quatre
「ちょっと、あなたたち!」
これには紅茶好きの最上さんが怒って叫んだ。
「喫茶店なのに美味しい紅茶を出さないってどういうことなの!?」
「そりゃあ、『グランドマイティ』の店長がケチだから」
は、はっきりと言いやがった……。
「それはおかしいわよ。お客をバカにしてるわよ!」
「それは実際にバカにしているから反論のしようがないっス」
片上愛は悲しそうに溜め息をついた。
改札口の辺りが騒がしくなった。ぞろぞろとやってくる。おそらく『グランドマイティ』目当てにやってきたのだろう。
当然、片上愛らがここにいるんだから注目はこちらに集まる。
『なんだ、あの紅茶まずい店ってのは……』と、声優目当てにやってきた面々がつぶやいている。
「日本で一番マズい喫茶店『グランドマイティ』は南口を出てすぐっスよ~」
「……愛ちゃん?」
声優ファンの一人が声をかけた。
「何なの、この看板。日本一紅茶がまずい店って?」
「言葉の通りっス」
「そんなにマズいの?」
「そりゃもう。ひなたちゃんがマズいと言うくらいだから」
桂木ひなたがむっとした顔をする。彼女はファンの間でも食いしん坊キャラらしかった。
「マジで!? なんでそんなに喫茶店なのにマズいの?」
「ほら、『グランドマイティ』って金儲け主義じゃないですか? 経費削減っス」
「大変だねぇ」
「そうそう。だから皆さんに貢いでもらわないとあたしたち大目玉食らうっス」
最上さんはもう耐え切れなくて我慢できないといった様子だった。
紅茶を大事にしている彼女からしてみれば、『喫茶店』なのに紅茶が無視されているなんて許せないのだろう。
「うちの紅茶を飲んでみなさいよ!」
そう叫ぶと、アイスティーの入った紙コップを声優ファンたちに突きつけた。
今日は暑い。声優ファンの皆さんとて喉が渇いているはず。
彼らは飲んだ。
「これは……」
「本当にうまい……」
声優ファンの皆さんはこれまで味わったことのない紅茶に驚嘆していた。
舌はいつだって正直である。
「あそこに地図あるな……。15分か。遠いけど、行けない距離じゃないよな」
よし。
声優ファンの皆さんが、うちに興味を持ち始めてくれだぞ……。
「でも」
と、片上愛が囁くように言った。
「美味しい紅茶はいつでも飲めるけど、声優さんとの楽しい一時は今しか味わえないっスよ」
せっかくの紅茶の魔力も声優の囁きにかき消されてしまった。
(これはヤバいぞ)
風向きが一瞬にして『グランドマイティ』に変わったのを俺は感じた。
「だ、だったら……まずは向こうで遊んで、それから帰りに『トリアノン・ヌーヴォー』によってもらっては?」
「それはないっス」
きっぱりと片上愛が言った。
「本妻の家に行ってから愛人の家に行くようなものっス。あたしたちを愛してくれる皆さんは、もちろん『グランドマイティ』に操をたててくれるっスよね?」
こ、この人……あくまでもうちの店に行かせない気か。
『トリアノン・ヌーヴォー』にさえ足を運んでくれれば、深見さんたちが心のこもったおもてなしをしてくれるはずである。『トリアノン・ヌーヴォー』の良さをきっとわかってくれるはずなのだ。
しかし、片上愛はそれを許さない。
たぶん、片上愛はわかっているのだ。この人たちが『トリアノン・ヌーヴォー』に行ってしまったら、どちらが優れた喫茶店なのかバレてしまうことを。
この人たちは、片上愛たち声優のファンなわけで。つまりは彼女たちの言うことを聞くわけで。
(これは、どう考えてもダメだろ……)
この勝負、俺は負けを覚悟した。
その時であった。
かつかつ、と。
革靴の音が駅の構内に響き渡った。
喧騒とした雰囲気にそぐわない厳粛な音色をもつ足音に、俺たちは会話をやめて振り返った。
芦名美馬だった。
『ふかざと洋服店』が丹精込めて作った『トリアノン・ヌーヴォー』の執事姿に身をつつんだ美馬は、その場にいるだけで完璧な存在だった。青葉が丘駅にする人間すべてが凝視しているにもかかわらず、芦名美馬はあくまでも職務に忠実である執事として、周囲には一顧だにせずこちらに向かって歩いてきた。その表情は職務を遂行する以外の感情は一片も存在していなかった。昔アニメで聞いたブラームスの第一交響曲の第四楽章がBGMとして流れているような錯覚を受けた。すべてが止まっていた。それはもはや黄金の額縁のなかの一枚の絵画であった。
「美馬……」
「違うじゃないか」
「え?」
「メイド服で待っていると言ったじゃないか」
「そ、それはさすがにここでは……」
美馬は微笑して、テーブルについた。
声優ファンの皆さんは、誰一人として『グランドマイティ』に向かおうとはしなかった。
皆、石像のようにその場から動こうともしない。
「あんたら、ぼさっとしてないで『グランドマイティ』に行かないと!」
焦った桂木ひなたが叫ぶ。
しかし。
「俺たち、あんな執事見たことないもん。しかもあれって女だろ?」
「全予約制の本格的なメイド喫茶だろ? 料理うまいらしいけど……」
ここにいる人たちは『トリアノン・ヌーヴォー』のことを知っていた。
