4-3 ありもしない理想郷

 『理想郷仮説』――と椿教授はメモしていた――は、僕にとって奇妙な因縁を感じさせる考えだった。

 もし仮に、それが本当だとしたら。僕はそうと知る前から、妖精と関わり、フェアリーサークルに出入りしていたということになる。誰に話しても理解してもらえなかった、僕自身忘れていた、子供の頃の不思議な体験が、事実だったと証明されるかもしれない。

 彼女・・は僕の空想ではなかった。事実そこにいて、僕は確かに孤独ではなかったのだと。

 二十歳にもなってそんなことを他人に語るのは、かなり勇気が必要だった。それと、勇気を後押ししてくれるアルコールも、結構大量に。

 流石にうんざりした顔で、明日香先輩が肩をすくめる。

「分かった分かった。君の友達・・は確かに実在したんだ。そうだ、そうだな」

 言い終わる前に新しいタバコを咥えて火を点けると、彼女は静かに紫煙を吐き出した。

「そうなんですよ。あの子は。本当に、いたんです。僕の妄想じゃなかった!」

 自分でも、何度同じ事を言ったのか分からなくなっている。黙れば良いのは気付いていたが、一度滑り出した口は、そう簡単に止まってくれなかった。

「なんかこれ、すごくないですか。偶然にしたって出来過ぎてる。十五年前の話なんですよ、僕が彼女と遊んでたのは! 毎日のように、二人でずっと遊んでいて、いつの間にか会えなくなって、そのまま忘れてて、でも、それが今になって急に出会うなんて! ありえないですよ、本当に」

 客観的に見れば、大したことでないのは、僕にだって分かってる。友達の友達が近所に住んでました、ぐらいのことなのだと思う。僕自身、実験に巻き込まれるまでは思い出しもしなかったような、言ってみれば他愛のない思い出話に過ぎない。

「彼女、言ったんです。満月の夜にまた遊ぼうって」

「あー。しかし、なんだ。ゆきちゃんの昔の話って、初めて聞くね」

「ええ? そうですか?」

 無駄に声がでかい。いや、声を出しているのは僕なんだけど。この暴走は、きっと場所のせいに違いない。

 嵐ヶ丘駅前のしらゆり通りは、大小の飲食店が軒を連ねる飲み屋街だ。中でも僕らが入った花札屋は、安い広い小汚いと、サラリーマンはもちろん学生にも人気の老舗らしい。学生が客のほとんどを占める平日は、異様な熱気と興奮が店を満たしている。

 僕一人だったら、きっと寄り付きもしない場所だった。常にどこかの席から聞こえるイッキ飲みコールの荒っぽさに比べれば、僕の熱弁なんてまだまだかわいいとさえ思う。

「いや、なんていうかさ。あんまり、自分のこと話さないだろ、君」

「ああ。別に、面白い話でもないですし」

 言ってから、少し動揺した自分に気付く。何かを見透かされたような、気付かないうちにもっとたくさんのことを見透かされているような気がして。

 僕はこの人達を、どこまで信用すればいいんだろう。

「出身、どこだっけ。関東?」

「はい。神奈川の、田舎の方です」

 明日香先輩は、分かったのか分かっていないのか、曖昧な声を上げる。

「二年生だったよね。もう二十歳か。浪人とかはしてないんだっけ?」

「ええ、まあ」

 僕は、半ば浮き上がっていた腰をソファに下ろす。

「兄弟とかは? いるんだっけ?」

「一人っ子です」

「あ、分かるわ。ワガママだもん、ゆきちゃん」

 面と向かってそう言われると、何かしら切り返したくもなる。

「先輩は、上に兄弟いるでしょう」

「おっ、鋭いねー。姉が二人。甘やかされ放題の三女さ」

 彼女はくつくつと笑った。何故だかふと、仲の良い三姉妹なのだろうと直感する。

「いいなあ。僕も、姉が欲しかったんです」

「あっそう。妹じゃダメなの?」

「嫌ですよ。僕よりワガママな人間なんて」

 ただでさえ、自分のことで精一杯だというのに。

 明日香先輩は、聞いたこともないような音でビールを噴き出すと――ぽぴょっ、みたいな音だ――、しばらく震えながらテーブルに突っ伏していた。

 ようやく起き上がってくると、目尻に浮かんだ涙を拭いながら、彼女は呟く。

「ま、確かにねー、そりゃそうだわ」

 どうやら相当な笑いが彼女の中で巻き起こったらしい。そのツボが、いまいち分からないのだけれど。

「まあその、あれだよね。ゆきちゃんが年下嫌いな上、女子大生――っていうか泉のたわわに実った果実にも興味が無いストイックなダンディガイだってのは分かったんだけどさ」

