4-5 妖精達の領域
その場で僕を安心させる唯一の要素は、眠る泉が服を着ていて、なおかつその身体に毛布がかけられていることだった。
祥星学園大学嵐が丘キャンパスの隅にある理工学部の実験棟、その地下にある立花研究室のさらに隅。二人がけの黒い革張りのソファに横たわる彼女の傍で、椿教授はやはり冷たい顔をしていた。
「体温、脈拍、呼吸はいずれも正常。外傷もない。カメラを通すと、姿が確認できない。状況を総合すると、先日の実験と同じく『向こう側』に飛んでいる可能性が極めて高い」
観察記録を読み上げるように、淡々とした言葉。
「昨日の実験と同じ状態であれば、そろそろ目を覚ますはずだが――」
見ての通り、泉の瞼は閉ざされたまま。
その顔は眠っているというには、どうにも生気が抜け落ちているように見えた。苦悶どころか、表情筋の一本まで力が抜けてしまっている。
不吉な予感が、僕の脳裏をよぎった。
「なるほど。一度開いた
コートのポケットに両手を突っ込んだまま、明日香先輩は泉の顔を覗き込む。
「確かに、これは寝顔というより……どちらかというと死に顔っぽいな」
普通だったら思ってても口に出さないようなことを、彼女はあっさりと言ってのけた。
「そんな、やめてくださいよ、明日香さん」
才子が抗議の声をあげる。けれど、言葉に力がない。
妙さんは曖昧に首を振った。
「いまいちよく分からないんだけど。そもそも、浅野君達が見た景色は、本当に、異世界? 妖精の国? なのかしら」
そんなお伽話みたいな、ともっともな意見まで付け加えてくれる。
「実験後に記録したゆきちゃんと泉のインタビューの内容は完全に一致している。異世界でなければ精神感応による共同幻想か。こちらもなかなか興味深い仮説だが。どちらにせよ、そこにいる間は、こちら側では完全に意識を失った状態だ」
教授の沈着ぶりを見ていると、この状況も実験か何かの一つに思えてくるから不思議なものだった。ただ、彼女の仮説が正しいとした場合、導き出される結果は、空恐ろしいものになってしまう訳だが。
「……このまま目が醒めないと、泉さんは、どうなるんですか?」
問いを発した志乃ちゃんの顔に、いつもの愛らしさはなかった。その幼い造作が固くなると、むしろ一層真剣さが際立つ。
椿教授は脚を組むと、握り拳で細い顎先を支えた。
「一種の植物状態だからな。栄養や水分の補給など、相応の処置を行えば延命自体は可能だが。意識を取り戻さない限りは、ベッドの上だ」
静かな宣告。
沈黙が部屋を包んだ。真綿のように柔らかくて、ゆっくりと締め上げていくような。
明日香先輩の眠たげな眼が、一層細められる。
「童話だったら、王子様のキスで眼が醒めるところだけど」
言いつつ、横目で僕を見てくる。
「……その場合、今度は僕が眠る可能性が高いんじゃないですか」
もちろん才子の手によって。しかもおそらく、永遠に。
「ていうかなんであんたが王子様なのよ。馬鹿じゃないの」
冷たい声音で、才子。その指摘は適切だろう。しかし、明日香先輩はニヤニヤと笑いながら、
「お姫様抱っこされてた奴が言っても、説得力無いよなあ」
才子の顔が、一瞬にして真っ赤になる。ああもう。火に油を注ぐのはやめてくれ。
「馬鹿なこと言ってる場合じゃないでしょ、明日香」
当然、妙さんは真面目だった。
「一番高い装備が壊れたら、その損失、どうするつもりなのよ」
メンバーの命はプライスレス。あの時は、単なるジョークだと思っていたけれど。
明日香先輩は肩をすくめて、椿教授に向き直る。
「先生。“エッセンス”、まだあるよね」
教授が頷くや否や、畳み掛けるように。
「ちょっとだけ、分けてくれないかな。もちろん、出すものは出すから」
彼女の物腰はいつものように緩やかだった。けれど、言葉には意志がこめられていた。
「……まだ十分に検証した訳ではないが。恐らく、“エッセンス”だけでは、あちらに行く事はできない」
傍らのディスプレイに表示された実験記録ちらりと目を向けて、それから、椿教授がこちらを見る。
「この現象は、ゆきちゃん――君が実験に参加することで、初めて確認されたものだ」
「……え」
間の抜けた声。心臓が跳ねたような気がした。
「泉の他にも、これまで何度か同様の実験を行ったが、その結果は、新陳代謝の鈍化や妖精に対する感応性の向上が精々だった。意識を失ったり、カメラの画像から消えたりしたことは一度もない」
教授が椅子をくるりと回し、身体ごと僕の方へ向き直る。
「得られたデータからの推論として、君が持つ何らかの因子が、
鍵? 僕が?
