれたのだろう。
「私のわがままを聞いていただけますか?」
「どうぞ」
「総介さんが元の時代へ帰るとき、私もついて行っても構いませんか?」
「そうしたら、この世界はなくなりますよ」
僕がこの世界のなにかしらの技術を持ち帰れば、そのことにより世界は傾き、未来線は他の未来線と干渉することはなくなる。つまり世界融合という過去は改変され、今この未来の世界がなくなってしまうということである。
一国の王女としては、自国の民の安全を考えると、その行為を阻止しなければならない立場にある。だからこそ僕の一存では決めることはできず、ラシュトイア王女に相談したのだ。結論は保留になったけど。
「そのことですけど、私自身、構わないと思うようになりました」
しかしここにきて、ラシュトイア王女は考えを変え、僕が元の時代へ帰ることを容認してくれた。しかも王女もついてくると。
「どうしたのですか?」
僕は優しく尋ねる。
「これは一種の、復讐です」
すると、今までのラシュトイア王女の口からは絶対に出てこないだろう物騒な言葉が急に出てきた。僕はそのことに少しだけ驚いた。
「ツルゴの言う通り、国に裏切られ、民に見放され、臣下を失った私に、居場所などもうどこにもないのです。ですが私は、私を貶めたこの国に、この世界に一矢報いたいのです。総介さんは言いました。非情になれと。ですので、私はこの世界を滅ぼすことで、この復讐を果たすのです。総介さんが私というこの国の技術の塊を持ち帰ることで、これでもかというほどに世界を傾かせましょう」
「フッ! フフハハ」
僕は思わず吹き出してしまった。そして僅かに笑い声がこぼれてしまった。
「おかしいですか?」
「おかしいですよ。確かに非情になれとは言いましたが、あまりにもスケールが壮大過ぎて実感がわかない」
「これでも私は必死に考えて出した答えなのですよ!」
ラシュトイア王女は可憐な声で憤慨するが、それでも僕の笑いは収まらない。しかしいつまでも笑っているわけにはいかない。ラシュトイア王女は真剣なのだ。
「本当に、いいのですね」
僕は無理やり笑いを収め、真面目な口調でラシュトイア王女に確認した。
「はい。構いません。私と総介さんの二人でこの世界を滅ぼし、時空を超えた逃避行をするのです」
逃避行、か。悪くはないな。なんだか恋愛ものの映画みたいだけれども、それも悪くない。
「一つ忘れているかもしれませんが、今この世界を滅ぼす代わりに、二つの世界の融合を阻止できるのです。二つの過去が救われ、その上に成り立つ未来も救うことになるのです。悪いことだけではないです」
「そうでしたね。失念していました」
悪いことによって選択したものが、意外と最善の選択であることもある。今日トロメロが話していたことだ。まさか本当にそうなるとは思っていなかった。しかしなるほど、一理あるかもしれない。
僕たちの間に沈黙が訪れた。まるで世界の最後をこの目に焼き付けるかの如く、闇の空に輝く光を見つめ続ける。
「総介さん」
唐突に傍らのラシュトイア王女が僕を呼ぶ。するとつないでいた手が持ち上げられ、僕の片手を王女は両手で包み込む。そこで僕はようやく隣を見ると、ラシュトイア王女はこちらに向き直っており、両手で包み込んだ僕の手を愛おしそうに見つめていた。その頬はかすかに紅潮している。
「これからずっと、私の傍にいてくださいませんか?」
その言葉は、なんだかプロポーズをしているかのようだった。この場面で、ラシュトイア王女はどのような意図でその言葉を発したのかがわからない。果たして僕が思った通りの意味なのか、それとも親しい人を亡くしたことによって生まれた心の隙間を埋めてほしいのか、はたまた世界と時空を股にかけた業を一緒に背負ってほしいのか。僕は逡巡したが、出てきた結論は、結局どの思惑も大して意味は違わないということであった。
僕も身体ごと向き直る。互いに向き合う状況にて、僕も空いている手で握り締める手を包み込む。互いの手が僕たちの間で折り重なり、固く結ばれる。
僕は意を決して、ラシュトイア王女の問いに答えようとするが、
