six
やっとのことで勤務一日目が終了した。
「お疲れ様~」
俺は着替え終わってロッカー室を出ると、深見さんが声をかけた。
「お疲れ様でした……」
「どうだった、今日は」
「はい……」
その時の俺は口から霊魂が半分出かかっていたような顔をしていたと思う。
「一生味わえないような貴重な体験をさせていただきました……」
「そぉ。それは良かったわ。ここにいればもっと面白い事がいっぱいあるわよ」
「面白い事ですか」
もう、十分過ぎるくらいにあり過ぎた。
これ以上面白いことなど、むしろ起こって欲しくない。
平穏無事なのが一番だ。
午後来たお客さんは物静かな方だったので、何事もなく業務を終了することができた。
「明日は休みで、次の出勤日が来週だったわよね」
「はい」
「あのさ、相談があるんだけど」
「何でしょう?」
「妹子くん、部活入ってなかったよね? できれば、平日の夜も来てほしいんだけど」
「え? どうしてですか?」
「うち、一番の稼ぎ時が夜なのよ。夜にやってくるお客様はディナー食べたりワインを飲むから値段が高いのよ。もちろん未成年だから9時までには帰ってもらうけど。妹子くんは部活やってないでしょ」
「はぁ……」
「考えといて」
深見さんには言わないが、当然、俺は行く気はなかった。
美馬に脅されているからやっている仕事じゃないのである。どうして平日までメイドの格好をしなければならないのか。
いや、待てよ。
たしか美馬が働く日は土日だったはず。
メイド服を着て働けとは命令されたが、美馬と同じ日に働けとは言わなかったよな。
ということは働く日を土日から平日に差し替えれば、美馬に会わなくていいんじゃないのか。
(これはチャンスかもな……)
平日にここまで来るのは交通的には一苦労だが、背に腹は変えられない。
「わかりました。考えてみます。それではお疲れさまでした」
「あらぁ。帰っちゃうの?」
「えっ?」
「美馬ちゃんが着替え終わるまで待ってあげたらいいのに。彼女もさっきので仕事終わりだから」
「彼女ももう今日は終わりなんですか!?」
「うん」
「……失礼しますっっ!!」
俺はあわてて『トリアノン・ヌーヴォー』から逃げ出した。
背後で『もう、照れ屋さんなんだから』と深見さんがわけのわからないことを言っていた。
――走った。猛烈な勢いで走った。
閑散とした郊外を一気に走って国道へと辿り着き、それからまっすぐ駅へと突っ走る。
すでに息切れしている。心臓がバクバク言っている。
なにしろ運動慣れしていない帰宅部だ。あっという間に体力がなくなる。
半分も走らないうちにバテてしまったが、それでも足を動かすのを止めなかった。
正真正銘、本気の100%で走った。
通行人が身内に事故があったのかと勘違いするくらい、必死の形相をしていたと思う。
体力の限界と戦う俺の頭の片隅で『がんばれ妹子!』って『多古西応援団』が応援してくれているような気がした……。
そして、駅に到着した。
「はあ……。はあ……」
足が悲鳴をあげていた。もうこれ以上は走れないというくらい走った。
プラットホームをみると白髪混じりの中年の男性が一眼レフのカメラを持って構えていた。鉄道ファンいわゆる鉄オタだろう。私鉄の電車ではこういう人物をたまに見かける。
ケータイが鳴った。
こんな時間に誰だろう……。
俺は電話に出た。
「やあ、今日一日ごくろうさま」
ぎょっとした。
それは芦名美馬の声だった。
「ど、どうして俺の電話番号を……」
「履歴書送っただろう? そこに君の携帯番号も書いてある」
「履歴書を覗き見たのかよ!?」
「見てないよ。でも、非常時のときの連絡先としてみんなの携帯番号が休憩所に貼ってあるの気づかなかった? あれでバイトの連絡先全部わかるんだ。それよりも明日は非番でしょ?」
と訊ねる美馬の声は、じつに嬉しそうに弾んでいる。
「僕といっしょにアキバに行こうよ」
「アキバ? 誰それ? どこかの偉い人?」
「いやだなぁ。秋葉原だよ。まさか秋葉原くらい知っているよね?」
「そりゃあ、秋葉原くらいは……」
「じゃあ、明日さっそく行こう。行きつけの店に新作のコスプレ出たんだよ。以前から待っていた待望のシリーズがとうとう出たんだ。篝火マキ知ってる? あれ欲しいんだよ」
「それを買いに行くのに、俺に一緒に来いと……」
つまりは荷物持ちでもさせようというわけか。
「明日は人と会う約束があるから……」
俺はとっさに嘘をついた。
「ふうん。じゃあ、断りなよ」
「え?」
「明日は僕と一緒に秋葉原に行こう。ね?」
この場はなんとしても逃げなければならないと思った。
「頼むから明日は勘弁してくれっっ!!」
「断るの?」
「お願いっっ!! 土下座して頼んでいるからっっ!!」
「へえ、君、土下座しているんだ」
「そうだよ! 人目もはばからず土下座しているんだよっっ!! だから見逃してくれっっ!!」
もちろん、土下座はしていない。
受話器で会話しているんだから、実際にどんな格好をしているかまではわかるまい。
「じゃあさ、後ろ振り向いてよ」
言われるままに振り向いた。
すぐ真後ろに芦名美馬が立っていた……。
サッカーボールを小脇にかかえながらスマートフォンで会話していた美馬は、笑顔で俺に手を振った。
俺はその場で持っていた携帯を落としそうになった。
「君は僕から逃げようと必死に走っていたよね。でも残念なことに僕はマラソン大会はいつも1位なんだ。足には絶対の自信があるんだよ」
そう言って美馬は涼しげな顔をしてスマートフォンをポケットに入れた。
こんな間近にいるんだから、電話で話す必要なんてない。
「そうだ。『男の娘』になった記念に自己紹介の文章を書いて僕に見せてよ」
「……自己紹介の文章?」
「君、知らない? メイドの場合、『男の娘』になり切って自己紹介文を書かないといけないんだ。自己紹介文を書かないと給料上がらないんだよ」
「どれだけ上がる?」
「時給が800円から1000円になる」
「1000円!!!」
時給200円UPはデカい。
それも自己紹介の文章を書くだけで。
時給200円分の差が高校生にとってどれほど大きいことか。
とはいうものの、事態はそんなに単純な話ではない。
(『男の娘』になり切ってという部分が問題だよな……)
たとえば読書感想文みたいに『○○はえらいと思います。僕にはとても真似できません』とか書いたらいけないというわけだ。嫌々書いた文章ではダメだというわけだ。
しかし、
(普通の高校生が『男の娘』の気持ちなんかわかるかよっっ!!)
そんな文章思いつくわけがない。そもそも『男の娘』が何考えて生活しているかなんて想像もつかない。
「君がずっと男の娘として成長しないのは見ていて不憫だからね。だから僕が君が一人前の『男の娘』になれるよう見守ってあげたいんだよ」
とんでもないことを言いやがる……。
俺が、『男の娘』として育てられることになるだと!?
しかも、同じ年齢の男みたいな女の子に、だ……。
「明日の朝9時半に津田沼の駅前で。遅れないでくれよ」
芦名美馬は恍惚の笑みをうかべていた。
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