美馬の登場によって流れが一気に変わった。
ふたたび『トリアノン・ヌーヴォー』に興味を持ち始めてくれたのだ。
芦名美馬の執事姿は、声優たちへの愛をも上回っていた。なぜならば、それは彼らにとって非日常の世界だったからだ。彼らはすっかり心を奪われていた。
「紅茶、一杯いただけますか?」
片上愛が、一歩、前に進み出た。
先ほどまでの気さくなしゃべりではなかった。
最初に出会ったときのような、二十代半ばの女性の声だった。
「どうぞ」
美馬は紅茶を手渡した。
その挙措動作は一種犯しがたい神聖なものさえ感じられた。
片上愛は、紙コップを両手で持ってゆっくりと飲んだ。
「とても美味しいです」
「お褒めにあずかりまして恐縮でございます」
「……プロの役者さん?」
「いいえ。レイヤーでございます」
「コスプレイヤー? というと、モデル?」
「しがない女子サッカー部員でございます」
「……それはさすがに冗談でしょ?」
大人びた調子で片上愛が言った。
「仁徳高校のスポーツ科学コース科の1年生でございます。偏差値44でございます」
「おい、あれってコスプレイヤーかよ……」
「偏差値44とか、完全に俺ら側の人間じゃねぇかっっ!!」
「見た目はあんなに凛々しいのにな……」
群集がざわざわとざわめいている。
「嘘よっっ!! こんなレイヤーいないわよっっ!」
深浦悠が美馬を指差して怒鳴った。普段からミステリアスな性格で知られている深浦悠だが、
「あたし専門学生時代、コミケでコスプレして売り子やっていたけど、この人からはそういう匂いがしないものっ!」
「と申されましても、本人が言っているわけですから」
「同じ種類の人間は匂いでわかるのよっっ!! この人は絶対うちらと違う種類の人間よっっ!!」
「それなら証拠をお見せしましょう」
美馬はスマートフォンを取り出した。
例の『バイバイエンジェル』のバイバイハッピーに扮した画像だった。
それを見た一同、愕然とした。
美馬と画像のなかの美馬を交互に見た。
何度も見比べた。
「……同一人物?」
「左様でございます」
美馬は恭しく頭を下げた。
「まだ修行が足らず、男と間違われることもある三流のレイヤーでございますが」
そう言う美馬の目はすこし潤んでいた。
(秋葉原で一件をまだ気にしているのか……)
一度傷つくと相当引きずるタイプの人間らしかった。
早くりり子店長から聞いたことを教えてあげたいが、いまは状況が状況なのでそういうわけにもいかない。
りり子店長もコスプレイヤーの先輩として心配そうに美馬を見ている。
「いやいや、でもここにいるお客さんは『グランドマイティ』目当てに来てくれているのですから……。まさか皆さん、『トリアノン・ヌーヴォー』に寄るとかしないっスよね?」
それを聞いた美馬は眉をひそめた。
「一つお訊ねしますが、『グランドマイティ』の料金はいくらするのでしょうか?」
「1時間たったの1万円です。安いものです」
1万円って安いかねぇ……しかも1時間1万円というのはあくまでも基本料金で、オプションで金を搾り取ろうというのが魂胆なんだがな。
「左様でございますか」
美馬は大きくうなずいた。
「私どもは紅茶にケーキがついてたったの980円でございます」
「980円……」
「お客様に1万円の金を使わせておいて、たった980円の金を使うなとはおかしな話でございます。そもそもお客様が何にお金を使うかはお客様自身が決めることでございます。それを店側が命令するなど笑止千万、『グランドマイティ』という店の品性を疑うばかりでございます」
片上愛は『ぐぬぬ……』とうなるほかなかった。
まったく芦名美馬の執事ぶりといったら一点の曇りもなかった。あの片上愛を相手にしても、まったく付け入る隙をあたえないのだから。
「あんたら、何をやってるのよ!」
芦名摩美だった。前日同様に毛皮のコート姿で登場した摩美は、片上愛たちを怒鳴りつけた。
「もう開店したのにまだ一人もこないなんて、何をやっているのよ!」
「店長、申し訳ありません。ちょっとトラブルがあって……。人が見てますから」
チャラ男がなだめるが、芦名摩美は感情を抑えることができず怒鳴り続ける。
「相手は素人よ! 声だけが自慢の声優風情じゃなくて、もっと色気のある有名なグラビアアイドルの事務所と提携できれば『トリアノン・ヌーヴォー』なんてイチコロだったのに……」
美馬は姉と目をあわせようともせず、ただ無言で立っていた。
「ちょっと静かにしたらどうだね?」
「あんた誰……」
「『週間ウェンズデー』の取材のものだが」
40代の髭づらの男立っていた。いかにも業界の人間といった雰囲気を漂わせている長身痩躯の男は、若いカメラマンを引き連れていた。
「あらぁ! それはごめんなさい。あたしったら興奮しちゃって……」
摩美は急に態度を豹変させて、名刺を差し出した。
しかし、『週間ウェンズデー』の記者は名刺を受け取らなかった。
「そうだねぇ。色々と聞きたいことあるから」
記者の目は笑っていなかった。
「未成年をだまして消費者金融行かせているんだって?」
「そんなのデマでしょう!
