第2章 入社初日のお客様はドイツ第三帝国の亡者どもでした。

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 足が重い。

 いやはや。

 何の因果でこうなってしまったのか……。



 俺は『トリアノン・ヌーヴォー』へと向かっている。

 バイトの初出勤である。


 正直、行きたくない。絶対に行きたくない。

 が。

 気がすすまないからサボるという選択肢は、ない。


 あるはずがない。

 行かなければ、俺の性癖がバラされる。


 どんな漫画を買ったのか全部バラされるのだ。逆らえるはずがない。前代未聞の残虐な公開処刑である。エロい漫画をいちいち買ったことを全部バラされるのである。


(男の一番弱い部分を突いてくる……)


 気にするな、と言う人間もいるかもしれない。


 しかし、それは不可能である。エロ本を読んだのを見つかったくらいで気にするなという人もいるかもしれない。

 美馬の場合はレベルが違う。

 どこどこの本の何ページがダメだとはっきり言われるのだ。

 偏執的とでも言うべきか、美馬は俺が買った本をすべて把握していて、しかもそれをリスト化しているのだ。もしも、俺が『トリアノン』を辞めたらデータ化したものを送りつけていると脅迫しているわけだ。


(高校生活が、終わる)


 復讐される事をしていないのにリベンジポルノ状態に、俺の精神では耐えることができない。


 だから不本意ながら『トリアノン・ヌーヴォー』で働かなければならないのだ。

 男なのにメイド服を着て働かなければならないのだ。


 おかしい。

 どう考えてもおかしいのは百も承知である。


 しかし、それが現実なのだから仕方がない。


 『トリアノン・ヌーヴォー』は青葉が丘にある。俺の家から二駅乗って、駅を降りて北口から歩いて10分ほどの場所にある。


 もちろん交通費は出してくれるが、学生がバイトで通うにはなかなか遠い場所である。


 かといって、あまり近い場所でバイトをしたくはない。


 近所に俺のことを『妹子だ妹子だ』と指差す連中がいるからだ。


 小中学校のことは思い出したくもない……。


 駅を降りて、国道沿いに歩く。建設中の巨大マンションがいくつかあった。剥き出しの鉄骨をみて、俺はなんともいえない感慨深い気持ちになっていた。


 『トリアノン・ヌーヴォー』に到着した。

 『トリアノン・ヌーヴォー』は静かな住宅街を抜けた郊外にある。



 それは喫茶店とは信じられない、映画の世界に出てくるような瀟洒な館だった。



 入り口の扉には『トリアノン・ヌーヴォー』の看板がぶら下がっている。といっても、フランス語で書かれているので高校生の俺には読めない。


 正面の格子には薔薇が幾重にも巻きついている。手にとってみると精巧な造花だった。


 庭先には紫陽花が庭一面に咲いている。

 池には睡蓮が浮いている。


「本格的だな……」


 店長の深見さんが、この喫茶店は社長が趣味でやっている商売というようなことを言っていた。

 深見さんはそれを『愛』と表現していたが、たしかにこの館からは持ち主の『愛』が感じられる。


「たしか、裏口から入ってくれと言われていたよな」


 俺は、事務所の裏口に回って扉を開けた。


 扉は普通の扉だったが、まるで鋼鉄製のように重々しく感じられた。

 館に入って廊下を歩いていると、部屋の中で椅子に腰掛けてケータイをいじっている男がいた。

 休憩室らしかった。

 部屋の中を覗いて、絶句した。


(俺、喫茶店のアルバイトに来たんだよな……)


 休憩室は惚れ惚れするほどに『オタク』なグッズがあちこちに散らばっていた。フィギュアなんてのは序の口、人間並みの大きさのロボットやら、魔法少女の等身大の抱き枕やらが散乱している。


 俺が唖然としてその場に立ち尽くしていると、

「何や自分?」

 男が不機嫌そうにこっちを見た。


 髪を赤く染めているその男の半袖からはムキムキの筋肉が盛り上がっている。

 顔は面長だがえらく体格が良かった。突き飛ばされたら何メートルも吹っ飛びそうだ。


「『トリアノン・ヌーヴォー』の方ですか?」

「そうやけど、自分は?」


 赤い髪の男は、携帯画面を見たまま訊ねてきた。


「俺、今日からここで働くことになりました鹿島といいます。よろしくお願いします」

「働くって、メイドか?」

「はい、そうです」


 赤い髪の男は驚いてこちらを見た。

 まるで『アルプスの少女のハイジ』のクララが立った場面に出くわしたのかと思うほど信じられないといった顔をしていた。


「マジか……」


 賢一郎さんは立ち上がると、俺のところに近づいて両肩を叩いた。

 バシっと、ね……。正直、痛かった……。


「川崎賢一郎や。よろしく」

「こ、こちらこそ……」

「こんな場所で働きたいなんて君もけったいな人間やなぁ。うちの高い時給にでも釣られたか?」


 俺は、ははは、と曖昧に笑っておいた。

 高い時給につられた。まったくその通りでして……。

 本当は高い時給もらってもご免こうむりたい所なんですけどね。

 嫌でも来なければいけない理由があるわけで。


「それにしてもこの部屋……」

「落ち着くやろ」

「えっ!? え、まあ、そうですね……」


 人によって感じ方はちがうんだなぁ、と休憩室に散らばっているグッズの数々を見回した。


「うちは男が圧倒的に少ないんや。女の執事はわりといるんやが、男のメイドはほとんどおらんのや」

「えっ! じゃあ……社会人ですか?」

「お前……こんな高校生おるかぁ? これでも23歳や。一応大卒や」

「それは失礼しました……」

「あとプロの格闘家もやっとる。もっとも、収入を考えるとどっちのプロなのかよくわからんけどな」

「プロの格闘家がなんでまた……」

「俺は総合やっとるが、今の時代は格闘家じゃなかなか食べていけへん。テレビで放送していた頃は羽振りがよかったらしいが……。ホンマに生まれる時代が遅かったで。かつては格闘技いうたら視聴率が紅白を超えたこともあったんやけどな。自分、格闘技とかテレビで見たことあるか?」

