4-4 深い闇の底

 祥星学園大学の図書館は、国内でも有数の規模だと言われている。そもそも、こんな郊外に校舎が建てられたのも、蔵書保管場所の確保が理由の一つだという。蔵書数は約二百五十万冊。増え続ける資料をより良好な環境で収蔵する為、鉄筋コンクリート製十二階建ての新館が五年前に竣工された。

 古今東西あらゆる資料があると噂されているが、中でも人文系、特に神話や歴史、民俗学分野については、原語の資料なども充実しており、学外はもとより海外からも照会があるらしい。

 どうしてそんな素晴らしい施設があるのかといえば、初代学長である神宮司咲世子氏の盟友にして、創立当時の祥星学園大学――当時は祥星塾という名だった――で教鞭を執っていたソフィア・マルガリタ・フェアフィールド女史のおかげだという。彼女は、イギリス文化人類学の草分け的存在で、日本における民俗学にも大きな影響を与えたのだとか。図書館の成立にも、彼女の尽力があったことを考えれば、その蔵書の傾向にも納得が行く。

 とかくソフィア女史の学園への貢献は枚挙に暇がなく、その多大な功績を讃えて立てられたのが、現在は部活棟として使用されているソフィア・ホールである。

 そんなうんちくは、入学前にパンフレットで目にして以来、思い出すこともなかったのだけれど、今更になって僕は、かのソフィア女史への感謝に近い気持ちを感じていた。

 何しろこの建物に閉じこもっているだけで、レポートの一本や二本、安々と書き上げることが出来るのだから。

 誤字や脱字がないか、プリントを一通りチェックして、クリップでまとめるとメッセンジャーバッグにしまい込む。これで、週明けに提出期限が迫っているレポートのうち、最後の一本が終わった。

 拳を振り上げ、思い切り背中を伸ばすと、なんだか気持ち悪い声が喉の奥から溢れだす。

 先程、僕は安々と言ったが、少しばかり誇張が過ぎたかもしれない。いくら資料が充実していても、処理する人間が追いつかなければ、結局は同じ事だ。ちょうど向かいの壁に設えられた柱時計を見やると、いつの間にか、もうすぐ日付が変わる時刻だった。ソフィア女史にもう一つ感謝するとしたら、この長い開館時間を決定したことだろう。

 気になる書棚でも軽く物色して、早々に帰ることにしよう。今日はもう、何もしたくない。そんな気持ちで立ち上がったというのに。

 気付くと足が、そちらへ向かっていた。

 海外の民話や童話を集めた書棚の前。本の背には日本語もあるが、英語やフランス語、その他の外国語の方が多そうだった。これだけの数があると、目的の情報を探りだすのは少し骨が折れるかもしれない。

(チェンジリング、か)

 妖精とすり替えられた人の子。あるいは、人の子とすり替えられた妖精。その言葉が、妙に引っかかっていた。

(彼らはあるべき場所から引き離されて、そして、行く先を失ってしまった)

 明日香先輩を始めとする児童文学研究会の面々は、皆どこかに迷い込み、そして帰って来たといった。それは彼女自身が言ったように、似ているけれど、わずかに異なる物語だ。

 彼女達はどこへ迷い込み、そしてどうやって帰ってきたのだろう。更に言えば――本当に帰ってきたのだろうか?

 仮に、人とそうでないものが入れ替わったとして。果たしてどれぐらいの違和や摩擦が生じるだろう。あんな風に何もない世界で、人間は本当に生きられるのか? あんなにも破天荒な妖精達が、子供とはいえ人間に紛れ込むことができるのだろうか?

