第7話 未知の世界


 外に出て、まず僕の目に飛び込んできたものは、天上を覆い尽くすかのような光芒だった。それは僕の時代の東京では見ることができなかった星々であり、くっきりと天の川と星座が視認できる。その光景はまるで、夜空に砂金をばら撒いたかのようだった。僕は息を呑んで瞠目した。


 僕が存在していた東京で星を見ることができなかったのは、ひとえに東京の夜が明るすぎたせいである。天体は暗順応することでより多く、そしてより明確に観測できるので、可能な限り暗い場所を選び、持参する照明も眩しくない色のものでなければならない。天体観測は、それだけ明るさに気を使うのである。そしてそのような場所は、東京などの都市部では皆無であった。所謂都市の光害というものである。


 そして僕の瞳がこれだけの星々を映し出しているということは、都市によって発生する光害がなく、地下室によってなされた暗順応が維持されているからである。それはつまりこのような解釈ができる。光を放つ建物そのものが、既になくなっているということ。


 すなわち、街自体が消失しているということ。


 そのことに気がついた僕は、慌てて周囲の様子を窺った。僕が知るこの場所は、閑静な住宅街であった雑司が谷である。しかし現在のこの場所は、閑静というより森閑だった。


 人が暮らす家は一軒もなく、少々背の高い草が生い茂る見晴らしのいい草原が続いているだけ。目測で数十メートル先には林があり、この草原自体が木々に囲まれている。山中にぽっかりと空いた開けた場所といったところだろう。僕が地下室から出てきた場所は、草によって上手くカモフラージュされた洞穴のようになっていた。


 僕の知る東京はなく、僕が思い描いた東京もなく、ただそこには自然豊かな土地が広がっているだけだった。東京という街そのものがなくなっていた。


 人類の未来は、繁栄の方向ではなく、衰退の方向へ進んだようだ。


「…………」


 僕はただ、目の前の光景に驚愕することしかできなかった。このようなこと、誰が想像し得ただろうか。


 だが、まあ、まずは落ち着こう。感情的な言動はなにも生み出さない。それは世の常。どんなに予想外の状況だとしても、冷静に現状を把握し、合理的な行動をした方が、結果的に物事はいい方向に向かっていくものだ。


 しかしそんな僕を嘲笑うかのように、状況は動き出した。


 突如として空が明るくなった。そして聞こえてくるのは、身体に響くような轟音と、そして激痛に悶え苦しむかのような裂帛の悲鳴であった。


 何がどうなったのか、僕には状況を飲み込められなかった。だが母が作った歪んだおもちゃが幼い頃から身近にあった僕だからわかることがある。今の音は間違いなく、何かが爆発した音であった。そして唯一明確にわかることは、その爆発はかなり近いところで発生したということだった。


 爆発音が轟いた方向を見やる。すると林の向こう側の空が炎の紅蓮で染められていた。


 転瞬、僕は駆け出していた。逃げているのではなく、むしろ近づいていた。命の危険を察知して身体が早鐘を打ち鳴らしているが、それに従って逃げたとしても、その警告音がなり止むことはないと理性で判断した。


 ここは僕の知る東京ではない。いや、東京ですらない。東京は消滅したと考えるのが妥当であり、ここは未知の土地といっても差し支えはない。


 そのような場所で未知の危険に遭遇し逃げ出したとしても、その危険は亡霊のように憑きまとい恐怖で締め上げてくる。ならば可能な限り情報を集め、その正体がなんなのか突き止めるくらいのことはしなければならない。当然それが僕の理解の範疇を超えた現象だとしても、その存在を知っていると知っていないとでは、その対応に雲泥の差が出るだろう。


 僕は生い茂る草を掻き分けて林に入る。そして懐中電灯を前にかざしながら、必死に暗闇を突き進む。


 林はそこまで広くはなかった。三分少々走ったところで、崖に遭遇して林は途切れていた。しかし崖といってもかなり小さいもので、頑張れば登れなくもない高さであり、切りだった丘と言えなくもなかった。


 そしてその小さな崖の下は、まさに地獄であった。


 眼下は見晴らしのよい草原となっており、その中ほどには街道と思われる道が伸びている。そこでは草が燃え、人が燃え、馬車が燃えていた。そしてその燎原にて、人々が争っているのが見て取れる。これは明らかに戦闘であった。


 僕は無意識のうちにうつ伏せになり、身を隠しながら戦況を観察した。この距離でははっきりと見えないが、勢力は二つあるようだ。残った馬車を取り囲んで防戦している勢力と、それを包囲して襲いかかっている勢力。雰囲気から、馬車の用心棒と賊の戦いのように見えた。


 戦闘というと僕は銃撃戦を連想するが、眼下に広がる戦闘は、未知の土地故に少々異なるものだった。


 賊側は何か長細い棒状のものを持って襲いかかっている。それは恐らく刀剣や棍棒などだろう。それについてはとくに妙なことはない。白兵戦という概念は僕がいた世界にもある。


 奇妙であったのは、用心棒側であった。その戦い方は、僕の知らないものだった。


 いや、それは知識としては知っている。知っているが、それが現実のものとして実在しているとは思ってもいなかった。だがしかし、その空想の産物は確固たる概念のもとこの世界に存在しており、用心棒側はそれを駆使していた。


 それは一言で、しかも僕の知る言葉で表すとしたら、紛れもなく魔法であった。


 アニメやゲームでしか見たことのない能力。指先から火の矢が放たれ、手刀が氷の刃によって延長し、手のひらから発せられる風の圧力で攻撃を防いでいる。それからが現実のものとして眼下の戦火の中で繰り広げられていた。


 人数としては用心棒側の方が圧倒的に少ないが、その魔法と思しき兵器によって劣勢になることはないようだ。だが賊側は数の有利を利用して果敢に突撃していく。そのため戦況は互角といえた。


「なんだ……これは」


 その光景は、僕にとって意外すぎるものであった。捻り出すかのようにようやく声を出して反応することができたが、それが精一杯であり、それ以上何も考えられなかった。それくらいに衝撃的だった。


 まさか初めて目にする生死をかけた戦いが、自然豊かな土地で、馬車といった高度文明ではまずありえない移動手段を用いて、魔法を駆使する馬車の護衛と血に飢えた賊によるファンタジーなものであるなんて、誰が想像できただろうか。少なくとも都会育ちの僕には、想像することは不可能であった。


「これは、十分用心して、じっくり調査する必要があるな」


 今すぐ帰りたいが、そうは問屋が卸さない。タイムマシンを起動させたのは僕ではないので、再起動の方法がわからず元の時代に帰るのは少々困難であった。だが歪んではいるものの僕を溺愛している母のことだから、何かしらのヒントは隠してあるはずである。


 しかし解明するのは、母が作り上げた高度な機械である。解明に数日、いや数週間はかかるだろう。ならば、その間の安全は確保するべきであり、それは即ちこの世界のことを知ることであった。


 夜間であるためこれ以上詳細に探ることはできそうもない。それにいつまでもここにいては戦火に巻き込まれる可能性がある。ならばここは一度戻り、地下研究室をシェルター代わりにして夜を明かすのが無難だろう。東京が滅んでも人が存在し、未知の技術を保有している。その事実を確認できただけでも十分な成果である。


 僕はゆっくりと立ち上がり、音を立てないようにしつつもできるだけ早く移動し、その場を離れた。



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