「君には、特異点に対する高い同調性があるようだ。いや、同調性で言えば泉の方が遥かに高いが……感受性、影響を受けやすいと言えばいいか。連中に呼ばれやすいんだ、君は。エッセンスに触れることで、一気に向こう側へ引きずり込まれたんだろう。もしかしたら、泉の高い同調性と影響し合うことで、何か特別な現象が発生したのかもしれない」
いつの間にか、口の中が乾いていた。声を出すだけなのに、妙な労力が必要だった。
「……つまり、皆本さんが目を覚まさないのは、元を辿れば僕が原因ってことですか」
それは、ぞっとしない結論。しかし心の何処かで分かっていたことだった。
「君は言ったな。向こう側で、古い
言葉はひんやりと、肌を粟立たせる。
間違いない。
どうしてだろう。いつかこんなことが起こるんじゃないかと、心のどこかで予想していた気がする。そして、そうなれば、僕はまた一人に戻って、寂しさと引き換えに気楽さを手に入れることが出来るんじゃないかと。
明日香先輩の瞳に、泣きそうな顔をした僕が映っていた。彼女の目はいつも半分閉じられているけれど、しかし見るべきものをきちんと見抜いている。僕にはとても、かわせそうにない。
「ゆきちゃん」
「……すみません、明日香先輩。皆さん」
僕のせいで取り返しのつかないことに、なんて、わざわざ言うだけ白々しい。謝罪したところで、取り返しはつかない。
「……あー、その、なんだ」
コートのポケットをまさぐりつつ、明日香先輩が言う。
「いや、責任を感じるのは、それはそれで構わんのだけどさ。この場合は、原因と責任が必ずしも一致しないっつーか。なあ、才子?」
急に話を振られて、才子がたじろいだ。
「はい、あの、ええと……べ、別にあんたは悪くないっていうか、誰も、っていうか、あたしはあんたを責めるつもり無いし」
彷徨う彼女の視線を、妙さんは見ないふりをした。
受け止めた志乃ちゃんが、僕の肩に手を伸ばしてくれる。
「浅野さん、しっかりしてください。今大切なのは、泉さんを助ける為に、あなたが鍵になるってことなんです」
失礼な話だけれど、彼女の小さな手に慰められると、余計に情けない気持ちになる。
でも、彼女の言う通りだった。責任を感じるだけでは意味が無い。まずは責任を果たさなければ。そうして、その後に。
僕は一度だけ、奥歯を噛み締めた。
「……はい。僕が行きます。行って、皆本さんを連れて帰ります」
椿教授は三本の指を立てて、僕にかざしてくれる。逆の手で、順番に指先に触れながら、
「問題は三つある。もう一度“エッセンス”に触れたとして、泉がいるのと同じ
僕は黙ったまま、続きを待つ。
「この全てに答えを得ない限り、君の目的達成と生還は保証できない」
その通りだ。
そしてその回答を得るのに、どれぐらいの時間がかかるのか。
きっと、教授にも分からないに違いない。
「……向こうには、妖精がいるんですよね。多分、温厚な妖精も、危険な妖精も。とにかく、待っていれば待っているほど、皆本さんが無事に帰って来られる可能性は低くなる」
僕は、鉛を飲み込むような心地で、口を開く。
「前も戻って来られたんです。多分、今回も大丈夫ですよ」
根拠はない。でも、そう考えるしかない。
「――教授。もう一つ、問題があります」
割り込んできたのは、妙さん。首に巻いた絹地のスカーフを摘んで。
「服や装備を
何の話をしているのか、分かるようで分からなくて、一瞬、言葉を無くしてしまった。
「えっ?」
妙さんは肩越しに、こちらをちらりと見やる。
「言ったでしょう。アナタ一人で出来る事は限られてる」
今回は、はっきりと分かった。
彼女は怒っているのではない。僕に理解して欲しいのだ。
その言葉の意味を。
「おい、気をつけろよ、妙。ゆきちゃんはアンダー20には興味のない年上専門らしいからな!」
明日香先輩がニヤニヤと言ってのけると。
どういう訳だか、全員の表情が固まった。
物音一つしない。まるで時が止まったかのような。
そのまま止まればいいのに。止まってくれ。永遠に。
「……え、ちょ、なんですか、この空気」
言葉はまるで湖面を揺らす投石のようで、静寂を際立たせることしか出来ない。
氷点下の眼をした才子と、控えめに言ってもドン引きの妙さんと、おっさんじみた笑顔の明日香先輩と、どういう訳か頬を赤らめた志乃ちゃんと、やはり表情を変えない椿教授に囲まれて。
僕は今度こそ泣きそうになった。
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