 疑問が脳裏を離れなかった。明日香先輩の勘を信じるなら、それは僕自身の問題でもあるのだから。

 ともあれ、まずは百科辞典で拾い上げた文献を探して、棚を流し見ていく。

 と。

「あ、ゆきちゃん」

 呼ばれて振り返ったはずなのに、そこには誰もいない。

「……あれ?」

 今のは、確かに泉の声だった。聞き間違えるはずもない。

 声がした方へと向かう。書架の切れ目から顔を覗かせて、僕は辺りを伺った。

 その時、何かが不意に、頬をついた。

「ひっかかったな」

 悪ぶって笑うその声も、間違いなく泉のもので。

 僕はその、余りにも無邪気で古典的な悪戯に、どうリアクションするべきか、しばらく考えこんでしまった。

「……あれ、ゆきちゃん、大丈夫? 痛かった? ごめんね?」

「うん。大丈夫。いや、全然。あの、痛くはないから」

 むしろ痛いのは心だ。

 呆れるほど真剣な泉の表情。

「じゃあ……何か、悩み事?」

「え?」

 彼女は眉間に指を当てて、小首を傾げながら、

「すごい、んー、って顔してるから」

 一瞬だけ、ものすごい渋面を作った。目の錯覚かと思うぐらいに強烈な。もしかして笑いを取りに来ているのか?

「……今度はきょとんとしてる」

「あ。ああ、うん、あの、ちょっとボーッとしてて」

 僕はとりあえず笑顔を作って、なんでもないと手を振った。

 果たしてそれで納得したのか、泉は小さく頷く。

「ゆきちゃんは楽しいね。色んな顔するね」

「そ、そうかな」

 君には負けるよ、と言ったら、彼女はむくれてしまうだろうか。そのぷくぷくとした頬が膨らんだら、今度はどんな顔になるのか。

 見てみたい。その顔を。それ以外にも、もっとたくさんあるに違いない、君の顔を。

 そう思った瞬間に。妖精達の領域フェアリーランドでの出来事が、鮮明に思い出される。乳白色の空と、古ぼけた家と、黒い翅の少女と、それから――

驚きと羞恥と感動を綯い交ぜにしたような、胸を引き絞る感情の渦が、僕の中に満ちる。

「……ゆきちゃん?」

 彼女の視線を避ける為に、思わずシャツの袖で口元を隠す。多分、今の僕は気持ち悪いぐらいに赤面しているに違いない。

「あの。ごめ、ごめん、その……なんか、恥ずかしくて」

 一瞬、泉は怪訝そうにして――それからすぐに、頬を赤らめた。

「……あは」

 しばらくの沈黙は、僕が生涯で味わったことがないぐらい居心地が悪く、それなのにいつまでも味わっていたいぐらいに柔らかいものだった。

 ほとんど義務的に、なんとか話題を捻り出す。

「う、あ、ああ、み、皆本さんは、どうしたの? レポート?」

「う、ううん。モチーフ探し。次のコンクールが近いから」

 はにかむ彼女の足元では、画集や写真集が山となっていた。見え隠れする景色や美術品の数々は、僕が見たこともないような輝きを放っている。

「……すごい量だね。運ぶの、手伝おうか」

 しゃがみこんで、本の重なりに手を突っ込むと。予想以上の重量に、軽く腰が抜けそうになった。

「えっ、だ、大丈夫、ゆきちゃん?」

「う、うん。なんとか……多分」

 笑ってごまかす。それでも冷静になれば、才子を抱えて走るよりは、遥かに楽だった。

「ありがとう、あの、ちょっと欲張りすぎちゃって」

 泉は僕が拾い切れなかった小さい版の本を抱えて、申し訳なさそうに呟く。

 僕は軽く頭を振ってから、強がりを言った。

「全然」

 喉元で押さえ込んだ本に眼を落とす。表紙には、細く尖った枯れ木に囲まれた、鏡のような湖の写真が使われていた。湖面にはうっすら霧がたゆたい、全体を染める青のトーンと重ねて、ひんやりとした静けさが世界を支配している。タイトルはアルファベットに似た、多分北欧辺りの言葉で綴られていた。