「ところが、絶対に信用できるんだな。これが」
「……何ですって?」
「なにしろその被害者の一人がうちの娘なんだよ」
「ひえっ……」
芦名摩美の表情が、凍った。
「それ、いつのことですか?」
チャラ男が真顔で訊ねた。
「今年の2月頃だ」
「あ、じゃあうちは関係ないです。うちの事務所が『グランドマイティ』と提携したの今年の春なんで。俺たちはファンから消費者金融に行かせるほど搾取はしてないですよ」
「記者さん、聞いてくださいっスうううううううううううっっっっ~!!」
片上愛はいきなり記者の腕にすがりついて号泣した。
「あたし、この女に枕営業強要されたっスぅぅぅぅ~!! もちろん断り続けているんだけど、とんでもないクソ外道っスぅぅぅぅ!!」
「それ、あたしも言われたわ」
桂木ひなたが、つぶやくように言った。
「他にもえらい人に会わされてお酒の御酌とかさせられたり。いや、それだけならいいんだけど、えらい人たちにドラマの主役にしてやるから一番付き合えとか言われたし」
「ひなたちゃん! それ、嘘よねっ!! そんなこと冗談よねっっ!! ねえ、嘘だと言って!!」
芦名摩美は我を忘れて動揺している。
……おそらく桂木ひなたの言っていることは事実だな。
「それ、引き受けたんですか?」
『週間ウェンズデー』の記者が訊ねる。
「もちろん断ったわよ。酒の席の言葉なんて信じないわよ。たくさんオーディションに出ていているから役を取るのがどれだけ大変なことかわかってるつもりだし。でも、この女は、えらい人と関係もった方がいいってしつこく言ってくるのよ。断ると今後の活動に差し障りがあるとも脅されたし。この女、とんだ美人局だわ!」
「それ、あたしも言われました」
「あたしも」
瀬川葉月や深浦悠も言った。
……ちなみに瀬川葉月は声優だが現役高校生でもある。
「芦名摩美は芸能事務所の社長の愛人なんだよ」
と、『週間ウェンズデー』の記者が怒りの感情を込めて言う。
「芸能事務所にはヤクザが経営しているようなのが多いんだが、こいつの愛人はリアルに組と杯交わしている本物だから。こいつ、ホステス時代から売れない芸能人の女の子を騙して金持ちに紹介して春を売らせていたんだ。それで今度は声優界にまで手を出そうとしているわけ。ちなみに稼いだ金を何に使っているかというと、これが若い男を買っているんだ。悪銭身につかずの典型ってわけだ」
それを聞いた声優ファンたちの目つきが変わった。
愚民たちは怒っていた。
「『グランドマイティ』ってクズな喫茶店だとは思っていたが……」
「いや、うわさには聞いていたけど……」
「声優に枕営業を強要とか……」
「あそこのブスの過去洗いざらい調べようぜ」
「いや、待て。『グランドマイティ』って親企業は宇賀神だったよな」
「よっしゃ! 俺たちで不買運動起こそうぜ!」
……祭りが始まるな。
ネット界隈でしばらくはこの話題が持ちきりだろうな。
ゴシップ雑誌とネット住民のダブル攻撃とか、宇賀神の関連企業の株価どれだけ下がるのかなぁ。
「そ、そんな……」
芦名摩美はその場に崩れ落ちた。
こうなったら『グランドマイティ』が凋落するのは誰の目から見てもあきらかだった。
がっくりと膝をつき両手を地面につけて顔面蒼白の摩美に、執事姿の芦名美馬が近づいて肩に手を置いた。
「姉さん」
「み、美馬……。助けて……」
「やってしまった事は仕方がないよ。これからは迷惑をかけた皆さんに償っていかないと」
美馬は寂しそうに笑った。
かつて秋葉原で見た光景とまったく正反対の光景だった。もっとも、こちらの場合は摩美がみずからの悪行のせいで招いた結果なわけだが。
「今度生まれ変わるときは真人間になってください。それが妹である僕からのお願いです」
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