第5章 働いていたら何か崇高な感情が覚醒しました。
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七月に入ったがまださほど蒸し暑くはなかった。今日は『トリアノン・ヌーヴォー』は休館だが、使用人としての仕事の覚えるための講習がある。
館にやってくると、
(おや……)
花壇に咲いている花が普段と違う。
以前までは様々な色の紫陽花が咲き誇っていたが、今日の花はいつもと違う。池に浮かんでいる睡蓮の花も色が違う色になっていた。
どういうことかと首をかしげていると、庭先で立っている一人の人物を見つけた。
岩清水乱介社長だ。
社長と会ったのは面接以来だ。
館を見つめたまま微動だにしない。その背中姿はどこか企業のトップが持つ厳しさと寂しさのようなものが感じられたが、俺が見ているのに気づくと笑顔でこっちに近づいてきた。
「久しぶりだね」
柵越しに社長から挨拶してきた。
俺は恐縮して頭を下げた。
「深見さんが君のことを大変誉めているよ。感心感心」
「社長、庭の花が変わってますね」
「うん。6月は紫陽花だったけど、桔梗とホタルブクロに変えてくれって頼んだの。池の睡蓮も変えた」
「全部ですか!?」
「うん。うちは毎月花変えているから」
花を毎月全部とりかえるなんてなんと贅沢なことやら。
ここの社長は本当に金を惜しまないというか……。
「さすがに館を毎月建て替えるわけにはいかない。しかし、内装がずっと一緒というのも変だよねぇ。今度、いっぺん変えてみようかな」
などと、涼しげな顔で言う。
金儲けというよりも、お大尽遊びのような感覚でこの喫茶店運営しているのかもしれない。
「深見さんが君のこと大変気に入っているみたいじゃない」
「いえ、そんな……」
「僕も君を気に入っているよ」
「俺をですか!?」
「君は『トリアノン・ヌーヴォー』に新しい風を吹き込んでくれる逸材だよ。僕の勘に狂いはないよ」
「はあ……」
「そういえば、この前『グランドマイティ』に偵察に行ってくれたんだよね。ご苦労さま」
「はい」
「しかし、たった一回の変装で100万円も使っちゃうのにはさすがにまいったよ」
ああ……。
こんな大金持ちでもさすがにあの金の使い方は尋常じゃないと感じるよな……。
「深見さんは『男の娘』に対しての愛情が半端じゃないからね。たかが変装にそこまでの大金は必要ないと思うんだけど。ここだけの話、あの人は一度暴走すると歯止めがきかない。僕は押しも押されぬ岩清水の総帥だが、深見さんだけはねぇ……」
「そうですさ。ははは……」
「今度、取材あるんだよ。深見さんから聞いた?」
「はい」
「今度さ、一時的にだけど予約制やめようと思うんだ」
「えっ!」
「庭にテーブルや椅子を置いて、野外で『トリアノン・ヌーヴォー』を堪能してもらおうと思うんだ。今回は値段をさらに安くしてメニューのほとんどを1000円以内で抑えてさ。うちの店をみなさんに知ってもらうチャンスだよ!」
社長は大きく手をひろげて、明るく弾んだ声で言った。
「社長、一つ聞いてもいいですか?」
「いいよ。聞いてくれ」
「なんで金儲け主義の『グランドマイティ』がこんな場所にまで出店したんでしょう?」
「そりゃ、向こうはうちが嫌いだから」
「しかし……」
「これは『トリアノン・ヌーヴォー』と『グランドマイティ』だけの問題じゃないんだ。これは代理戦争なんだ。岩清水と宇賀神のね」
岩清水社長は、経営者の顔になっていた。
「向こうは僕の金持ち道楽的な考えが嫌いなんだよね。宇賀神は競争主義の権化のような男さ。僕は金持ちの坊っちゃんだが、あいつは成り上がりさ。人間ってのはみんな金を稼ぐためにもがき苦しまなくてはならないと考えているんだ。売上イコール人間の価値と考えている男さ」
そう言って社長は腕を組み、真剣な面持ちで話を続けた。
「僕も企業の経営者だから売上は無視しないよ。しかし、商売を通してそれにかかわる人々、たとえばお客様や従業員にも幸せになってもらいたいと考えている。商売で人々を幸せにしたいんだ。そこが僕と宇賀神との違うところさ」
「たしかに社長はお金持ちっぽくないですよね」
「それはこんな格好だから?」
「いや、それは、その……」
「僕の母親が小学校の教師だったんだよ。金持ちとは思えないほど質素な生活だったからねぇ。学校も高校までずっと公立だったよ。大学は私立だったけど、僕よりもほかの連中の方がいい服を着ていたね」
「あと一つだけ聞きたいことが」
「なに?」
「どうして男をメイド、女を執事にしたんですか?」
「それは深見さんに聞いて」
「はいっ……!?」
「たしかに『トリアノン・ヌーヴォー』を作ったのは僕だけど、こういう風にしたのは深見さんだから」
社長は笑いながら『トリアノン・ヌーヴォー』の設立のいきさつについて説明した。
「予約制の本格的なコスプレ喫茶店を作ろうとしたのは僕。館の設計も僕が作ったんだよ。ただし『それならいっそ奇抜な内容にしましょう』と言ってメイドと執事の性別を逆にしたのは深見さん。言っとくけど、深見さんはただの雇われ店長じゃなくて、岩清水グループの役員取締役だから」
以前、フランス料理店で俺が食べているのを深見さんがにこにこ笑って見ている姿を思い出した。
(……あの人がすべての元凶か)
「この町はね、青葉が丘駅の北は岩清水、南は宇賀神が押さえているんだよ」
「ということは……」
「そうだよ。この辺一帯の住宅地、全部岩清水が開発した土地だよ」
「マジですか?」
「もともと『トリアノン・ヌーヴォー』は浮き世を忘れて楽しんでいただけるようにとの願いをこめて、こういう静かな場所に建てたんだ。それを宇賀神のやつが邪魔しに来るとは。まったく無粋だねぇ。ふふふ……」
岩清水社長の目は笑っていなかった。
「妹子くん、今度の取材の企画、絶対に勝とう。これは単なる喫茶店の戦いじゃない……岩清水と宇賀神という企業の争いの枠さえ超えているんだよ。これは正義と悪の戦いなんだよ」
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