 思い出しがてら、口に出す。

「そういえば咲原さんに聞いたんだけど、皆本さんって、絵も描くの?」

 才子の言に従えば、泉はとんでもなく多才な芸術家になる。初めて出会った時は、信じられないほど精巧な砂の城を造っていたけれど。

「うん。絵も好きだよ」

「え、他にも何か?」

「彫刻とか立体も好きだし、写真とか映像撮ったり、お部屋の改装とか、あと……なんか、色々好き」

 言いたいことが伝わっているのかいないのか。彼女の笑顔に屈託はない。

「すごいね。本当に、マルチな人なんだ」

 僕は改めて感心した。

「えへへ。好きでやってるだけだから」

 好きだという気持ちだけで、あの『城』が造れるはずもない。努力か才能か、いや、その両方が無くては成り立たない作品のように思う。

 才子が嫉妬する――本人は認めないだろう――気持ちも分かる気がした。彼女は眩しい。

 書庫を横切って、入り口の鉄扉へと辿り着く。そこに、図書貸出用の端末が用意されていた。学生証をスロットに差し込んだ後、スキャナー部分に書籍をかざせば、手続き完了。

 泉が、アウトドアブランド製の巨大なリュックサックに本を詰めていくのを手伝う。

「よっこらしょっと」

 ちょっと年寄り臭い掛け声も、彼女が言うと可愛らしく聞こえる。実際、体格には不釣り合いなサイズの鞄を背負う彼女は、働き者の小人じみていた。

 出来れば代わりに背負ってあげたいと思うが、そこまでするのも差し出がましいような気がする。そもそも僕自身、調べ物があったのだから、素直に彼女とはここで別れるべきだ。しかし、折角の機会を逃すのも――かといって何に活用すれば良いのかといえば、そこまでの用意が無い訳で、ああもう、泉を前にすると、僕はいつもこうだ……