「いえ、まったく……」

「そうやろなぁ。今どき格闘技なんてテレビじゃほとんど放送せんからなぁ」


 たしかに自分が憧れている業界全体が没落しているというのはショックなことだろう。


「でも、それだけ体格がいいならもっと他にいいバイトがあったでしょう。トレーニングも兼ねてできる肉体労働とか」


「ここは時給がええからな。それにトレーニングといってもただ闇雲に動けばええってもんやない。たとえば『超回復』というのがあって、1~2日経つとトレーニング前よりも筋肉の総量が増える。トレーニングには休息の時間も大切なんや」


「なるほど……。すいません。なんかメールの最中に邪魔しちゃって」

「ん? これメールちゃうで。ゲームやで」


 賢一郎さんは携帯の画面を見せた。

 それは、今流行りのアイドル育成ゲームだった。

 アニメ絵の女の子のアイドルが携帯の画面に映っている。


「そのゲームなら俺も知ってます。でも、お金かかるやつですよね?」

「もう3万円ほどつぎ込んどるなぁ」

「さ、3万……」


 その額を聞いた俺は、目眩をおぼえた。

 月の小遣いが2千円の俺にとっては信じられないほどの高額だった。


「え~っと、まず3万円という額がぶっ飛んでいるんですけど……」

「いやぁ。3万円くらいじゃ課金兵とは言えへんで。つぎ込んでいる人間は軽く6桁行くからなぁ」


 6桁といったら軽く10万は超える……。


「それ、一回のプレイにいくら取られるんですか?」

「自分、携帯ゲーム知らんのか」

「知ってはいますがプレイしたことは……」

「今どきめずらしい人間やな。21世紀の人間とは思えんで。言っとくけど、プレイ自体はいくら遊んでもタダやで」

「え? じゃあどうしてお金が……」

「お目当てのアイドルを手に入れるのや、育てているアイドルを強化するのにお金がかかるのや」

「はぁ……」

「ガチャやっとるけど、なかなか目当てのアイドルに当たらんからなぁ。これでずいぶんと金を取られる」

「そうなんですか」

「本当にいっぱいおるで。90人はおるし」

「げえっ……」

「いろんな種類のアイドルを取り揃えておるで。中にはゾンビなんてのもおるし」

「ゾ、ゾンビ……」


 ゾンビがアイドルって……。そもそもゾンビって成長するのかねぇ……。


「こんにちは!」


 後ろから声がした。

 元気いっぱいの芦名美馬だった。

 そろそろやってくる時間だと思っていた。


「ん? 自分もこの『トリアノン・ヌーヴォー』で働くのか?」

「はいっ! 芦名美馬といいます! よろしくお願いしますっ!」


 いかにもサッカー少女らしい爽やかな挨拶だ。


「妹子もよろしくね!」


 俺は、振り向かずに無言のままずっと背を向けていた。


「そうかそうか! 今日は二人もメイドが入ってくるなんて嬉しいなぁ。盆と正月がいっぺんにやってきたようなもんやで」


 賢一郎さんは大変上機嫌だった。

 が…………。


「すいません」

「なんや?」

「僕、女なんですけど」


 賢一郎さんはあっけに取られた表情で、まじまじと美馬の顔をみた。


「そうか? 自分イケメン顔やから全然気づかなかったわ」

「よく言われます」

「本当は男やけど俺をだまそうとしているとか、戸籍上は女やけど生物学上は男とか、そういうことじゃないよな?」

「違います」

「あらぁ。二人ともおはよう」


 深見さんがやってきた。

 人の良さそうな笑顔をうかべているが、男でメイド服を着ることを隠して俺を入社させようとしたのだから油断がならない。本来ならば今日ここで秘密を明かす予定だったのかもしれない……。


「みんなおはよう! 妹子くん、美馬ちゃん、衣装できたわよ」


 深見さんは白い大きな箱を抱えていた。中央のテーブルに置いて箱をあけると、中には『さかだと洋服店』でつくった執事服が一式入っていた。

 ずいぶんと立派な洋服だ。これが芦名美馬の着る服なのか。


「いま妹子くんのも持ってくるから」


 そう言って部屋を出ると、すぐにもう一箱持ってきた。

 何が入っているかは聞かずともわかっている。

 というか、開けたくないよそんなパンドラの箱……。

 その箱の中に『希望』が入っているとは思えないんですけどね。


「じゃあ、さっそくだけど」

 と、深見さんは賢一郎さんの背中をたたいた。


「賢一郎くん。ちょっと打ち合わせあるから、場を外して」

「はい」

「妹子くんと美馬ちゃんはここで服着替えちゃって」


 ちょっと待った……。

 え? ここロッカールームとかないんですか?


「いやいやいや、深見さん。男女が一緒の部屋で着替えるというのは……」


 深見さんも賢一郎さんも聞いちゃいなかった。

 二人とも部屋を出ようとする。

 わずか一瞬だが。

 深見さんの口元に邪悪な笑みが浮かんでいるように見えた。

 そして扉が閉まる。

 それはまるで俺の運命を閉ざすかのように……。



 部屋には美馬と俺の二人だけとなった。

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