trois
いよいよ、決戦の日がやってきた。
俺たちは早朝に『トリアノン・ヌーヴォー』にやってきて、機材を駅へと運んだ。
駅から店舗を出していいという許可は下りた。
テーブルとポットだけ置けば試飲会なんて簡単にできると思っていたが……。
「本格的ですね……」
うしろにはでっかい看板が置かれていた。
しかも、その看板には『トリアノン・ヌーヴォー』への地図が書いてある。
「これは露骨に『グランドマイティ』に喧嘩を売ってますよね……」
しかも、試飲会をやる場所は改札口を出て前にあるわけだ。
『グランドマイティ』目当てにやってきた客は皆うちの看板を目にするというわけだ。
「『グランドマイティ』に行くお客様にうちの紅茶に一杯飲んでいただければ、いかに『トリアノン・ヌーヴォー』が良心的な商売をしているかわかってくれるはずだわ」
「そうですけど、しかし……」
せっかくの勝負の日だというのに、俺は心には不安が残っていた。
「美馬、こなかったですね」
「でもまだ、10時になってないから。早朝に用意するとは伝えていないから」
「じゃあ、来てくれるのかな? 深見さん、美馬から休むとか連絡きてますか?」
「ううん。まだ来てないわ」
「そうですか……」
「大丈夫よ。美馬ちゃんがいなくても……、いや、美馬ちゃんがいないからこそ勝たないといけないのよ。妹子くんはメイドさんだけど、今日ばかりは男の子になって頑張ってもらわないと」
深見さんは力強く言って、駅の中を見回した。
「天候もうちに味方しているわ。今日は暑いから喉がかわくでしょう」
「氷の入ったアイスティーは有難いですからね」
「お湯とか氷とかたくさん用意しておいたけど、足りなくなりそうだったら、平塚さんたちに車で運ばせるから電話してね。紅茶については最上さんに任せれば大丈夫よ」
最上さんはうなずいた。
最上さんは眼鏡女子で、生徒会で書記やってますって感じの女性だ。
「それじゃあ、あとは任せるわ! 困ったことがあったらすぐ電話してね」
そう言って、深見さんたちは去っていった。
まだお客がやってくるような時間帯ではない。
最上さんは黙々と紅茶の準備をしていた。
すると……。
「あんたら、何やってんのよ!」
先日会ったばかりの桂木ひなたが大股歩きでこちらにやってきたのだ。
才色兼備でブラコンででいつも和服姿の浅井蝶子に扮した桂木ひなたは、ポテトチップスを食べながらこっちにやってきた。
……ていうか、まだ午前9時台だぜ。
自らの肝臓をフォアグラ化させるつもりか。
というか、チャラ男まで一緒かよ。プラカードを持っている。
向こうもこっちと考えていることは一緒らしい……。
チャラ男は俺のことを胡散臭そうに睨んでいる。
男と気づかずに1時間狭い部屋に一緒にいたわけだから。
一緒に手までつないだわけだから。
「こんな構内でお茶なんて配ったら周りの邪魔になるんじゃないの?」
「人気声優さんがこんな場所で呼び込みだなんて、それこそ人込みができて交通渋滞を巻き起こすんじゃないですかね」
と、俺も負けずに言う。
「……呼び込みやって本当によかったわ。こんな場所で呼び込みやられたらお客全部取られちゃうわ。それにあのクソ女が見ていないから堂々とお菓子を食べられるし」
桂木ひなたは、机の上に並べた氷入りのアイスティーの入った紙コップに視線を注いだ。
「川窪」
「何でしょうか、ひなた姐さん」
「葉月と悠を連れてきて」
「え? 葉月ちゃんに深浦まで呼び込みに連れてこいと……?」
「本当ならあたし一人で十分だけど、念には念を入れておいた方がいいわね。あんなブラック企業な喫茶店どうなったって知ったこっちゃないけど、『声優』の看板を背負っている以上、『トリアノン・ヌーヴォー』に負けるわけにはいかないわね」
「それってひなた姐さん一人では荷が重いってこと?」
「はあっ!? なにをあんた馬鹿なこと言ってるの? 死ぬの? いいからさっさと葉月と悠を呼びに行きなさいっっ!!」
「は、はいっっ!!」
桂木ひなたにドヤされて、チャラ男は逃げるように『グランドマイティ』に向かって走っていった。
「あんたらの店は、紅茶が美味しいことで有名そうじゃないの?」
そう言って紙コップをじろじろと見る。
紅茶が飲みたくて仕方がないらしい。
「飲みますか?」
「あたし紅茶にはうるさいのよ。中途半端なものでは満足できないわよ」
俺は紙コップを桂木ひなたに渡した。