「あ。ねえ、ゆきちゃんは、合宿行くよね?」

 ふと、我に返って。

「合宿って……えと、サークルの?」

 果たしてそんなことを、児童文学研究会の誰かが言っていたような。

「うん、春合宿! 海とか山とか行って、みんなで遊ぶの! わーいって!」

 泉は両手を広げると、形のないものを抱え上げて見せてくれた。春の海に漂う静けさや、花々が揺れる山の香しさが、あたかもそこにあるかのように。

 それだけで、僕の心は俄に浮き立ってしまうけれど。

「それって、いつの話なのかな」

「うんとね……来週、か、再来週、ぐらい、かな?」

 急に頼りなくなった彼女の返事。どちらにせよ、僕にとっては同じ意味だった。

 ――児童文学研究会への体験入会は、明日の金曜日で、ちょうど一週間になる。そろそろ結論を出すべき時なのだろう。

 伸るか反るか。進むか退くか。

 考え込んだ僕の顔を、彼女は熊の巣穴でも見つけたように、恐恐と覗き込んでくる。

「……ゆきちゃん、バーベキュー、嫌い?」

 何の話だ。

「いや、そうじゃなくて」

「違うの? 楽しいよ、バーベキュー。わたしトウモロコシ焼くよ?」

 僕は一旦瞼を下ろし、軽く息を吐いた。

「明日で、体験入会終わるから」

 どうして自分から、こんな話をしなければいけないんだ。

 ようやく思い出してくれたのか、泉は少しの間、息を止めたままじっとこちらを見つめていた。

「……体験入会終わったら、ゆきちゃん、やめちゃうの?」

 そんな風に切り出されて、どう答えれば良いのか。言葉を探す彼女が少し青ざめていたのは、きっと息を止めていたせいだろう。

「なんで? 楽しくなかった? 妙さん怖かった?」

 僕は笑って首を振る。妙さんがこの場にいなくてよかった。

「いや、あの、なんていうか。迷ってるんだ」

「迷ってる?」

 まるで理解できない。泉の声音が、そう言っていた。

「何に? どういうところで、迷ってるの?」

 実際にそう問われて、言葉を探す。それは僕が、自分自身に問いかけることでもあった。

「……単位は落としたくないし、バイトもしようと思ってたし、その、他にも色々、やりたいことはあって。思ってたより、ちょっとこの一週間忙しかったし」

「うん」

 素直な相槌。

 なんだか僕は、自分が恥ずかしくなる。どうしてこんな言い訳のように、説明を重ねているのだろう。

「妖精の捕獲って、結構肉体的にハードでキツいし、危ないし、僕みたいなので務まるのかな、っていうか、務まってなかったんじゃないか、とも思うし」

「うん」

「咲原さんとか、明らかに僕のこと嫌ってるし、妙さん的にも、僕はいない方がいいんだろうな、って思うし」

 泉はあくまで真剣に、話を聞いてくれる。それが余計に、居心地を悪くさせた。

「……あと、まあ、その、他にも、色々」

 結局、逃げるように付け足して、それから僕は、彼女の顔が見られなかった。

「色々」

 オウム返しのようなその声だけに、返事をする。

「うん、色々」

 誤魔化しだ。それは自分がよく分かっている。大体の場合、問題はいつだって明白なのだから。ただそれを認められるかどうかで。

「……ゆきちゃんは」

 声の響きが変わったのは、泉が僕から目線を外したからだろう。見やると、彼女は考えこむように俯いていた。

「ゆきちゃんは、色々考えてるんだね。難しいね」

 足元の擦り切れた絨毯から答えを見出すように、じっと姿勢を保ったまま。

「わたし、いっぺんに色んな事、考えられないから、こういう時、よく分からなくなっちゃうんだけど」

 小さな両手が、彼女の迷いそのままに、ゆらゆら宙を掻く。丸みを帯びた爪と指の線。

「わたしは、いつも、やりたいことを色々やるばっかりで、だから、さいちゃんに怒られちゃうんだけど、その、ゆきちゃんは、違うんだよね」

 突然。

 泉の手が伸びた。

 僕の手をしっかりと掴んで、引き寄せるように。

「ゆきちゃんは、ちゃんとしなきゃ、どうしなきゃって、いつも言ってて。でも、どうしたいの、って。わたし、知りたい。ゆきちゃんのこと。ゆきちゃんは、どうしたいのって」

 自分の骨ばった指を、手の甲に浮かんだ筋を、指先で確かめられる。

 頬が熱くなった。心臓が爆発した。肋骨が折れた。ここから逃げ出したい。雄叫びを上げながら、どこか遠くへ走り出したい。

「わたし、不安だから。知りたい」

 恥ずかしいほどスパークする意識の奥で、冷静な誰かが、小声で囁いてくる。

 だから結局、お前は一体どうしたいんだ、と。

 そんなことは決まっている。初めから分かっている。でもそれでいいのか、それが正しいのか分からないから、僕は、

「僕は」

 続けようとした言葉を、吹き抜ける風が遮った。

 咄嗟に振り向いて――何故振り向いたのか、自分でもよく分からなくなる。

(……風?)

 何かがおかしい。ここは鉄筋コンクリートで作られた大図書館の地階で、もしも風が吹くことがあるとすれば、どこかの扉が開いた時の気温差ぐらいで。

 人気のない、真夜中の図書館の中心に立って。僕はじっと目を凝らす。

 どこまでも続く巨大な書棚の列の、その隙間に。

 黒い蝶々が、飛んでいた。

「――――」

 僕が何かを思う前に。

 辺りが闇に閉ざされた。

 いきなり、腕を引かれる。予想外の力で引きずり下ろされて転げそうになるのを、僕はなんとか膝でこらえた。

 振り返っても意味が無いことは分かっていたけど、とにかくそちらを向く。僕の手を握っていたはずの、泉の方を。

「皆本さん、大丈夫? 何か、躓いた?」

 ここと思う高さに向けて、訊ねてみる。蛍光灯が消えた地下室の暗さは、夜の森をも上回っていた。何も見えないどころか、何も感じなくなってしまいそうなほど、深い闇の底。

 彼女の小さな手を、強く握り締める。力のない掌は、何の手応えも感じないほど柔らかい。

 その感触が、肌の上を戦慄として走り抜ける。

「皆本さん? ――皆本さんっ」

 応えは無い。手探りで、彼女の位置を確かめる。程なく、あの波のように柔らかくうねる髪に指先が触れた。そこから肩を探り当てると、上半身を抱き上げる。

「皆本さん!」

 今度の静寂は、耐え難いほどに暗く、虚しかった。あの呑気な声が、どこからも聞こえてこない。

 信じ難いことに――僕は、溢れそうになる涙を、なんとか息を呑んで押し留める。

「皆本さん。皆本さん」

 呼びかける。呼びかける。呼びかける――

「――お待たせ。グッドフェロー」

 声。泉のものではない。

「満月だよ。わたしたちの時間だよ――」

 薄く緑に光る鱗粉が、きらきらと僕の視界を掠める。

 やがて。

 照明は、復旧したけれど。腕の中の泉は目を閉じたままで、黒く美しい蝶の影はどこにも見つけられなかった。

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