「仲人は必要か?」
それは途切れてしまった。それは林の方から発せられた声に遮られたからである。僕とラシュトイア王女は、手を包み込みながら反射的にその方を見やる。
「テレ!?」
僕たちは声を揃えて驚愕した。その人物は、紛れもなくテレであった。亡霊でもなく、しっかりとした実体を持ったテレである。
「私が遅れを取るとでも思ったのか?」
テレははにかみながら僕たちに近づいてくるが、その姿は別れ際のときとは大分異なっていたので、僕たちは揃って息を呑んだ。
テレの騎士服は深紅に染め上げられており、ブレザーの肩口やスカートの裾は擦過によって破れていた。そしてなにより額に斬撃でも受けたのか、テレの前髪は不自然に切り落とされており、額からは鮮血が流れて片目を塞いでいた。とても痛々しい格好だが、身体の方は致命傷を受けた様子もなく、額も出血の割には傷が浅いようだ。
「ま、まさか、追手全員を倒したのか!?」
僕は驚きつつもテレの額の血を拭くために何か探したが、こういうときに限って都合のいい布が見つからない。よく衣服を破って止血するシーンがアニメとか映画にあり、現に僕の左腕はラシュトイア王女のドレスの裾を引きちぎって止血したが、もうこれ以上ドレスを引き裂ける場所はない。そして僕の制服は、残念ながらそう簡単には破けなかった。
「総介殿気にするな。どうせすぐ止まる。それで追手の方だが、一応全員始末した。途中囮に気を取られて一人の突破を許してしまったが、そちらは総介殿が倒したのだな」
それを聞いて、僕は言いたいことが多数出てきた。ツルゴ戦のときにも思ったが、訓練された大人を屠るほどの戦闘能力は一体どこから出てくるのかとか、自分の怪我を気にしろとか。
しかしそれらは僕の頭の中で混ざってしまい、うまく口から出ていかない。結果として口から出てきた言葉は、「どうやって追いついてきたの?」という全く思ってもいないことだった。でも口に出してから、確かに疑問ではあることを自覚した。
「いや反響音を聞いて方向と距離に当たりをつけ、全力疾走すれば追いつけられなくもない。ましては、私は訓練を受けた騎士だぞ。単独であればそのようなこと造作もない」
僕は開いた口が塞がらなかった。でも確かに得心はいく。僕もラシュトイア王女も身体能力が優れているとはお世辞にも言えない。故に走る速度はテレに比べれば遅いのだ。三人で行動していたときは僕たちのペースに合わせてくれたようだが、一人であれば他人にペースを合わせる必要がないので、全力で走ることができるのだろう。恐らく、ツルゴが僕たちに追いつくことができたのも同じ理由だろう。
「そんなことよりも、ラシュトイア王女に返事を。恥をかかせるな」
テレの脚力をそんなことで片付けられたが、まあ確かに今更気にしてもしょうがないのは確かであり、考えるだけ無駄であった。そして僕は今現在、ラシュトイア王女と両手をつないで向き合っている状態である。テレの介入で中断されたが、本来なら僕はラシュトイア王女に返事をするところであった。
僕は改めてラシュトイア王女を見つめる。
僕よりも背の低い、十四歳の可憐な少女である。気品のある容姿は美しくもあり、愛らしくもある。鏡のように光を反射するほどの純白の髪の隙間から、少し恥ずかしそうな目で僕を見つめている。そんな女の子から、ずっと傍にいてほしいと頼まれているのだ。僕の答えに迷いはなかった。
「僕でよければ、喜んで」
僕はラシュトイア王女を見つめながら返事をする。あまりにも気恥ずかしいため、僕の脳は沸騰して弾け飛びそうだった。それでも僕は視線を逸らさず、真摯に答えた。まるでそれが礼儀であるかのように。
僕の返事を聞いたラシュトイア王女は、一筋の涙と共に相好を崩した。
「総介さん、お願いがあります」
そしてラシュトイア王女は僕の手を握る力を強め、そして僕の瞳を直視しながら頼みごとをする。
「私は、もう王女ではありません。どうか、ラシュトイアとお呼びください」
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