5-4 繰り返しの喜劇

 あの頃のボクには、名前が無かった。あったのかもしれないけれど、忘れていた。そして、帰る場所も、仲間も無かった。いつも一人で夜を彷徨っていたから。

 彼女にも無かった。帰る場所や、仲間が。優しかった祖母は既に亡く、両親はいつも多忙で、彼女のことを省みようとはしなかった。

だからボクは、彼女の良き友人グッドフェローになれたのだと思う。二人でいるのはとても楽しかったし、いくら遊んでも、いくら彷徨っても、興味や好奇心が尽きることは無かった。ずっとずっと、一緒にいられるような気さえしていた。

全てを変えてしまったのは、やはりボク達の好奇心だった。

「交換をしよう」

「……交換?」

 思いつきは唐突だった。ボク達は「おばあちゃんち」にある寝室で目を覚ますと、いつもそうするように花の蜜と木の実の朝食をたらふく詰め込み、木の皮と花びらで編まれた外出着に着替えて、家の裏手に広がる広大な湖の畔を駆け回っていた。

 その湖は、では最も大きく、最も高貴な方が住まわれる場所だった。青く透き通った湖にたゆたうその乙女ヴィヴィアンは、願うのならば全てを叶えてくれる魔法の使い手であり。

ボクは、彼女と話をするつもりだった。

「君とボクを、取り替えるんだ」

 彼女の黒い睫毛が、幾度か羽ばたいて、

「……よく分からないんだけど」

「ボクは君を知りたい。君はボクを知りたい。だから、入れ替わるんだ。ボクは君になる。君はボクになる」

 それは素晴らしい考えのように思えた。少なくともその時は。

「……わたし、妖精になれるの?」

「そう。そしてボクは人間になれる」

 この頃にはボクも、彼女の笑顔が朝焼けに似た暖かみを帯びていることに気付いていた。その笑顔に惹かれてもいた。

 美しいものは好きだった。珍しいものよりも、ずっと。

「それ、すごく楽しそう」

「でしょ」

 ボクは頷いて、それから大きく息を吸った。

 歌を唄う。吐き出す息を旋律に乗せて、湖面に響かせる。

 雨粒の一つが落ちたかのような、微かな震え。一つ、二つ、三つ――波紋は瞬く間に増えていく。一つの波がもう一つの波とぶつかり、新しい波になる。その波は、やはりまた違う波と触れて、また形を変える。いつの間にか、水面に映っていた光が弾けて震え、意思を持って踊り始める。くるくる回り、ぴょんぴょん跳ねて、ふわふわ空を舞う。

そうして踊る光は、ついに湖の中心へと集い、輝きと共に形を得る。

渦巻く光条は、見ようによっては女に見えたかもしれない。あるいは、風にざわめくトネリコの樹のようにも。いずれにせよ、降り注ぐ陽の光さえ霞むような、強い輝きの正体をはっきりと見極めるのは、どうにも難しかった。

『――ご機嫌よう』

 彼女は語る。声でなく、意思でもない、何かの形で。

『良い歌だわ、ピスカ。また上達したかしら』

 その言葉は、例えるのなら春の芽吹きのように柔らかく、雪解けのように清冽だった。

「ご機嫌麗しゅう、女王陛下クイーン・メイヴ。お褒めに預かり恐悦至極に存じます」

 ボクは一度腰を折ると、隣に立つ少女に目配せをした。

「は、はじめまして、女王様。わたし、由紀です。浅野由紀と言います」

 彼女は緊張の面持ちで、ぎこちなく頭を下げる。

 光がぱっと弾けた。それは笑顔のように。

『まあ素敵なお名前。白雪スノー・ホワイトのようね』

 少女は少し不服そうな顔をしたが、敢えて何かを言い返したりはしなかった。

『今日はどうしたの、ピスカ。新しい恋人を紹介しに来てくれたのかしら』

 女王は囁きの代わりに、湖を囲う木々の葉を揺らす。

「ええ、そうです。それと、一つお願いがあって」

『お願い。お前が?』

 ボクは頷く。

「ボク達はもっとお互いを知りたいんです。だから、取り替えようかと思って」

 ほんの束の間、湖面が静かになる。

『――まあ。それはチェンジリング取り替え子になりたいということかしら』

 光の粒が、ふわりと宙を舞った。

『やはりお前は母親似なのね。以来だわ、そんなことを言い出したのは。お前も人間が好きなのかしら。好奇心には勝てないということなのかしら。この世が一つの舞台だといったのは誰? 繰り返しの喜劇は誰の望みなのかしら』

 彼女の言葉は、笑い声にしては冷たく、嘆きにしては随分と暖かかった。

何故だろう、とボクは考えた。その必要があった。

 彼女が興味を示したならば、願いは必ず叶えられるのだから。それが妖精女王だ。誰よりも天真で、誰よりも爛漫な、世界の王。

『後悔は? 無いのかしら。しないといえるのかしら』

 ボクは、隣に立つ少女を見た。彼女の眼が輝いていたのは、妖精女王の光が反射していたから、というだけでもないのだと思う。

「……恐れながら陛下。やりもせずに後悔は出来ませんよ」

 ボクは笑った。今にして思えば、その自信は一体どこから湧いていたのだろうか。

 不意に。女王を形作る光球の一つが、尽きない渦の軌道を外れた。緩やかな螺旋を描いて、ボク達の前に舞い込んでくる。

 溢れ出す燐光は徐々に薄れ、やがて中から小さな銀色が現れた。

 意匠といえば月桂樹が文字盤を囲っただけの、小さな懐中時計。鎖が風に揺れて、細やかな音を立てる。

「ならば、ピスカ、それを渡しておきましょう。同じ道を辿ったお前の母が、お前の為に遺したものです」

 ボクと少女は、不思議そうな顔でお互いを見やり、それから、ふわふわと浮かぶ銀時計に、手を伸ばした――

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