桂木ひなたはアイスティーを一気に飲み干した。
飲み終えたときの桂木ひなたの表情から、先ほどまでの勢いが一気に消え失せていた。
「な。なかなかの味ね……」
桂木ひなたは強がっていた。
しかし、
(圧倒的だな。わが陣営は)
絶望感が桂木ひなたを圧迫しているのがひしひしと伝わってくる。
「なにボケッとしてるのよっ! おかわりよっ!」
「え? ああ、はいはい。どうぞどうぞ」
そして紅茶を飲み干すと、
「まあ、このくらいでなきゃあたしたちの相手は務まらないわよね……。叩き潰してやるから覚悟なさいっっ!!」
と、捨て台詞を吐いて去っていった。
(あきらかに動揺しているな……)
「最上さん、まだ人来ないよね。俺、ちょっと様子覗いてくる」
俺は南口の階段を下りると、桂木ひなたがチャラ男と彼が連れてきた瀬川葉月と深浦悠が話し込んでいるのを発見した。俺はとっさに物陰にかくれて彼女たちの会話を盗み聞きすることにした。
瀬川葉月と深浦悠もコスプレ姿だった。
瀬川葉月は炎のスーパーアイドルのブリジッドに、深浦悠は薄幸の奴隷少女のシヌーにそれぞれ扮していた。深浦悠は実際の役の設定同様に裸足のまま外に出るんだから、コスプレ姿には妥協がない。
「なによあれ……、あんな美味い紅茶飲んだことないわよっっ!!」
桂木ひなたが叫んだ。
「姐さん、マジですか?」
「あの紅茶は冗談抜きでヤバいわよ……。『グランドマイティ』とは比べものにならないわよっっ!!」
「そりゃあれと比べたらどんな飲み物でもウマイでしょ。水道水のがうまいくらいだし」
「どうする? このままだと負けちゃうわよっっ!!」
「それをどうにかするのが人気声優の力でしょうが!」
「あんただってうちの事務所の結構な出世頭でしょうが!! それにいくら声優でもマズい食い物を美味しくはできないわよっっ!!」
「たしかに『グランドマイティ』の食い物のマズさといったら……」
「そうでしょ? あんなのカバーしきれないわよ」
「『柏の黒豚』と呼ばれたひなた姐さんにマズいと言わせるほどのひどさですから」
「誰が黒豚よっっ!! それに千葉県の名産は落花生やかんぴょうで、黒豚が名産なのは鹿児島よっっ!!」
桂木ひなたとチャラ男は野良犬の喧嘩のごとく吠えている。
「もともとこうなったのも、金に目がくらんだ欲張りがトップだから」
と、深浦悠がぼや口調で言った。
「口をひらけば『儲けろ』ばかりでお客の幸せをこれっぽっちも考えていないから、あのおばさん」
桂木ひなたとチャラ男はすっかり納得した顔になってしまった。
これは内部崩壊状態だな……。
こりゃあ、勝ったな。この勝負もらったな。
俺は一度戻った。
そしてアイスティーを乗せた皿を持って人気声優たちのところへ行った。
「呼び込みは喉が渇きますから、紅茶で喉を潤してはいかがですか?」
一同、びっくりして俺を見る。
「声優さんたちは喉が命でしょう?」
しかし、皆紙コップを手に取った。
飲んでみた。
全員、桂木ひなたが紅茶を口にした時と同じ顔になった。
「どうだった?」
露店に戻ってくると、最上さんが訊ねてきた。
「混乱状態です。紅茶の魔力はすごいですね」
「そう」
最上さんは満足そうだった。
口数の少ない最上さんだが、紅茶を心から愛しているのが黙々と作業している姿を見ていると気持ちが伝わってくる。
「あなたも飲んでみる?」
最上さんは紙コップを俺に差し出した。
「あなた、『トリアノン・ヌーヴォー』の紅茶をちゃんと飲んだことないんでしょう?」
「いいの!?」
俺は紙コップに入った紅茶を飲んだ。
これは……。
野に咲く野草の花びらを思わせる優しい味わいである。
人気声優たちが黙るのも無理はない。
「それ、一杯もらえますか?」
「はいっ! どうぞ……」
最初のお客様が来たかと、振り返った俺は目を疑った。
「……りり子店長!!」
秋葉原のコスプレ洋服店で会ったりり子店長だった。
ジャンパースカート姿のりり子店長はパンダのぬいぐるみを抱えていた。誰がどう見ても、見知らぬおじさんに連れて行かれそうな女の子である。
これで26歳の二児の母とか、詐欺なんじゃないだろうか。
「どうしてこんなところに……」
「今日は『トリアノン・ヌーヴォー』に遊びに来たの」
「それはありがとうございます!」
「『グランドマイティ』と勝負するっていうから、応援にきたの」13
「どうして知っているんですか!?」