「それ、引っ張りますか」

「まあその、色々な奴がいるから。興味ない奴、興味ある奴、それから――そういうのが、苦手というか、まあ、不器用な奴」

 結局、明日香先輩はその話をしたがる。

「才子もね。まあ、中学生じゃないから、色々分かってる部分もあるんだろうけどさ。どうしても、奥手というか。過剰反応しちゃうところがあってさ」

 同年代の女の子どころか自分の気持ちさえ掴めない僕に、あの複雑怪奇な人の機微が分かる訳がない。

「だからって、なんで殴られないといけないんですか」

 しかも握り拳で。

「……それはまあ、確かにあいつが悪いよ。うん。悪いんだけど。あのー、まあ、ツンデレ? っていうか、嫉妬心っていうか」

 僕は黙ったまま、明日香先輩を見つめていた。ともすれば、睨んでいるようにも見えたかもしれない。

 煙混じりの溜め息。

「……いや、君もアレだね。結構めんどくさい人間だね。いや、悪い意味じゃなくてね?」

 言われなくたって、自分自身そう思う。僕は付き合いづらい人間だ。

「……話、戻るけどさ。ゆきちゃんって、子供の頃、どんな感じだったの?」

 急な転換。

 問われては答えないわけにもいかず、僕は少しだけ答えを探した。

「暗い子でしたね。身体が弱くて外で遊べなかったから、ずっと家で本を読んでました。友達もいなかったし」

「インナースペース大好きっ子だ」

 そんな風にからかわれることには、もう慣れている。少し表情が固くなるぐらいで切り替えせるようになったのだから、我ながら大した進歩だ。

「ダメですか?」

「ダメっていうか……ああ、いや、そのね」

 先輩は長い髪をぐしぐしとかき回す。大人しくなりかかっていた寝癖が、目を覚ました。

「別に、馬鹿にしてるわけじゃないんだ。というか、むしろ、納得してるっていうか」

「……どういうことですか」

 ジョッキに口づけて、多めにビールを飲み下すと、彼女は再びこちらに目を向けた。

「チェンジリングって、聞いたことある?」

 耳慣れない単語。僕はまたしても首を振ることしかできない。

「これはヨーロッパの伝説みたいなものなんだけどね。取り替え子、つまり、妖精とすり替えられてしまった子供のこと」

 僕は頷きながら、なんだかんだと言いながら、最も児童文学研究会員らしいのは、結局明日香先輩なんだな、と思ったりする。

「取り替えられてしまった子は、妖精の世界に連れて行かれてしまう。逆に、子供の代わりに残された妖精は、まあ色々なケースがあるんだけど……大体ろくな目に合わない。代表的な例で言うと、環境が合わないせいで酷く病弱だから、すぐに死んでしまうとか。他にも、妖精を嫌う人達によって拷問されたり。昔は子供の死亡率が高かったから、残された親を慰めるために生まれた伝説だ、なんて話もあるんだけど」

 つまり、の世界で死んでしまったのは偽物の子供で、本当の子供はの世界で元気に生きている、という訳か。

「……残された人の気持ちは分かりますけど、子供にしてみれば、なんとも言えない話ですね」

「まあ、残念だけど、死人は何も語らないからね」

 明日香先輩は、テーブルの上ですっかり大人しくなった焼きうどんを、ずるずるとすする。僕は手持ち無沙汰になって、なんとなく手の中のグラスを弄んだ。

私達・・はさ。みんな、多分それなんだ」

「……え?」

「チェンジリングによく似た経験をしてる。つまり、子供の頃、どこか奇妙なところへ連れて行かれて、そしてどういう訳か、へ帰ってきた」

 突飛な話だと思った。けれど、僕はすんなりとそれを受け入れることが出来た。

 妖精の実在を、彼らの国を目にしたのだから。チェンジリングだけが虚構という事もないだろう。

「……帰ってきた、んですね」

「ああ。でも、不思議な感じでね。みんな、元の居場所に馴染めなかった。別に、が好きだった訳じゃない。けど、も同じだと気付いてしまったんだ」

 まるで自分が異邦人のようだと感じる。ここはいるべき場所ではないと。かといって、どこかに居場所があるわけでもないと思う。

 僕にも憶えがあった。

 年を取るにつれて少しずつ忘れていくようで、ある時思い出したように心を揺さぶる奇妙な感覚だった。目前の現実から、全てが遊離していくような。虚しいことと知りながら、ありもしない理想郷に思いを馳せてしまう。

 それはただの現実逃避に過ぎないと、思っていた。

「児童文学研究会に居着く連中から話を聞くとね。大体みんな、そんなことを語ってくれる。誰かが集めた訳でもないのに」

「……前に、言いましたよね。僕に、向いてるって」

 見つめる。視線を逸らしたのは、明日香先輩の方だった。

「なんとなくね。君もそうなんじゃないかって気がしたんだ。人の輪に入れない、寂しい人っていうか。そういう人の前に、妖精は現れるんだよ」

 妙に素っ気なく、彼女が言う。

 ふと気付く。多分彼女は、僕を見透かしているわけじゃない。いや、少しは見透かされているのだけど、それだけではなくて。きっと、僕の中に、自分自身を見ているんだろう。

 そのまま、二人無言で酒を傾ける。

 カシスオレンジの赤を透かしたグラスの肌には、無数の水滴が浮いていた。

 思い浮かぶのは、メンバーの顔だった。ふわふわと笑う泉。睨みを利かせる才子。呑気に煙草をふかす明日香先輩。静かに腕を組んだ妙さん。健気に微笑む志乃ちゃん。

 彼女達は皆、一丸のチームだと思っていたけれど。

「まあ、そんな訳でさ。確かに才子は、ちょっと――若干、結構、やや面倒くさい女の子なんだけどさ。あれで可愛いところもあったりするから。少しだけ優しくしてあげてよ」

 そう言ってから、明日香先輩は小さくなっていた煙草をもみ消し、新しい一本を咥える。

 僕は、なんとなく、テーブルの上に置いてあった百円ライターを掴んだ。

 明日香先輩が、器用に片眉を吊り上げる。

 何度か親指で擦ると、ライターに青い火が点った。

「どうぞ」

 それを、彼女に差し出す。

「ありがと」

 彼女が少しだけ、口を突き出した。白い紙巻の先端が、赤く光る。

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