cinq
目の前に声優界の超大物の片上愛。信じられない。
しかも手と手をつないでいる。至福である。片上愛と一緒に一時間過ごせるのなら全国からファンが駆けつけるのは間違いないのだ。
「緊張してる?」
「そ、そんなことないですよ……」
「でも、びっくりしたっス。男の子なのに女性の格好をしてくるなんて」
「いやぁ……」
「ひょっとして『トリアノン・ヌーヴォー』からの偵察?」
俺の表情を覗き込むようにして、片上愛が言った。
(バレた……!!)
俺は片上愛の手を振りほどいて逃げようとした。三十六計逃げるにしかず。
しかし……。
扉の前には、先ほどひなた姐さんと呼ばれた女性が立っていた。
なぜかソフトクリームを舐めながら……。
「あんた、どこ行こうとしているのよ」
ズカズカと部屋に入り込むと、俺の腕をつかんで元の場所へと座らせた。
女の腕力ではない。
抵抗したら俺の腕がへし折られるんじゃないかと思うほどの怪力だった。
「……用心棒ですか?」
「あんた馬鹿? どこからどう見ても声優にしか見えないでしょうが」
いや、そんなの見た目でわからないって。声優って見た目関係あるんですかねぇ……。
「ひなたちゃんは怪力だから。この業界わかんない人にはボディーガードだと勘違いするって。この人は声優の桂木ひなた。声優一の大食いっスよ」
「失礼ね! これでも音楽大学の声楽科出ているのよ! アーティストなのよ! アーティスト!」
そういって俺の肩を組んで、
「あんた、あたしのCD買いなさいよ」
「何のCDですか?」
「あたしの三枚目のCDよっっ!! オリジナルアルバムよっっ!! 友達にもすすめて視聴用に観賞用に布教用と三枚ずつ買いなさいっっ!!」
「すいません。俺の知り合いは瀬川葉月のファンでして」
そう言うと、もう二人扉の前にやって来た。
ん? 一人はどこかで見た顔だな……。
「葉月ちゃんに悠ちゃん。中に入って」
葉月って、瀬川葉月か! 賢一郎さんのファンの!
白雪姫みたいに色白な女の子だ。
声優にもこんな美少女いるんだ……声優とか興味なかったが、この子はマジでかわいいわ。
と、もう一人の背の低い長い黒髪の女性が部屋に入ってきた。
それこそ幽霊のように音もなく、すすす、と。
「ファンじゃない方の深浦悠が入りますよっと」
ぼそっと小声でつぶやく。この人、こんな小声で声優なんてできるのかねぇ……。
それにしても。
漫画喫茶みたいな小さい部屋に男が一人。女が四人。
しかも、片上愛に手を握られてひなた姐さんという女性に首根っこ捕まえられて。
俺、女装しているんですよ。
万引き犯でも捕まえたかのような警戒ぶりである。
「すっごい高い服を着ているわよね。あたし、こんなお洋服着たことない」
瀬川葉月が目をキラキラさせて俺の洋服を見た。
「『トリアノン・ヌーヴォー』ならそのくらいやると思うよ」
ぼそりと深浦悠がつぶやいた。
「あそこは金を惜しまないから。声優の安いギャラじゃこんないい服一生着れないもん」
恨みがましい目で俺のことを見る。
いや、そんな目で見なくても。これは会社から買ってもらったもので、しかも女物の服なんで。男の俺には関係ない服なんですよね。
「『トリアノン』が男女性別違うのがウリといっても、ここまで徹底する必要がないんじゃないの?」
「こんないかがわしい店に女の子を送れないと思ったんじゃないっスか……。待てよ。ということは、平塚さんも『トリアノン』で働いているわけ? しかもメイド服で!? これは興奮ものっスね。一度遊びにいこうかな……」
「愛!」
「怒らないでよ、ひなたちゃん」
「でも、不思議っスよ。平塚さんみたいな硬派な絵を描く人がなんで『トリアノン』で働いているんスかね?」
「それは平塚さんが女性を描くのが下手で、絵が上手くなりたいから女装の格好をする『トリアノン』で働いていると……」
と、俺が口にすると、
「そうっスか!! 絵のために女装までするとは! 平塚さんは本当に絵師の鑑っスよ!」
「ということは、やっぱり『トリアノン・ヌーヴォー』の偵察なんだ」
ぼそっ、と深浦悠がつぶやいた。
しまった。余計なことを言ってしまった。
口は災いの元とはまさにこのこと。
「ねえ。君、ひょっとして好きで『トリアノン・ヌーヴォー』に入ったわけじゃないんじゃないの?」
「な、な、な、なにをそんなこと、そんな馬鹿な……」
突然のことに俺はどもってしまった。
「言われてみれば、たしかに好きで『男の娘』やっているように見えないっス」
「嘘でしょ。だってめちゃくちゃ似合っているじゃん」
「だからこそよ。ひなたちゃん。じつにお似合いだから、『トリアノン・ヌーヴォー』に騙されて無理やり『男の娘』やらされているんじゃないの?」
うっ……。
間違っちゃいない。正しくは芦名美馬に脅迫されて仕方なくだが、当たらずとも遠からずである。
このままだとヤバい。
身の危険を感じた俺は、
「誰かぁぁぁぁ!! 助けてくれえぇぇぇぇ!!」
大声で助けを求めた。
女に囲まれて助けを求めるなど恥ずかしいが、背に腹は変えられない。プライドよりも命のほうがずっと大切だ。
全力で叫んでいるのだ。誰でも異常事態だとわかる。
瞬く間にどうしたのかとお客が集まる。
「えっ!? 愛ちゃん?」
「片上愛いるぞ!」
超人気声優がいると聞きつけたお客は飢えた野獣のような勢いで集まってきた。
『グランドマイティ』は騒然とした雰囲気につつまれた。
なにしろ片上愛である。天下の超人気声優である。片上愛の姿を見ようと、客がぞろぞろとこっちにやってきた。
「何やっているの?」
お客は不思議そうな顔をする。
「そもそも、ここは男は女性が接待するんでしょ? 女同士でなにをやっているの?」
「男の娘捕まえたの」
片上愛は嬉々とした表情で言った。
「だから接待しているの」
すると、お客は納得したかのように、
「はあ、男の娘か。それなら納得」
「愛ちゃんに接待してもらえるとは羨ましいかぎりだ」
「いや、まったく」
「違うんです! 俺、出たくても出られないんです! 助けてください……」
「そういうわけだから。」
「いや、助けてください! 俺、この人たちに捕まっちゃっているんです!」
お客は俺の言うことに一切耳を貸さない。
なにしろ俺は人気声優ではないのだ。
『風の谷のナウシカ』に宥められた王蟲のごとく、ぞろぞろと去っていった。
……ここの客たちは完全に洗脳されている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます