Chapter.5 ムーンリット:ムーンカーフ

5-1 そしておかえりなさい

 奇妙な、夜だった。

「……ここが」

 夜空が青く染まるほど大きな満月が、見渡す限りの草原を淡く煌めかせていた。足首が埋まるまで伸びた雑草の中には、白や紫の百合らしき花が混ざり、風が吹く度に耳の奥をくすぐるような囁きを奏でる。

あの微睡むような淡い天蓋はどこにもなく、剥き出しになった月の光は、痛々しいまでに強く眩しい。

「ここが、妖精達の領域フェアリーランド……か?」

そう呟いたのは、明日香先輩だった。

「少なくとも、フェアリーサークルの中ではあるようね。時計が止まってる」

 答えたのは妙さん。左手首のカルティエに目を落とし、嘆息を漏らす。

 僕は何も言わず、辺りに視線を彷徨わせた。ここにいる誰よりも、僕がそれを疑っていた。は僕が知っている場所とは、余りにも違う。

“エッセンス”に潜り込んで、しばらく。気付くと僕らは、そこに立ち尽くしていた。

広い草原の中で僅かに盛り上がり、小さな丘を成している場所。地面から突き出した石柱は、大小の違いこそあれど、等間隔に並んで円周を形造る。それをストーンヘンジと見たてれば、ここはいかにもフェアリーサークルらしい。

歪な玄武岩に囲まれた中心で、僕は耳を澄ませる。清かな風に紛れて、ひそひそと聞こえる声があった。

「――聴こえる。妖精達の声だ」

 何故だろう。今までにないぐらい、僕には確信があった。そんなの分かるはずがないと、思っていたのに。

「……あたしは全然聞こえないけど」

 才子は憮然とした顔で言いながら、担いでいたマウンテンバイクを下ろす。艶やかなイエローに塗られたアルミのフレームが、眩すぎる月影に映えた。

「とにかく急ぎましょう、明日香さん。何があるかわかりませんから」

 僕の安全帽とは違う、洗練された流線型のレーサーヘルメットの顎紐を確認すると、ゴーグルを下ろす。それが才子のスタイルだ。

「だな。手分けして泉を探そう。志乃と才子、私と妙とゆきちゃん――」

 その必要はない。僕は直感していた。

「あっちです」

 思ったままに、指で示す。

「あっちから大きな声がします。近づいてくる」

悪戯に並べられた岩の中で、もっともそれらしく積み上げられた一組――長方形の岩石を二本、その上に一本の石を渡して、門のような形になった玄武岩を、僕はじっと見た。

「……僕らに気付いてる」

全員の顔に、緊張が走った。

「歓迎だったら嬉しいんだけど」

 そんなことを独りごちながら、妙さんはグローブの手首を固定するベルトを確かめる。それは、砂鉄入りのオープンフィンガーグローブという物騒な代物だった。強く握れば砂鉄が硬くなり、骨ぐらい簡単にへし折れる。その上、“冷たい鉄”製の鋲までつけて、それこそ紛うことなき戦闘スタイルだった。

「いつも手荒いですからね」

 応じる志乃ちゃんは、体躯に不釣り合いな大振りの和弓を構えている。僕だったら、多分弦を絞るのにも苦労しそうな。

「そもそも、話が通じる種類かどうか、ってとこだな」

 明日香先輩が、ライターの火打石を何度か弾く。やがて彼女の煙草に火が灯る頃には、ここにいる全員が妖精の存在を肌で感じ取っていた。

意思を持っているかの如く吹き付けてくる風。踊るように、舞うように、待ち構える僕らをからかうように。

都合四度目の邂逅にして、僕はようやく気付いたことがあった。妖精達と接触する時、必ず不思議な感覚に襲われる。肌を泡立たせ、胸を締め付けるような。言葉に出来ない記憶の欠片が脳裏をよぎる。

「――ようこそ」

 聴こえてきたのは本当に歓迎の言葉で、僕は面食らう。

唸りさえ上げて風が吹き抜けると、いつの間にかそいつはそこにいた。

薄く透き通った蜻蛉の羽根は、月光の中に鱗粉を漂わせる。そうして見ると、それはまるで星々の間に浮かぶ星座の幻影のようでもあった。

「そしておかえりなさい、グッドフェロー。待っていましたよ」

ピクシー。疑いようもない、正真正銘の妖精。童話に語られるそのままに、中空を漂う少女。リリパットよりも格段に小さい――実際、掌に載せられそうなぐらいに。金髪碧眼の美貌は、まるで野に咲く一輪の花だった。気付かなければ踏みつぶしてしまってもおかしくない、という点においても。

「……君は」

 誰だ、と訊ねるのもおかしな気がした。彼女達に個人の名前などあるのだろうか?

「問いかけですね、グッドフェロー。それがあなたの考えた新しい遊びかしら?」

 笑う。何が楽しいのだろう。確かに妖精達は笑いを絶やさない。もしかしたら、首の無いデュラハンでさえも。

「そうですね。私はあなたを導く一羽の鳥。風と雲の間を泳ぐ魚。ベルに呼ばれた召使いメイド。そんなところでしょうか」

 きらきらと光を撒きながら、「召使い」はくるりと夜を舞う。

「メイドさん。一つ、訊いてもいいかな」

 僕は口を開いた。慎重に、けれど躊躇はせずに。

「なんなりと、グッドフェロー。私はあなたの忠実なる下僕です」

「女の子を知らないかな。少し前に、来たはずなんだ。ちょっと辿々しくて、優しい人が」

 もう一度宙返りを打って、それからピクシーは僕の鼻先へと滑り込んで来た。裏側でも覗きこむように、僕の眼をじっと見つめて、

「その子の髪の色は?」

「黒かな」

「その子の眼の色は?」

「黒だよ」

 マーガレットの花が開くように、ピクシーが笑顔を作る。

「まあ、素敵。黒は夜の色だわ。夜は女が輝く時間。真夜中の乙女、湖の貴婦人、魔女の条件。そうですね、前に魔女ニュクスがいらしたのはいつ頃だったかしら?」

 僕は無言のまま、彼女を見つめた。戯言や言葉遊びに付き合っているほど、余裕は無い。

「そんな眼をしないでください、グッドフェロー。あなた、まるで飢えた狼みたい」

「お願いだ、教えてくれ」

「あなたがそう訊ねたなら、こう答えなさいと、は言っていました――求めるならばまずは与えよ。夜が来たなら、月は顔を見せるべき、と」

 今度は謎かけだ。僕は持てる自制心のほとんどを駆使して、深い溜息をついた。

考えるまでもない。多分、はこう言いたいのだ。

(皆本さんの無事は、僕と引き換えだと)

 これはきっと、にとってはあの頃と同じ、遊びなのだ。折角良いおもちゃを見つけたから、少しばかり手の込んだ遊びの誘いを出すことにしたのだろう。

「……それなら、僕はこう言えばいいのかな。招きに応じ、月は中天に現れた。次は星々が瞬く番だ」

「良い答えです、グッドフェロー。もきっと喜ぶわ」

 ピクシーは満足気に、頷いてみせる。ゆったりと、けれど片時も休むこと無い羽ばたきから、一際多くの鱗粉が零れ落ちた。

僕はまた、あの奇妙な感覚に襲われる。胸を掻き毟りたくなる衝動に代えて、伸ばされたピクシーの手に触れる。指先で、ほんの僅かに。

「――――」

たったそれだけで、世界は闇に落ちた。

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