「そっちに店長さんの深見さんから。ちなみに、今日の『トリアノン・ヌーヴォー』のコスプレ衣装を用意したのうちだし」
「そうなんですか!?」
「紅茶を」
「はいっっ!! さあ、どうぞ」
りり子店長は紙コップに注がれた紅茶を飲んだ。
「ぷはぁ……、天国天国」
『トリアノン・ヌーヴォー』の紅茶の味は、りり子店長の舌を存分に満足させた様子だった。
「そうだそうだ! 深見さんから聞いたけど、美馬ちゃんの写真のこと連絡したって。『バイバイエンジェル』のやつ」
「あの『カメラ丸撮影記』のことですか?」
美馬を絶望のどん底に叩き落した例の一件についてである。
「ところが断られたのよ。あれは『男の娘』に間違いないって言い張って譲らないって深見さんが言ってたよ」
「えっ!」
「でもその話を聞いて、りり子おかしいと思ったの。だって『男の娘』ばかりこだわって撮っている人が美馬ちゃんを『男の娘』と間違えて撮るなんてありえないもの。それで調べてみたんだけど、カメラ丸は『グランドマイティ』の常連だったの。さらに調べてみたんだけど、カメラ丸は『グランドマイティ』にハマり過ぎて借金を抱えているらしいの」
「マジですか!?」
「りり子が思うに、美馬ちゃんってお姉さんと仲悪かったでしょ? それでお姉さんが嫌がらせのためにカメラ丸に写真を撮らせて自分のホームページに載せるよう強要したんじゃないかな」
「よくそこまでわかりますね」
「ほら、ブラック企業の従業員って例外なく口が軽いでしょ」
「はあ……」
「今回の勝負、こんなに美味しい紅茶を用意しているんだからきっと勝てるよ!」
「いやいや、まだ油断できません。向こうは声優が呼び込みするくらいですから」
「誰か来てるの?」
「さっきまで桂木ひなたがここにいました。瀬川葉月や深浦悠も来ていますよ」
「どこどこ?」
「ほら、あそこに……。あれ? もういないな。店に戻ったのかな?」
「深浦悠もコスプレやってたのよ。うちの店にも服を買いにきていたもん」
「本当ですか!?」
「うん。声優になってからもコスプレ続けていたんだけど、大病院の御曹司と付き合うようになってから店に来なくなったの……。あ、まずい。これ秘密の情報だからみんなには言わないでね。りり子と約束ね」
……深浦悠って二十歳前後だったよな。『グランドマイティ』に行ってからネットで調べてみたら、先月水着の写真集とか出していたはず。
当然。深浦悠が彼氏持ちなんてファンは知らないだろうな。
「そう言えば美馬ちゃんは?」
りり子店長はデパートのおもちゃ売り場にやってきた子供みたいに目を輝かせながら周囲を見回した。
「それが熱を出して……」
「あらぁ」
「ずっと寝込んでいたらしいけど、最近ようやく熱が下がったみたいで」
「それは大変ね。元気じゃないとコスプレもできないから」
声優たちが戻ってきた。桂木ひなた、瀬川葉月、深浦悠がいる。チャラ男もいた。
ただし、もう一人増えていた。
片上愛だった。一世を風靡した音楽アニメの主人公柿崎恵の通う高校のブレザーを着てやってきたのだ。
「妹子くん、『グランドマイティ』って片上愛までいるのっ!?」
りり子店長は俺の腕を引っ張った。
「お、落ち着いて……」
「それはさすがにシャレにならないって!他の三人ならどうにかなるかもしれないけど、相手が悪すぎるって! 片上愛は別格だもの!」
「やあやあ、『トリアノン・ヌーヴォー』の皆さん、どうもどうもっス!」
片上愛はじつに声優らしいよく通る声で話しかけてきた。
見た目はどこにてもいる普通のお姉さんである。でも、このお姉さんは一つの業界でトップに立っているのだ。並大抵の人物じゃないのである。
「美味しい紅茶を配っているみたいっスね。どれどれ……」
片上愛は紙コップの紅茶を手にとって飲んだ。
「う~ん。素晴らしいっス。うちの出がらしの紅茶とは全然違うっスね。やはりちゃんとした喫茶店の紅茶はうまいっっ!!」
「いいんですか? 自分の店の紅茶を出がらしとか言っちゃって?」
「ああ、全然問題ないっスよ。だって、ほら」
片上愛はチャラ男が持っているプラカードを指差した。
プラカードには文字が書き加えられていた。
『日本一紅茶のまずい店グランドマイティ』と。
「『グランドマイティ』は日本一ケチな喫茶店っスからね。最初からお知らせしておかないといけないっス」
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